−03−

「もひもひ……」
 くぐもった声で電話に向かって問いかけた。うまくろれつが回らない。右手の缶ビールはまだ一本目だというのに。
 けれど、相手の声はしっかり聞こえる。大丈夫だ。
『お姉ちゃん? 何よ、どうして電話くれなかったの? 今どこ? 平気? 何してるの?』
 妹の声は相変わらず押しつけがましく鬱陶しい。
「ちゃんと、生きてるわ」
 意識して、はっきりと発音する。
『連絡くらいしてよ、お母さんもお父さんもずっと心配してるんだから』
 心配されたからといってどうなるものでもないだろうに。何をそんなにあせっているのだろう。
『お母さん、なんだか空元気で、壊れそうだよ』
「ふうん」
『お父さん、全然口数減っちゃったよ』
「はいはい」
 それがどうしたっていうのだ。私は家を出たのだ。もう関係ないではないか。 
『ねえ……まだ帰ってこないの?』
 自分の一番の理解者気取りの妹。私があんたのことを実は大キライだと言ったら、あなたはどんな顔をするだろうか。
「気が、向いたらね」
 いつもの返し文句。だってそうとしか言いようがないもの。
『もったいないよ。お姉ちゃん、せっかくいい大学内定決まってたのに。高校も卒業しないで、あたし分からないよ』
 そりゃ、あんたには分からないでしょう。そして──私にも分からない。
「ほっろいて」
『すぐ戻っておいでよ、そうすれば来年一緒に卒業できるし──』
 あんたと一緒に? 冗談じゃない。
『あたしね、先生に東京の大学受けたら、って言われてるの。スポーツ推薦枠もらえるって。どうしよう?』
 妹はバスケットボールの選手で県下でも注目の選手だった。
『でも、あたしが家を出たら、お父さんとお母さん、二人になっちゃう』
 それに人を思いやることこの上ないいい子な性格。友人は多くて、彼女のことを悪くいう人間は探す方が難しい。
 つまらない会話に退屈してビールをあおると、それは、急に、きた。思わず携帯を落としてしまうほどの、ヤバさ。
 しまったと思いつつ、拾い上げて再び耳に神経を集中する。
『お姉ちゃん……また、やってるの?』
 ……それが、ろうしたっていうの。気持ちよくなって何が悪いことあむのよ、いいしゃない。あんたなんかにわかはなひのよほっといてよあんたなんかほえひくのもヒヤなんらからそんなほほもわあらないなんてバカひゃなひのバカなんらバカばかばかばか
 言葉だけでなく思考さえもクスリに呑み込まれてゆく。まとまらない、まとまらない、何も、まとまらない。私はなぜ、こんなキライな家族にいつまでも電話し続けるのだろう。
 ふるえる胸で深呼吸した。
「また、かけるわ」
 ちゃんと言えたことに胸を撫で下ろし、携帯の電源を切った。
 片手には携帯。もう片方には飲みかけの缶ビール。そして、床には白い錠剤。別に危ないクスリではない。ただの「合法」な精神安定剤なのだから。そう自分に言い聞かせ、さらにもう一粒つまんでビールと一緒に飲んだ。
 この世界が一番。どこよりも一番。何よりも、一番マシな世界であることは間違いない。
 それが彼女の確信だった。

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