−05−

 午前三時十分。晴樹はサーティワン・キングダムの世界から戻ってきて大きく息を吐いた。まだ神経が高ぶっているのか、疲労の割に眠くはなかった。外へ出てみよう、ふとそんな気になった。
 引きこもりだからといって全く外へ出られないというわけではない。気分が良ければ母親の車で医者へも行くし、夜中に近くへ出歩いたりすることもある。
 始発電車の時刻までまだ間のあるその時間帯は、おそらく一日の内で一番人気のない時間帯だった。
 晴樹の住むマンションから一番近いコンビニエンスストアまで歩いて五分。それは今の晴樹の独り歩きの限界でもあった。
 深夜の冷たい風が暗闇を寂しく駆け抜けていた。野球帽を目深にかぶり視線を伏せ、晴樹は足早にその道を歩いた。時折人影を見かけると、それだけで胸の鼓動が早まった。
 コンビニに入ると、悪趣味な電子音がまるで威嚇するかのように繰り返し鳴り響いた。
 客は大学生らしき男が一人雑誌コーナーで立ち読みしているのと、やはり若い女性が化粧品コーナーで物色しているだけだった。店員は品出しの作業に忙しそうで、晴樹はその合間をぬうようにしてペットボトルのドリンクにスナック菓子、それぞれの新製品を気の向くままにカゴに放り込んでいった。
 レジカウンターに商品の入ったかごを置くと、店員が面倒くさそうに戻ってきた。
 大学生らしき店員は慣れた手つきで商品の値段を読みとると、合計金額をぶっきらぼうに晴樹に告げた。
 晴樹は財布から千円札を二枚抜き取り、目を合わせることなく店員の前に差し出した。
 店員は型どおりの文句と共に代金を受け取り晴樹に釣り銭を手渡した。
 任務完了。晴樹は一言も話すことなく商品を手に入れた。別段怪しまれた風もない。無愛想だ、くらいには思われたかもしれないが、それはお互い様である。言葉を話せないとは思われたはずもない。
「お客さん!」
 背後から不意にかけられた声に晴樹はどきりとした。
 振り返ると店員がレジカウンターから身を乗り出し、こちらを見ていた。
「これ、引いて下さい」
 そう言いながら、店員はカウンターの上の四角い紙箱を揺らした。スピードくじのようなものらしい。
 晴樹は首を横に振って急いで店外に出た。
 天から降ってくるような冷たい空気が晴樹の肌を刺した。その空気を肺に思いきり吸い込みパニックになりかけた思考を冷却しようとした。言葉が話せないことがばれたらと思うと怖くて仕方がなかった。コンビニでの買い物でさえこの始末。大学へ行くことなど夢のまた夢だった。かと言って、今の店員のようなアルバイトができるとも思えない。この先、親の支えがなくなったら、どうやって生きていけばいいのだろうか。いや、自分はこの先生きていてはいけない存在なのではないだろうか。どす黒い絶望感が胸の奥から這い上がってきた。何と言っても自分は引きこもりで最低の人間なのだ。親にも迷惑をかけまくりで、生きていてもどうしようもない人間なのだ。
 ゲームの中で死んでみてよく分かる。そこでの死は一時の指定席にすぎない。生へ戻るための腰掛け場だ。たとえ経験値が減ってもやり直しは可能。何とお気楽な死なことか。けれど、実際には死んだらそれですべてが終わり。死後の世界があるかどうかは分からないが、少なくとも現実世界へは戻っては来られない。
 それがやはりおそろしいのかどうなのか。晴樹は死を選ぶことなく生きていた。だらだらと引きこもりを続けながら、漏れ出てくる現実の明かりに目を細め、それをうらやみながら怠惰に生きていた。ため息をついてひたすら自分の生を嫌悪しながら。
 行き以上に足早となってマンションへ急いだ。できるだけ人に会わないうちに安全領域まで戻るのだ。自分の家。自分の部屋。自分だけでいられるベッドの中。それは生物として恥じる必要のない本能なのだと晴樹は自分に執拗に言い聞かせた。


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