−13−

 地上から伝わってくる夕暮れ時の街のざわめきを耳にしながらイスにもたれかかって晴樹は考え続けた。
 あれが白SARAHの警告していたことなのだろうか。だが、あの中にSARAHという名のキャラはいなかった。最初のスリは分からないが、後の四人は間違いなく別人だった。黒SARAHではありえない。とすると、SARAHが言っていたのとは全く関係のない出来事だったのだろうか。
 どちらにせよ、これは白SARAHの忠告を無視した罰に違いない。こんな時、KUROROがいればいらぬおせっかいでいろいろ言ってくるに違いないのだが、今日は結局会えずじまいだった。まったく肝心な時にいないのだから、と晴樹は自分勝手な理由でいつもは疎んじている相棒に腹を立てた。
 これからどうすればいいのか。どうしたいのか。いくら考えても答えは見えてこなかった。
 晴樹は考えるのに嫌気がさしてイスから立ち上がった。
 冷蔵庫のドアを開けてみて晴樹はため息をついた。見事なまでに空っぽだった。三日前にコンビニへ行って以来、サーティワン・キングダムに夢中で中身を補給することをすっかり忘れていたのだった。
 母親に補給を頼もうとして、買い物に行ってくるというメッセージが先ほど画面に出ていたのを思い出した。
 誰も彼も晴樹が必要とする時にはいなくなってしまうようだった。
 部屋の外に出ると、家の中は物音ひとつしなかった。
 狭い廊下を歩きながら晴樹は思った。夕暮れ時の家は、夜中以上に寂しい、と。
 母親と自分だけしかいない家はどこかバランスがおかしかった。靴べらがない、ヒゲそりがない、臭いヘアトニックがなく、灰皿がない。父親が昼間家にいないのは普通だとはいえ、その痕跡がかけらもない家というのは、やはり晴樹を打ちのめした。その元凶は間違いなく晴樹自身なのだから。
 台所のテーブルの上はやたらと散らかっていた。母親のノートパソコンと山積みの資料で皿を置く場所もない。その様は、食卓は食事をする場所、という定義をきっぱりと拒絶しているように思えた。
 晴樹は台所の大きな冷蔵庫の分厚いドアを開いて中を物色した。そこにも以前のようなにぎやかさを見ることはできず晴樹はうなだれた。かろうじて麦茶のボトルを見つけ、それを素早く取り出しドアを閉じた。電気代の節約だ。
 シンクの隣にあった新しいグラスをとってそれ一杯に薄茶色の液体を注いだ。季節外れの麦茶を一気に飲み干すと、少しだけ気が紛れた気がした。もちろん、それが錯覚であることはよく分かっていた。
 空のグラスをテーブルの上に置くと、母親のノートパソコンに目がとまった。母親がそれに向かい合っている姿は小さい頃から晴樹の目に焼き付いていた。毎日お話を書き上げた分だけ読み聞かせてくれる母親が晴樹は好きだった。話の続きをおねだりする晴樹を母親は暖かい笑顔で包んでくれた。幸せだったのだと今にして思う。
 母親は今でも物語りを書いているのだろうか。そう思うと晴樹は急に気になって、半開きになっていたノートパソコンの画面を起こしてみた。
 電源はついたままだったが、画面に表示されていたのは晴樹の予想とは全く異なるものだった。てっきり、文字で埋め尽くされたワープロソフトの原稿があるものとばかり思っていたのだが、そんなものは見あたらなかった。
 あったのは、サーティワン・キングダムのタイトル画面。
 晴樹は理解に苦しんだ。晴樹の知る限り母親はゲームなどには全く興味がないはずであった。なぜ母親のパソコンにこんなものがインストールされているのだろうか。晴樹の中で嫌な予感が膨らんでいった。
 胸の詰まる思いで晴樹はログインボタンをクリックした。
 接続画面、認証画面を経て、画面がふるえ、サーティワン・キングダムの世界がノートパソコンの小さな画面一杯に広がった。
 そこは、見覚えのある場所だった。ベルズウェイクの首都ラッカ。間違いない。
 そして、画面の中央でプレイヤーの指示を待って立っているキャラクターは、あの愛らしいニームの小人、KUROROだった。
 どういう、ことだ?
 おそるおそる十字キーを押すと、画面の中のKUROROはそれに従ってとことこと歩き、そして、止まった。
 晴樹は呆然と画面を見つめ、思考を組み立てようとした。それは、つまり、母親はサーティワン・キングダムをプレイしていて、キャラクターはKUROROを使っているということで……確かに、晴樹は母親にサーティワン・キングダムのソフトを買いに行ってもらったが、その時に母親は自分の分も買って来たのか……しかし、HARUが晴樹であることを分かっているはずが……いや、いつも晴樹のログインに合わせるようにやって来て、最初の時も声をかけてきたのはKUROROの方だった、それはつまり……つまり……
 晴樹は力まかせにノートの画面を閉じた。ばきっと鈍い音がノートの筐体に走ったが、晴樹は気にもせず、机の上の資料を両手ではたき落とした。 
 くそっ!
 食器棚に拳を打ち付けると、ガラスは鋭い音をたて簡単に砕け散った。
 くそおっ!
 それでも怒りは収まらず、ノートパソコンを両手でつかみ、思い切り床に叩きつけた。
 くそおおおお!
 床に滴り落ちる赤い液体が、朽ちかけた家を甘美に彩った。
 晴樹は麦茶のボトルをつかむと大股で部屋へ戻り、乱暴にドアの鍵を閉めた。
 バカだ。
 思っても見なかったのだ。
 大バカだ。
 ずっと監視されていたなんて気づきもしなかった。お守りをされていたのだ。幼稚園児扱いだ。さすが我が母親である。引きこもりの自尊心をものの見事に打ち砕いてくれたのだ。
 晴樹は引き出しを開けると、ありったけのクスリを次々と飲みほしていった。だが、足りない。今の自分を闇の底へつれていくには足りない量だ。だが、足りないものは仕方ない。
 後できることと言えば、キリストだか、お釈迦様だかに祈ることくらいだった。こんな世界と無事縁が切れますように。そして、願わくはこんな引きこもりにも幸せな来世が訪れますように、と。今の自分にはそう願うことが許されているような気がした。
 晴樹はあふれる涙とともにベッドに倒れ込み、そして意識を失った。


BACK
NEXT