獣の日    0  何がどうなっているのか。俺にはまったく分からなかった。分かっていることと言えば、ガンホーが、ガンホーというのは俺たちの群れのリーダーだが、彼は少しばかり、否、かなり頑固で仲間の言うことに耳を貸さないたちで、俺は今回のことに賛成ではなかったのだが、さりとて彼を止めることもできず、群れの仲間と一緒に彼に引きつられ、このパーティ会場まで来てしまったということだった。  ここは国道三号線。二車線道路が、二本、幅五十メートルほどの川の上にかかっている。その国道の上で俺たちは運命の岐路に立たされている。  つまりは、生か死か。  もっと具体的に言うなら、問題なのは、今現在、無数の弾丸が俺たちに正面から浴びせかけられていることだった。  バリバリバリバリ  ガキンガキンガキンガキン  俺たちの群れは、重機関銃の弾を体にしこたまくらいながら、そのほとんどを装甲並みの分厚い皮膚で受け止めながら、ゆっくりと橋の向こう側へ向け前進を続けていた。  時折前方から飛んでくる少しばかり大きな弾丸や砲弾、無反動砲というやつなのか、それがぴゅーと飛んできて、地上に落ちて爆発したかと思うと、橋を崩しながら一緒に仲間も派手に吹き飛ばしてゆく。そいつがどうなったか正確には分からないが、何となく生きているのではないかという気がしたので取りあえず放っておいた。  そうなのだ。正直に言うと、重機関銃も無反動砲も、直接俺たちの生命活動を停止させる脅威ではなかった。ただそれでも、それらは俺たちの前進を減速させ、時間を薄く引きのばしている。そのことが俺にはなぜだかひどく恐ろしい気がしてならなかった。橋の向こうに、俺たちの生死に直結する何かがあるような気がしてならなかった。  ガンホーは群れの先頭で銃弾の嵐に怯むことなく馬鹿みたいに金切り声を上げていたが、言わんとすることは耳ではなく、心にダイレクトに響いてくる。  つべこべ言わずに進め    行けと言ったら行け      そこだろ目の前だ        目と耳と鼻のすぐそこだ      俺たちは無敵、恐れる者ナシ     橋の向こうにたどり着け    そしたら人間たちにかぶりつけ   俺たちのために  愚かなる彼らのために  そうは言っても、こんな目に合うのは初めてのことで、狼狽するなというのはいささか無理な注文だった。  俺たちはこれまで人間たちの群れに「祝福」を与えながら北上してきたが、お返しに受けたものと言えば、ガレキやら鉄パイプ、あとはせいぜい、単発の弾丸と放水シャワーぐらいのものだった。こんな本格的な組織だった抵抗は俺たちの群れには初めての経験なのだ。これまで俺たちの相手だった民間人や警察はその役目を自衛隊の連中に完全にバトンタッチしたらしい。  だが、幸いなことに俺たちはこれぐらいの弾丸では死にはしないようだ。この全身を覆うごつごつとした分厚い発砲スチロールのような体表は、彼らの弾丸の衝撃を吸収し、すぐに再生される無敵の装甲だ。自衛隊の大火力は改めてそれを教えてくれたが、ただ、物量という点では今俺たちはまさに不利な立場に立たされていた。  橋を渡ろうとする俺たちに、対岸沿い一キロ近くはあるだろうか、ずらりと並んだ銃口が俺たちのもてなしに全力を上げ続けている。  この銃弾の暴風雨をスムーズに突っ切るには、どう考えても俺たちの数は少なすぎた。  五十二。今朝出発したときの俺たちの群れの数を言えばそうなる。他にも幾つか北上してきている群れはあるようだったが、姿が見えないところを見ると、他の場所で同じような目にあっているか、あるいはその群れのリーダーに少しばかりの知恵があれば、後続が来るまでどこかで身を潜めていることだろう。  どう考えても、俺たちは間違っていた。あまりにも考えナシだった。待ち構えているのは陣地を構築した自衛隊だと分かっていたのだから、もう少し待つべきだった。そうすれば、いくらでも仲間は南からやって来るのだ。何も俺たちの群れが、こんな面倒くさい役割を負う必要はなかったのだ。  だが忌々しいことに、ガンホーの号令は止む気配はない。耳をふさいでも心に直接がなりたててくる。  前進前進   とにかく前進    死ぬまで前進     死んでも前進      ゴーゴーゴー  俺も、仲間たちも一歩一歩、硝煙の煙に目を細めながら橋を渡ってゆく。  仕方がない。なぜなら、彼が群れのリーダーなのだから。  そうして橋の半分まで来て、ようやっと銃を構える人間たちの顔がしっかりと見える距離にまで達した時、再び嫌な感覚が頭の中でもぞもぞと膨れ上がった。  彼らは怯えながら笑っていた。顔をひきつらせながら手招きしていた。それは目にもの見せてくれると決死の覚悟のように思えた。  その予感が具現化するかのように、目の前の自衛隊隊員たちは、これまでとは違った武器を使い始めた。彼らの後衛が一斉に大きく振りかぶって、何かを、宙に、投げた。  今さら手榴弾か、と思ったと同時に、俺は橋を反対に駆け出していた。  数秒後、俺のすぐ前とそして背後で、たて続けて爆発が起こった。それが今までのものと全く違うことは、仲間の叫び声が示していた。   何だこれ何だこれ    痛い痛い痛い     無理無理無理      死ぬ死ぬ死ぬ        ぐがががががががが×が×ががげぼぼぼぼ  これまで痛みとは無縁の大進撃を続けていた俺たちが、何物にも傷つけられることなどなかった俺たちが、何なのだ、この有様は。  辺り一帯に黄色くよどんだ霧が立ち込め、そして、これまで地に伏すことなど決してなかった仲間たちが、大勢倒れていた。  俺はおろおろとしながら、先頭にいたガンホーを探したが、彼は煙の奥でさらにヒステリックになって仲間に檄を飛ばしてきた。   ゴーだゴーだ絶対ゴー    止まるな帰るな前を見ろ     何が何でも前進だあああ  何なのだ、こいつは。俺もさすがに忍耐の限度を超えた。  そして、さらなる爆発は、まったくぶれない彼の声を打ち消すように仲間たちの怨嗟を拡散する。俺より前にはもうおそらくガンホーだけだ。  ヤバいヤバいヤバい。冗談抜きだ。  後ろの仲間たちは、どうするか決めかねているようにその場でよろよろたたらを踏んでいる。  ここで俺が何かを言っても、群れの仲間は従わないだろう。なぜなら、俺は群れのリーダーではないから。迷っている暇はなかった。  俺は黄色い霧の中にいるだろうガンホー目がけて駆け寄り、その人影に後ろから不意打ちで一発、崩れ落ちたところにあと二発、全力で殴りつけた。当然、それが致命傷になるようなことはないが、それで彼の声は途切れた。  そして、俺はあらん限りの声を上げた。 「撤退だ!!!!」  仲間たちの無言の困惑が伝わってくる。俺は心の声を発するのがうまくないから仕方ない。言葉も使って両方で訴えるが、果たしてちゃんと仲間に伝わっているのか心もとない。  だが、その命令は誰もが待ち望んでいたものだったせいか、ほんの数刻のためらいの後、仲間たちは一斉に来た方向へと駆け出し始めた。  ガンホーはすぐに我を取り戻し、俺を殴り返すと、最前線に屹立し、再び前進のかけ声を心の中で上げた。  だが、既に退却に勢いづいた仲間に彼の声は届かなかった。  ガンホーは憎しみの凝縮した瞳で俺をにらみつけた。  自衛隊の前線が上がって来たのか、例の手榴弾は撤退中の仲間にも牙を突き立てていた。 「撤退だ撤退だ撤退だ!」  もう一度俺は大声で叫び、自らの言葉に従った。  さすがのガンホーもようやくあきらめたらしく、後方へ走りはじめ、あっという間に俺を抜き去っていった。  橋の上で倒れている仲間たちの多くは、体が溶けていて、一目で絶命が見て取れた。  その隣でうずくまっている仲間がいた。さすがにここは冬眠に適した場所とは言えず、俺は彼の腕を無理やりとって立ち上がらせた。 「走れ!」  そう言って俺は彼の手を取り、この屈辱の場所から敗走したのだった。    1  複合強化ガラスの向こう側に広がる鹿児島湾を見て耕平はつられるように大きく息を吐いた。  誰の都合も考慮せず、マイペースに白煙を噴き上げる桜島は、近場で見るとやけに迫力があった。  だが、それも自分が今乗っているものほどの感慨は呼び起こさなかった。直径二キロに及ぶゼロ世代海上都市アート・フロートほどには。  アート・フロートは、JFIC(日本海上浮遊体コンソーシアム)が主体となり、六年がかりで完成させた日本人の知恵と金と労力の結晶であり、未来への希望だった。  耕平は大学の研究室で都市環境工学を専攻していた頃からこの超巨大プロジェクトに関わり、それから八年がたっていた。そして、いよいよアート・フロートは試験航海への出発を明日に控えていた。  このフロートは名前の通り、芸術家の住まいとその技を見に来るリゾートとして設計されている。いささかあざとい気もするが、それこそが、JFICがこの初号機にかける意気込みだった。これは日本の未来のために絶対に成功させなければならない。二年後には、さらに居住用フロート一機と生産用フロート二機の出航が決まっており、それらは現在呉で建造中である。そして、五年後にはこの初号機の運用知見を取り入れた十機のフロートが十四万人の日本人を乗せて、赤道上の大海原に繰り出す予定だった。  誰かがこの計画を評して『二十一世紀の民族大移動』だと言った。耕平もその通りだと思う。このような海上都市計画は、日本だけでなく、少なくない国が国家事業として各々取り組んでおり、広大ではあるが、有限である赤道直下の海域は今や早い者勝ちの様相を呈していた。  そもそも、事の起こりは十二年前にさかのぼる。ある科学者が地軸異常による地球寒冷化を学会で発表したのだった。それまでその種の話題は、地球は温暖化の影響下にあるということで落ち着いていたはずだったが、それ以後、寒冷化のさまざまな主張がちらほらと散見されるようになり、七、八年前からは実際のデータまでもが寒冷化の兆候を示し始めていた。極め付けは五年前、世界初の汎用AIであるパウロ・NNが地球の自転軸の傾きの変化による寒冷化の兆候を認めたことだった。  中小国の大半はエネルギー開発とエネルギー効率の向上を追求しつつ、それを生かせる都市を再設計するという方針を取ったが、日本は大胆にも南の国で自然の力を最大限に取り入れ生きる、という方針の元、海上都市建築に邁進していた。  途中からは国家プロジェクトともなったこの未来志向のビッグプロジェクトに第一線でかかわる今の状況は、耕平としても満足してよいもののはずだった。  その時、ずきん、とこめかみの奥で頭痛がして、耕平は目をしばたかせた。  やはりいくら社会的充足を掲げてみたところで、個人的な悩みは晴れなかった。  ガラスに映った自嘲する自分の顔をにらみつけながら耕平は思った。  耕平にとって、この旅は技術者としての夢が叶った充足の旅路であるとともに、傷心旅行でもある。一年間の実地モニタリング調査ではあるが、その半年の時点で一週間の休暇がもらえるはずであり、その時日本に戻って来て結婚式を挙げるはずだった。さらに言うと、五日前には結婚届を出しているはずだった。少なくとも耕平のスケジュールではそうなっていた。それが一昨日、いきなり白紙に戻ったのだ。  まだ誰にも伝えていないとはいえ、どんな顔をしてよいのか分からず、能面のような顔をして耕平は桜島の噴煙をただぼうっと眺めていた。 「よぉ、どうした、そんな辛気臭い顔して?」  眺望ロビーに入って来たのは、同じモニタリング調査チームの川添だった。彼は資源再生系システムのエンジニアで耕平と専門は違うが、三日前の調査団の結団式で顔を合わせていくらか話をした相手だった。 「そんなに変な顔してましたか?」 「ああ、とてもこれから世紀の大航海に乗り出そうって若者の顔には見えなかったなあ」  川添は耕平の一回り上の年齢で、さらに百九十はありそうな長身で耕平を頭上から見下ろし、そう言った。 「多分……緊張しているんでしょうね」  耕平は内心の苦痛をごまかしてそう言ったが、何がおかしかったのか、川添は思わず噴き出した。 「緊張か、緊張な。いやいや、とても昨夜はそうは見えなかったが、まあまあ、独身にはよくあることさ」  どきりとして耕平は川添を見た。やましいところなど何もない、と言い切れるほど耕平は聖人君子ではなかった。こと、五年間つきあい婚約までした彼女から一方的に別れを突き付けられたのが一昨日のこととあっては、である。 「たまたま俺も昨晩あのバーで飲んでてね。そうしたら……なあ。あんな美人に逆ナンされるなんて、隅におけないねえ。おっと、誰にも言ってないから、そこは心配しなくてもいいぜ。誰にだって人に言えないことの一つや二つはあるもんさ」  川添の軽口に耕平は苦笑した。今となっては耕平は完全なフリーなのだから、どんな相手と付き合おうが何ら問題はないはずだった。例えそれが、外国人相手の行きずりの行為であったとしても。  昨夜の顛末はこうだ。  海上都市内に与えられた自室で壊れかけのロボットのように荷物整理を半日かけて終わらせ、夜、座多の街に一人で飲みに出かけた。二時間ほどウイスキーを単純作業のように胃に流し込み続けるのに体がギブアップ宣言をする直前、外国人の女性に声をかけられた。  金髪碧眼、おそらく三十前後と思われるモデルのような容貌の女性だった。海上都市の出航式典を見にカナダから来たが、飲む相手がいないので一緒にどうか、ということだった。  いつもの耕平なら、見知らぬ人間からの誘いには返答に躊躇するところだが、昨夜は思考が麻痺していた。言われるままバーで一緒に一時間ほど飲み、それから近くのホテルへ行った。そして、行為に及んだ。  朝には彼女の姿は部屋から消えていた。結局、自分は女性に捨てられる運命なのだと思い知らされ、耕平はその夜の記憶をごみ箱の中に放り込むことにした。  にもかかわらず、今またそのことを思い出させられ、こめかみのあたりがひどく傷んだ。 「別に、そんなに隠すようなことでもないですがね……」  耕平は何でもないふりをしてそう答えた。  川添は思わせぶりな顔をして言った。 「ふうん、まあいいさ。これから一年間のお勤めだ、半年後には休暇が取れるらしいが、それでも赤道ってのは心理的に遠いよな」  耕平は先の話題を掘り下げられることを警戒し、相手に話を振った。 「ご家族はどちらでしたっけ?」 「うちは神奈川だ。奥さんと子供二人。上はまだ小学校に入ったばかりでな」 「それじゃあ寂しいですね」 「それでも火星へ行くわけじゃないからな」  彼の発したその単語は二人の間に微妙な空気を生んだ。 「……どうなんですかね、あっちは?」 「まあ、あちらさんはあちらさんでよろしくやってもらえばいいさ」  海洋都市計画とは別に、ヨーロッパ・ロシア連合は寒冷化対策として火星開発に力を入れており、今頃火星では八人用の実証モジュールの建設に取り掛かっているはずだった。来るべき時を乗り越える方策として、この二つは二大潮流であり、互いを意識しないでいることは難しかった。 「でも、本当に海上都市で氷河期を乗り越えられるんですかね」  耕平はずっと抱えていた疑問を口に出した。 「おいおい、今さらか」  あきれたように川添が目を細め、耕平に説教口調で話しかける。 「そもそも氷河期と言っても、別に本当に世界中が氷に覆われるわけじゃない。赤道直下ではせいぜい十度しか気温の低下は起こらないって話だ。つまり、地球上で十分生きていける場所があるんだ。宇宙の遠いところまで出ていく必要なんかないさ」  それには耕平も反論せざるをえなかった。 「でも、もし、気温がもっと下がったら? 平均気温が五度になったら、海上都市の熱収支バランスは崩壊するって試算が出てますよね」 「そんなこと言い出したらきりがない。それを言うなら火星の不確実性なんて地球の比じゃないだろ」 「それは、そうかもしれませんけど……」  耕平はプロジェクトに関わりながら考えることがあった。自分が今やっている仕事は本当に未来の人々に意味があるのか。かえって、誤った方向に現代のリソースをつぎ込むことで、未来の害悪になっているということはないだろうか。  そもそも人類の未来を切り開くプロジェクトなのに、国連は不干渉政策の免罪符程度の役割しか与えられず、すべては国家あるいは国家連合の単位でしかものを考えようとしなかった。このように種として全体の足並みをそろえることができない様は耕平にとってむしろ馬鹿馬鹿しさすら覚えるものだった。  耕平の不安げな様子を見てか、川添は言った。 「考えても仕方ないことは、考えるな。これ、メンタルを健康に保つ秘訣だよ。うちもさあ、奥さんが去年二人目を産んだ時に、産後鬱になっちゃってさ、その時は俺も悩んだよ。一体、何が悪かったんだ。俺に非があったんじゃないかって、な。でも、奥さんに続いて俺まで沈んじまったら家庭は真っ暗だろ。だから、買い物から掃除に洗濯まで、かな〜り、俺がやってね、肉体的に自分を追い込んだね。その代わり、余計なことは一切考えない。考えても分からないことは考えない。自分ができることを実行する。それを心掛けてだな――」  川添が熱い口調でしゃべっていることも、耕平の心には大して響いてこなかった。何だかんだ言っても、子供までいる幸せな家族の一シーンだと思うと、自分には共感する権利さえないのだと思えてしまう。  そもそも、あんなことになったのにあえて理由を探すとするなら、今回のこの長期出張がそうだ。JFICへの出向という形をとっているが、研究室全体でバックアップがされていたため、今回のモニタリング調査における長期出張でもJFICから研究室にお伺いが立てられた。それを受けて耕平は教授に辞退を願い出た。半年の海外留学ならJFICで体験していたが、今回は正直先が見えなかった。一年の予定ではあったが、下手をすれば何年間も太平洋上ですごすことになりかねない。研究室には、教授の下、学生の他に耕平を含む四人の助手と十二人の院生がいたのだが、助手の一人は教授のお気に入りで教授が手放したがらず、一人はちょうど産休に入り、もう一人はちょうど他の研究センターで研究員の職を手に入れ、研究室を出ることになった。残っているのは、耕平だ。帰ってきたら、必ずしかるべきポストを用意するからと教授に説得され、耕平は渋々このモニタリング調査に参加したのだった。  今思えば自分の立ち回りの悪さにうんざりする。もっと他にやりようはあったはずだ。彼女が大事なら、あそこは突っ張ってもよかったはずだった。  だが、彼女自身、耕平がこの調査に参加することが決まった直後は何も言わなかった。表面的には何の不満も口にしなかった。少なくとも耕平の目にはこれまでと何ら変わらないように見えた。  けれど、結婚と調査の準備を進めていくにつれ、次第に彼女の機嫌は悪くなってゆき、そして、いきなり最後通牒もなく、彼女は決意の言葉を耕平につきつけたのだ。結婚の約束はなしにしましょう、と。その後、彼女に連絡しようとしても取れず、彼女の両親も既に彼女から心の内を明かされていたようで、残念そうにしながらも耕平の味方にはなってくれなかった。 「坂口さん、坂口さんよぉ――」  川添が訝し気な表情で呼んでいるのに気づき、耕平はあわてて謝った。 「す、すみません、まだ、昨日の酒が残っているみたいで……」 「だからさあ、くよくよ悩みすぎるのはよくないって。日本人の悪いくせだ。俺は兄貴の息子が中学生になるんで、よく言い聞かせてるんだ。勉強ができなくたって、考え方ひとつで人生は――」  よく言えば、親切。そうでなければお節介。川添はどちらかと言えば後者のラベルがぴったりとはまる男だった。人当たりはいいのだから、時と場所を弁えてくれればまだいいのだが、どうやら彼のこの性質は、常時発動しているもののようだった。  そう言えば、また一つ悩みの種を思い出して耕平はうんざりした。  アパートの上階の住人が、夜やたら楽器を鳴らすので、大家に苦情を申し入れたのだが、どうやら大家からはその住人にこちらの部屋番号まで伝わったらしく、楽器の騒音がぴたりとやんだ代わりに、次の日から朝下りのエレベータで一緒になる大学生らしい男に殺意のこもった視線を向けられるようになった。  休みの日に大家が部屋におしかけてきて「ごめんなさいね、ちゃんと言ったのよ。下の部屋の人が迷惑してるからって静かにしてねって」とくどくどと二十分ほど説明らしきものをしていったので、昼食のカップラーメンが食品廃棄物になったことで耕平の苛立ちはより強くなった。  まあ、少なくとも半年間は二人の顔を見る必要がないのは幸いだった。 「まったく、どいつもこいつも……」 「ん?」  つぶやきが声に出てしまっていたらしくひやりとしたが、弁解の言葉より先に襲ってきた頭痛に思わずよろけて窓ガラスに手をついた。 「ちょ、大丈夫かい?」  今となっては、背をさすってくれる川添の手のぬくもりさえ、鬱陶しかった。  よろけながら、耕平は体をひねった。 「いえ、大丈夫です。本当に飲みすぎたみたいだな、これは。ちょっと医局で薬をもらえば――」  そう言いながら、耕平の中で言いようのない何かが膨れ上がった。二日酔いのあのおぞましい吐き気、ではない。これまでに経験したことのない、何か。それは、耕平の頭の中をかき回し、体のコントロールがすべて奪われたような感覚だった。  やばい。何だこれは。  理性はその感覚に必死に抵抗するが、本能はただただ右往左往を繰返している。やばい、やばい、やばい――  耕平はパニックの中でその感情をようやく理解した。それは「恐怖」という二文字以外のものではありえなかった。  暗闇の中で、川添の声がかすかに聞こえた。 「ちょ、何だ、何なんだ、おい、おまえ、それ――――」  最後に届いた彼のそれは、悲鳴のように思えた。    2  頭がくらくらする。喉はいがいがで、耳はじんじんと痛み、体中の至るところの筋肉が電気ショックの拷問を受けたように熱い痺れを訴える。  一体、どうしたというのだ。何がどうなればこんな、これまで味わったことのない最悪の体調が味わえるのだ。 「ぶ、み……」  まともな音にはならなかったが、自分が口にしようとしたのが彼女の名前だったことに気づき、耕平は自己嫌悪に陥った。  苛立ちながらも自分を奮い立たせ、靄のかかった両の眼を無理やり開き、耕平は何とか現状を把握しようとした。  そこは十二畳ほどの広さの、ほどほどに立派な居間だった。耕平の自宅でもなければ、実家でもない。ましてや彼女の部屋でもない。そして、海洋都市の居住スペースにもこのような部屋は一つもない。耕平を不安にさせたのは、その部屋がひどく荒らされていたことだった。  ソファのクッションは床に散乱し、背の低いテーブル上のクロスは半分ほどずれ落ちている。古風な扇風機は倒れたまま回転を停止しており、入口のドアの近くには割れたグラス片が散乱し、床は濡れた跡があった。  思わず唾をのんだつもりが、唾は出てこず、耕平の不安をさらに掻き立てた。  これは、どういう状況だ?  耕平の脳裏を無数の疑問符が埋め尽くす。  パニックになりそうではあったが、深く大きく息を吐くと、最悪だった体調も次第に復調してくるように思えた。  その時、ドアが乱暴に開き、子供が大声で叫びながら飛び出してきた。  十歳ぐらいだろうか。本来ならまだまだあどけなさの残る年頃のはずが、目の前の少年は鬼のような形相で、勢いよく金属バットを振り上げ耕平に殴りかかって来た。  咄嗟にバットの一撃を回避し、バランスを崩した少年の首根っこを耕平は上から押さえつけた。そして、バットを彼の手からもぎ取って、部屋の隅へと投げ捨てた。  すると、視界の外でぼずっという不穏な音がして、慌てて視線を向けると、バットが壁に突きささっていた。  耕平は思わず顔をしかめた。正当防衛のためとはいえ、損害賠償を免れるかどうかは自信がなかった。そんなに思いきり投げたつもりはなかったのだが、不運としか言いようがなかった。  とにかく、まずはこの少年の対処が先決だった。まったく最近の子供ときたら躾がなっていないどころの話ではない。 「ヴぉい――」  喉のいがいがは相変わらずで、いまだに声がうまく出せなかった。  だが、耕平が言い直す前に押さえつけた手の下で少年が叫んだ。 「はなせ、バケモノ!」  耕平が一瞬唖然としたすきに、少年は耕平の手からするりと抜け出した。  だが、耕平が驚いたのも無理からぬことではないか。これまで二十九年間生きてきて、化け物と形容されたことは一度もない。別にルックスがいい方ではなかったが、十人並みの容貌である。整形をしようと思ったこともない。いくら首根っこを押さえつけたからと言って、その呼称は受け入れがたかった。 「ドういうこトだ?」  今度はかろうじて相手に通じそうな声を出せ、耕平はほっとした。  だが、少年は変わらず尋常ではない怒りのこもった視線で耕平をにらみつけていた。何かに怯えるように小刻みに肩で息をしながら、耕平だけをにらみつけている。  彼の憎しみが耕平に焦点を合わせているのは間違いなかった。だが、身に覚えのない耕平にはそれは甚だ不快だった。何より、彼の視線を受けていると、自分の方が悪いような気持ちになってくる。 「ダカら――」  耕平が少年の方に一歩踏み出すと、少年がびくりと体を縮こめるのが分かった。  耕平はできるだけ動かずに話すことにした。 「……何カ、勘違イしているンジャないカ。僕も何が何だか訳が分カラナインダ。一体ドウイウことなのか、チャント説明してくれナイカ?」  少年の目には驚きの色が混じっていたが、耕平はかまわず話し続けた。 「ここハ一体ドコで――」 「何をした」  少年はうめくように言った。 「……え?」 「父さんと母さんとカズ兄に、何をした!」  そんなことを言われても、何をした覚えもない耕平は混乱するばかりだった。  だが、この部屋の状況は耕平に分が悪いように思えた。下手をしたら冤罪を着せられてしまう可能性すらありそうだった。 「だから、チョット待ッテくれ。俺はアート・フロートに乗ってタンだ。知ってルダロ、鹿児島湾に浮かんデルやつ。それが気がツイたらいつの間にかココニいて、部屋は……コンナ風になってルし、何が起コッタんだ? 知ってルナラ教えてクレ」  少年はしだいに呼吸を落ち着かせてはいたが、耕平をにらみつける視線は揺るがなかった。 「……テレビ」  最初、少年が言うことが分からなかったが、しばらくしてそれがテレビをつけてみれば分かる、という意味だと理解した。  耕平は声を出して部屋のサウンド・システムに命令したが、何の反応もしなかった。部屋の調度品同様壊れてしまったのかと思ったら 「テレビ・オン。ニュース」  代わりに少年が発した言葉に反応して、壁面に埋め込まれた大型テレビのスイッチが入った。  耕平は画面を見てわが目を疑った。 <……鹿児島では一昨日から発生した暴動で被害は拡大する一方です。政府は昨夜零時、特別対策本部を設置し、この暴動を新型の感染症患者により引き起こされたものとし、この病名を発生地の名から、zata鬼化症候群と名付け、医療関係者はもとより、自衛隊の出動を含めたあらゆる手段を講じると……>  映像で流れる鹿児島市内の街並みは至る所で煙が立ち上り、大災害の様子を思い起こさせた。  まずニュースが言う一昨日というのが府に落ちなかった。耕平が知る限り、鹿児島でそんな暴動が起こったという事実はない。つまり、それは耕平が気を失っている間の出来事であり、少なくともそれから二日は経過しているということになる。耕平が覚えているのはアート・フロートの第十二層の眺望ロビーで川添と話していたところまでだった。確かその途中で激しい頭痛に襲われ……そこからの記憶がない。  では、アート・フロートは一体どうなったのだ。  ニュースの途中にその単語が出てきて、耕平の注意は再びニュースに引き戻された。 〈……一方、試験航海が中止となったアート・フロートには今も大量のzata鬼化症候群の患者が立ちこもり警察も手の出せない状況のようです。これに関して政府は……〉 「おイ、どウいうことダ?」  耕平が振り向くと、少年の姿は部屋にはなく、同時に玄関からドアの閉まる音が聞こえた。少年が逃げて行ったに違いなかった。  再び一人になった部屋の中でテレビニュースは冗談のような状況をひたすら流し続けていた。  少しだけ状況が見えて来たと思った反面、やっかいなことになったと耕平は思った。おそらく耕平がこんなところにいるのは、何とか症候群とやらの影響から退避してのことに違いない。アート・フロートの試験航海は当面延期されるようだが、まずは事業局に連絡を取るべきだった。  だが、携帯端末はどこにも見つからなかった。どこかで落としてしまったらしい。それではと、この家の通信機器を探してみたが、それはすぐ壁ごとこなごなになっているのが見つかった。  大きくため息をついて、耕平は部屋を出た。  いくら奇病が発生したからと言って、これほど人がパニックになるようなことがあるのだろうか。奇病患者を恐れて暴動? それとも患者自身が暴動を起こしている? そもそも、この家の人間はどこへ行った? この部屋の有様はどう考えればよい?  疑問に対する回答を一つ一つ考えながら部屋を出た。そして、廊下の途中にある、壁に埋め込まれた大きな姿見の前で、耕平は足を止めた。  鏡に映っているものが耕平にはしばらく理解できなかった。  これは、何だ。  黒く、ごつごつした、人の形をした、何か。  呼吸が急に苦しくなる。思考が混乱する。  ここには自分の姿が映っているべきではないのか。  ゆっくりと手を動かしてみる。  すると、鏡の中のそれも耕平の動きを不気味なほど正確にトレースした。  こんなものは見たことがない。聞いたこともない。こんなものが、俺であるはずがない――  鏡は耕平の拳によって、その映した像を無数に四散させた。  廊下に散らばった鏡の欠片は、その数だけ、黒い獣の像を耕平に下から突き付けた。  これは一体、何だ!?  耕平は体の奥から湧き上がる衝動に突き動かされ、家の外へ駆け出した。  悪夢から逃げ出したい。そう思ってのことだった。  外はどこにでもありそうな郊外の住宅地。それが平凡な光景でなかったのはただ一つ。先の鏡の中に映った黒い人型の獣が辺りを跋扈していたことだった。  幸い、それらは耕平には何の興味も示さず、他の何かを探し求めて歩いているようだった。  道路にはところどころに倒れている人がいた。耕平は恐る恐る近づいてみた。  真っ青なTシャツを着た若者は、血を吐き白目をむいたまま亡くなっていた。  どこかで子供の悲鳴が聞こえた。先の少年の声だったような気もしたが、耕平の足は動かなかった。  その時、耕平は後ろから激しく吠えたてられた。  犬だ。毛並みのよい白い大型の老犬は鎖を地面にたらしながら耕平に対し、狂ったように吠え続けた。  耕平は手を振って、犬に去れと命じたが、老犬は逃げようとしなかった。  執拗な鳴き声は、耕平を責め続けるようで、「うるさい」と思った瞬間、手が出た。  考える間もなく、犬の大きな体を宙に持ち上げ、もう片方の手を犬の首筋に添え、そのまま力任せに犬の体を引きちぎった。  声にならない悲鳴とともに、肉の繊維が裂け、骨がはずれる独特な感触がした。  大量の深紅の血をまき散らし、耕平の立つ場所は一瞬で屠殺場と化した。  耕平は自分が作り出した凄惨な現場を呆然として眺めていた。  何だこれ、何だこれ、何なのだ、一体。  自分が犬を絞め殺す。引きちぎる。冗談じゃない。そんなことできるはずがない。おおむね自分は愛犬家だし、そもそも体力だって十人並みだ。こんなことにはなるはずがないのだ。ひょっとして自分は仮想現実に放り込まれているのではないのか。アート・フロートの契約芸術家にその種のものを作っているのがいたはずだ。自分はその実験台になっているのではないか。  その可能性にすがろうとした時、視界の隅でよろよろと立ち上がる者があった。  青いTシャツははちきれて、膨張したかのような下の黒いざらついた皮膚がその存在感を異様に主張している。先ほど死亡していると確信した青年だった。  それを見て耕平はすべてを理解した。自分も病にかかった結果、人ではない、何者かになってしまったことを。    3  耕平たちの群れは、田植えが終わったばかりの田んぼを子供のような無邪気さで我が物顔に疾走していた。止める者は誰もいない。完全な自由。思うまま、望むまま、ただ衝動の命じる通り駆け続けていた。その体の奥底から湧き上がる衝動は極めてシンプル。  ヒトに噛みつけ。できる限り多くの人間に噛みつけ。  人に噛みついてはいけません? 何それ? 倫理とかいうやつだったか? 関係ない。全くもって関係ない。俺たちは俺たちのやりたいことをやる。誰もそれを止められない。なぜなら、俺たちは自由なのだから。  だが残念ながら、この辺りの人間は避難してしまったようで、その衝動を満たすことはできない。だから、耕平たちは大勢の人間がいる北へ向かって走り続けていた。 「ぐるううおおおおお!!!」  仲間を鼓舞するためにあえて声を上げたのは、先頭を走るエラソウだ。時には頑固とも思える彼の強い意志は、下手をすれば散り散りになりそうになる十人から成るこの群れをかろうじて一つにまとめ上げ、北上を続けさせていた。  リーダーの呼びかけに群れの仲間たちは、同じような熱血なやり方ではなく、より自分たちに似つかわしい方法で応えた。  走れ走れ遅れるな    行くよ行きます北を目指して      だからそんなにうるさく言うな       ちゃんと一生懸命走ってる      人がたくさんいる場所目指して     そうそう俺たち駆けてゆく       どこまでだって駆けてゆく      あんたは先頭走ってろ     俺たち迷子にならないように    俺たち後ろをついていく  口に出す「言葉」ではない。心でそう思えば、それを仲間と共有できるのだ。いわゆる思念波(テレパシー)というものだろうか。  メッセージを念じ、仲間とのいわば思考の共有空間に貼り付け、他の者がまたそれにメッセージを付け加える。言いたい放題で次々とメッセージはつながってゆき、群れの発言圧力がなくなると、その一連のメッセージは消散する。  エラソウは、そのメッセージに何も付け加えることなく、後ろを一瞥し、皆が着いて来ていることを確認しただけだった。  彼のすぐ後ろを走っているのは、イチバン。イチバンは、何でも一番が大好きだが、リーダーのエラソウにはいささか及ばず、毎日の力比べでも群れの二番に甘んじている。彼に取って代わるチャンスをうかがっているのか、走る時もエラソウの後ろにつけていることが多い。  耕平は三番手を走っていた。もっと早く走ることもできたが、皆のペースを崩そうとは思わない。まだ先は長いのだから。隣ではカゲオがだらけた走り方をしながら、「走るの飽きた」とでも言いたげな表情をしている。  もう少しの辛抱だ、と耕平は小さな念を送ってみたが、通じているのかどうか特に反応はない。  どうにも耕平はこの念がうまく使えなかった。聞き取ることは幾分はできるが、自分で発する方がなかなかうまくいかなかった。かといって言葉を使おうとする仲間はほとんどおらず、まともに発声はできるようになったものの、この意思疎通に問題アリの状態は、耕平にとって少なからぬ欲求不満を生み出していた。  次に念を発したのはジロリだった。彼女はいつも最後尾にいることが多いのだが、不思議なことに何かを見つけるのは大抵彼女が最初だった。    この先半時間先に人間が約二十人    小さな建物に立てこもってる    我らに怯え息を潜めている  彼女の報告に群れは沸いた。    ヒトだ人だひと人ヒト      俺たち絶対一番乗り         久しぶりの獲物だぜ       何十回と噛みつこう   俺らの仲間を増やすんだ     おおぜいたくさん増やすべし       仲間を増やして群れを大きく    この世は仲間で一杯だ  他の群れはまだ南の方でばらけた人間たちとダンスを踊っているはずだが、エラソウはそれを良しとせず、北方の大都市を目指していた。つまりは熊本だ。だから、それまでは彼の群れにいる限り走り続けるほかなかった。  それからしばらく走ってエラソウは群れを止めた。ジロリの報告で人がいるという町の一キロほど手前である。  みんな一斉に集中し、この先にいる人間たちの動きを探った。  耕平を含めた群れの誰もが、人がどこにいるか、どのくらいの数がいるかをおおまかに知ることができた。一番その能力が優れているのはやはりジロリで、彼女の場合、その距離も長く、正確度も高い。おまけに人間たちの状態まで分かるらしい。  今回も、彼女が知り得た情報が群れで共有される。   数二十八   一ヶ所に集まってる   緊張してる   こちらにまだ気づいてない  ジロリの報告でまた湧き上がりそうな群れをエラソウは一睨みで押さえた。彼は群れが自分でコントロールできなくなるほど昂揚するのを好まない。リーダーとしては当然かもしれないが、耕平としては少しうるさすぎるようにも思えた。ただ他の仲間はそれほど気にしていないようで、耕平も強く意見しようとは思わなかった。  それにしても数が微妙だ、と耕平は思った。エラソウならこの程度の人間は無視して、北上を優先するものと思ったが、エラソウは足を止めた。仲間たちの欲望にも気を配ったのだとしたら、リーダーとして優秀だと判断すべきなのかもしれなかった。  エラソウは群れの九人それぞれに指示を出した。三方に分かれて包囲戦だ。耕平とイチバンはそれぞれ二人を連れて、側面からの突撃位置につくことになった。エラソウとジロリとあと二人はこのまま正面からの突撃だ。思念の使い方に問題のある耕平は辞退しようとしたが、エラソウはそれを許さなかった。群れにいる以上皆と同等の働きをしろということらしかった。  結局、位置についたらそれぞれ思念波で連絡を送るという耕平の苦手科目を課されたまま、左の小群として出発した。  十分後、耕平たちは目的の場所に到着した。人間たちは平屋建ての公民館らしきものに集まっており、建物の周囲には数人の男たちが見張りをしていた。  何も問題はない。耕平は他の二人に励まされながら何度も丁寧に準備完了の報告をエラソウに伝えた。ほぼ同時にイチバンからも同じ報告が伝えられた。  すぐさまエラソウの突撃命令が下される。  耕平たちは雄叫びを上げ、公民館に突っ込んだ。  人間が二十八人ということは、こちら一人で三人を相手すればよいということである。つまり、三人までは噛みついてよいということだ。耕平の中で期待が膨らんでゆく。  見張りの一人は制服を着た警官だった。こちらに気づくと小さな銃を構え、恐怖に怯えた声で何かを叫んだ後、発砲した。  弾は明後日の方向に飛んで行ったが、次弾を構える前に、耕平はその男の目の前に立っていた。 「撃つか?」  そう訊いてみたが、男は耕平を見てただ震えているだけだった。  耕平は男の握りしめた拳銃をそっと指先でつまみ、ぐにゃりと曲げると放り投げた。  そして、緊張で動くこともできないその男の首筋にかみついた。  男の悲鳴が上がる。  いい。とても気持ちがいい。最高の気分だ。  高揚感に浸っていると、体にちょっとした衝撃が走った。振り返ると、筋肉隆々の青年が鉄パイプで耕平の肩のところを殴りつけていた。  痛みは、ない。強靭でぶ厚い黒い皮膚はそのようなものでは悪意を伝えることはできない仕様だった。  耕平がゆっくり振り向くと、青年は狂ったように鉄パイプを叩きつけて来たが、それでも同じことだった。耕平にはそれが皮膚を優しくさすられているようにしか感じない。  いくら待っても、青年があきらめないので耕平は鬱陶しくなり、鉄パイプを払いのけた。  獲物がなくなった彼は涙目になって逃げようとしたが、耕平は後ろからその肩をぐいとつかんだ。力が入りすぎたのか、男が悲鳴を上げて地面に膝をつく。  耕平はそのまま彼の太い首筋にかぶりついた。  くぐもった悲鳴。いい。最高だ。これまでに感じたことがない昂揚だった。  青年がばたりと倒れると、耕平は立ち上がった。彼が仲間になるかどうかを見届けている暇はない。最後の一人を探そうと、視線を公民館の中に向けると、中は既に乱痴気パーティのようで仲間たちが人間たちに噛みつきまくっていた。そこで取り分を見つけるのは難しそうだった。  建物の外ではジロリとカゲオが所在なさげに立ちすくんでいた。  ジロリは赤く染まった口回りを布切れで拭い、一仕事終えたところのようだったが、カゲオは全く血の臭いがしていなかった。 「やってないのか?」  俺の問いにカゲオは小さくうなずいた。  奥手というかなんというか、彼は少し変わっていて、人に対して積極性がない。つまり、人を噛んだりしないのだ。自分たちの存在意義を否定するような行動をなぜとれるのか、耕平には不思議でならなかった。  そんな時、ちょうど公民館から一人の男が飛び出してきた。  耕平たちにも目をくれず、ただまっすぐに建物から離れようと駆け出した男の服を耕平は咄嗟につかんだ。  バランスを崩して地面に突っ伏した男を横目に耕平はカゲオに「どうする?」と声をかけた。  カゲオは耕平とジロリの顔を交互に見て、結局首をかしげて、どこかへ行ってしまった。  ジロリは肩をすくめ、それならばと、耕平は男の首筋に牙を立てた。丹念に血を吸い、その代わりに耕平の体液を送り込んでやる。  彼が仲間になるかどうかは運次第。だがそれは見届けず、次の人間のいる場所へ向かう。それが群れのルールだった。  だが、宴が終わると、エラソウはここで小休止を取ると宣言した。今回の襲撃で仲間になるものを加え、群れを大きくしてから出発するのだという。  群れが大きくなればそれだけ大勢の人間を相手にできる。確かに彼のいうことももっともなような気もした。まだ見ぬ大量の人間と、彼らを襲うその瞬間を想像して、耕平はまたぼうっとなった。  素晴らしい。やることが決まっているシンプルな生き方。そして、それが阻まれることのない生き方がこれほどまでに爽快だとは思わなかった。  ここには耕平が望んでいたすべてがあった。  おそらく人類が望んでいるすべてもあるだろうとそう思えた。    4  男の目はテレビの映像に釘付けになっていた。もっとも、それは男だけのことではなかったはずだ。日本中のかなりの数の人間が男と同じ行動をとっていたはずだった。  ニュース映像は鹿児島からのものだった。黒い人らしきものが人間を襲い、噛みつきまわり、警察力は無力で、街はパニック状態となっていた。まるで外国の暴徒を撮影したような映像は、突如、現地レポーターのものと思しき悲鳴とともに落ちた。  国営放送を含む各局とも一様に同じ状態を伝えていた。季節外れのエイプリルフールなどではありえなかった。  男は詰めていた息を大きく吐いた。  それから、テーブルの上に置いた琥珀色の液体の注がれたグラスをぐっとあおった。  仕事をやめたばかりでこれといってやることのない男にとっては少々強すぎる刺激だった。  ヘリコプターからの映像と現地映像が交互に切り替わりながら、さながら戦場のようなシーンがヒステリックなレポーターの声をバックに流し続けられる。  襲われては倒れ行く人、人、人。  男は学生時代にはまった仮想現実システムを思い出していた。そこには視覚だけなら十分に緻密さを堪能できる世界があったが、だがこれは現実世界だ。ゲームのプログラムを走らせる余地はない。  一体何が起こっているのか。どこかの国の生体兵器か、それとも突然変異の奇病なのか。あるいは異星人の来襲なのか。発想がSFチックになるのも仕方ない。こんなことは男の知る限り現実の世界ではありえなかった。  男は空になったグラスにボトルから注ごうとしたが、手を伸ばしたボトルは既に空っぽだった。  ニュースで伝えられる、地獄の窯が開いたようなその光景に男は戦慄しながら恍惚となった。  男は、ついこの前までこの国の官僚組織のそれなりの地位にいた。国の意思決定にかかわることのできる立場。その価値を知り、その重要さを認識し、自らの信じる政策が実行されるよう身を粉にして働いた。  具体的に言えば、氷河期対策としての宇宙進出計画だった。中欧露など大国が早々と採択していたその路線に日本も乗るべきだと彼は信じていた。地中都市構想は、大深度地下空間の脆弱性を克服できる目途が立っていなかったし、そもそも日本のような地震国で地下へ活路を目指すのは危険すぎた。それに、将来氷で地表が閉ざされてしまえば、地上経由での移動は不可能になってしまう。かといって、海上都市構想は、氷河期想定のもっとも緩やかなケースTまでしか意味をなさない。それ以上の寒冷化が進んだ場合、赤道直下の海洋都市は最悪、北海に浮かぶ原油採掘船と何ら変わらない。それらを考えると、見かけの困難さにも関わらず、宇宙を目指すことが最適解であり、人類の唯一の生存策だと彼には思われた。  だが、現実は、審議会は氷河期想定のケースVを実際には起こりえない机上の空論と封じ、ケースUさえも、ケースTに対応できる海洋都市群を構築できれば、将来的に対処可能と何の根拠もなく現在の思考から切り離してしまった。この未来の選択に関し、日本の決定はすべて保守勢力のなすがままだった。  その結果、民間で試験計画が進んでいたアート・フロートが国家事業に格上げされ、日本の未来を全面的に託すこととなった。  これに落胆した男は、職を辞し、今は何の仕事をすることなく自堕落な生活に身をやつしていた。それに飽きれば、友人から誘われている宇宙開発のベンチャー企業に加わるのもいいかもしれないと考えていたところだった。氷河期といったところで、彼が生きている間は現在の延長とさほど変わらぬのだから。  男は天井を見やって口の端を上げた。  危機は千年後どころではなく、すぐ目の前にあったのだ。鮮烈な地獄のような光景が手の届くところで展開されている。  どうしたものかと男は考え、目を閉じた。  どれだけそうしていたろうか。  気が付くと、外はすっかり暗くなっていた。  テレビの画面は変わらず特別中継が地獄の様子を映し続けていた。  男は無意識に携帯端末を手に取った。一瞬、ためらったが、結局、かつて部下だった男の番号に発信した。 「久しぶりだな」  男は相手にそう声をかけ、相手のヒステリックな声を制した。 「まあ、そう言うな。それより、鹿児島の件、そっちに何か情報入ってるか?」  電子通話の向こうで逡巡する気配があり、男は言葉を継いだ。 「いいから話せ。おまえ専属の外部コンサルタントになってやる」  男のその言葉は相手にとって十分な対価を持っていたようだった。 「え、未知の疫病、人を吸血鬼のように変える、血液感染? 患者は、何、銃も効かない超人化、だと?」  男は自分が無言で笑い出そうとするのを慌てて抑えた。 「ん、分かった。とりあえずは隔離政策だろうな」  日本初の感染爆発がゾンビウィルスとはさすがにしゃれにならない。 「当たり前だ。こういうのは初期対応がすべてだ。できれば早々に自衛隊を動かすまで考えた方がいい」  元部下は鍛えたつもりであったが、やはり有事における肝の据わり具合はまだまだである。 「そうだな。続報があったら連絡をくれ。いつでもいい、頼んだぞ」  通話を切って、テレビをもう一度覗き込むと、画面から異質な重力が発せられているように感じられた。  世界は変わろうとしている。誰にでも分かりやすい形で、それが彼の目の前にも提示されていた。    5  なんてことをしているんだ――――  打ち捨てられた町の中で、群れは休憩を取っていた。進行方向に人間たちの前線があり、そこに突入する前の小休憩だった。  そこで耕平は我に返り、背筋が凍りついた。  ありえない。自分がこんな化け物のような姿をしているのもそうだが、それ以上に信じられないのは、自分が喜々として人を襲っていることだ。耕平は自分がしてきたことを脳裏に並べてみて愕然とした。  おそらく、これは新種の奇病なのだろう。人を凶暴化、超人化させてしまうような、恐ろしい病なのだ。耕平の属している群れは既に五十人になろうとしていた。耕平たちが積極的に人に噛みつくことにより、所謂、感染爆発が起こっているといって間違いなかった。  今までなぜ自分はこんなことをしていたのだろう。そんなことができていたのだろう。人間の理性があればできるはずがない。他の連中も何も感じていないのだろうか。  耕平に限って言えば、理性がなくなったわけではない。理性自体はいくらかは残っている。だが、それが発揮されているかどうかは別問題だ。つい今しがたまではそうだった。昂揚しているときは、理性は薄い膜の向こう側で無言になってしまうのだ。  結果、人に噛みつかねばという欲求が抑えきれない。まるで吸血鬼だ。もっとも、彼らが噛みついているのは人の血が美味だから、ではない。むしろ、彼らの体液を人の中に注ぎこみ、自らの同族とするためだ。ただ、噛みつかれたとしてもその全員が仲間となるのではなく、いくらかの人間はそのまま死んでしまう。仲間に噛みつかれたらしい人間がショック死するさまを耕平は何人も見ていた。  そもそも自分はいつ奇病にかかったのだろうか。彼らに噛まれた記憶はない。となれば、記憶を失っていた最初の二日の間ということになる。その間に噛まれ、ショックで記憶を失い、彼らの仲間になった。そうとしか考えられない。そして、ハッピイ・キラーとなってあの家に押し込んだのだ。  耕平は頭を抱え込んだ。なぜこんな人の理から外れた行いをしなければならないのか。罪悪感が剣山の形で心臓を穴だらけにしているようだった。  その時、カゲオが下から顔を見上げているのに気づき、どきりとした。首を傾げ、こちらの様子を心配しているようであった。  耕平は彼に思い切って、ただし、小声で尋ねた。 「おまえは気にならないのか。俺たちはとんでもないことをやらかしているんだぞ。いくらこんな格好になったからといって、人を殺すなんて許されることじゃないだろ、そうは思わないのか?」  だが、カゲオが人を襲っているところを見たことがないのを思い出し、思わず、意気消沈する。 「そうか、おまえは、そうだよな……」  カゲオは不思議そうに耕平の言葉に首をかしげるだけで、何も言葉を返そうとはしなかった。  そこでふと耕平は異状に気が付いた。  頭の中に声が聞こえない。いつもうるさいぐらいに聞こえている仲間のあの声が今はぱたりと止んでいた。あわてて、周囲を見わたすと、仲間は何でもないようにいつも通りのふるまいをしている。  恐る恐る、耕平は目の前のカゲオにもう一度声をかけた。 「……カゲオ、そこの石ころをどれでもいい、拾ってくれないか」  だが、カゲオは首を左右に傾けるだけで、耕平の言ったことを実行しようとはしない。  耕平は理解した。彼らは今、耕平の言葉を理解していない。そして、また、耕平にも彼らの言葉が届いていない。完全な断絶状態が生じていた。  自分が理性を取り戻したことと関係があるようにも思えた。だが、なぜ今このように自分が理性的に考えられるようになったかは分からなかった。  どうすればいい? 群れを出て保護してもらい、治療を受けるか。否、こんな聞いたこともない病気に治療法があるわけがない。モルモットになるのが関の山だ。それにこれまでのことを考えれば、問答無用で殺されるかもしれない。否、この頑強な肉体を考えればそう簡単に殺されることはないだろうが、それでも不死であるとも思えない。  他に自分が取れそうな行動はないかと耕平が思いをめぐらしていると、後ろからどすんとイチバンがじゃれついてきた。いつもの相撲を取ろうということらしい。カゲオは目の前でおかしそうに笑っている。  とてもそんな気分にはなれなかった。  そっけなくイチバンをはねのけると、イチバンは不満そうに唸り声をあげ、耕平をにらみつけてきた。  すると、遠くからエラソウが叫び声を上げた。耕平たちの方を忌々しそうな顔つきで睨んでいた。おそらく何か、テレパシーで皆に訴えているのだろうが、今の耕平には何も聞こえなかった。  だが、皆が腰を一斉に上げたことで察しはついた。  行進を続けるのだ。北進して、また大勢の人を牙にかけるのだ。馬鹿げたことだ。今度は本格的な抵抗にあうだろう。人間だけでなく、今度はこちらにも損害が出るだろう。  だが、誰もそんなことを気にする者はいないらしい。  耕平は自分がどうするべきか、答えを見いだせなかった。    6 「あの時はどうなるかと思いましたよ。ホント目の前まであいつらが迫って来てたんですから。例の特殊弾薬がなかったらと思うとぞっとしますよ」 「分かった分かった」 「でも、取りあえずは一安心ですよね。封鎖も南熊本〜阿蘇〜延岡のMANラインで構築されましたし、日本の危機はひとまず回避したってことですよね」 「そうだな」  前線に建てられたプレハブの休憩室で隊員たちは、二日前の戦闘を思い出し、自らの感情を吐き出していた。  だが、これらがすべて空元気であることは分隊長である加藤も熟知していた。なにしろ、自分たちが戦っている相手は通常兵器ではどうにもならず、頼みの特殊弾薬は前回使用した五発がすべてであり、この前線にはもう一発も残っていないのだから。 「人員も増強される見込みだって言いますし、これなら南部制圧も時間の問題でしょ。僕、嫁さんとの旅行キャンセルして招集されたんですよね。早いとこ埋め合わせしないと嫁さんの方がゾンビよりおっかなくなっちゃいますよ。大体、ゾンビなんて数頼みのモブキャラみたいなものなのに――」 「佐山軍曹」  部下の軽口が許容できなくなって、加藤は厳しい口調で注意した。 「口を慎め。『ゾンビ』ではない。彼らは『zata鬼化症候群患者』、もしくは『zata』だ」 「え〜、『ゾンビ』でいいじゃないですか」  佐山が不満を隠そうともせずに言った。 「ダメだ」 「何でですか。じゃあ、『鬼』でいいですか?」 「佐山」 「だって、『鬼化症候群』でしょ。『鬼』でいいじゃないですか」  佐山はしつこく食い下がる。  だが、自衛隊のブリーフィングでは、彼らの呼称は「zata」で統一するよう強く命じられていた。外見と能力はどうあれ、元々は人間であり、治療できる可能性がある以上、全くの人外扱いすることも問題なのだった。 「それ以上は命令違反になるぞ。それに、ここ一日彼らの北進行動がないからといって気を緩めるな。鹿児島県北部のzataがこちらに移動しているという報告もある。さらなる防衛行動は必須だと思え」  加藤の訓告に佐山は渋々承知したが、他の者たちからは別の反論が噴き出した。 「それならそれで、早く特殊弾薬の一般配備をしてほしいものですな。もうあれの残弾はゼロですからね。今またあの患者様に押し寄せられたら、正直どうにもなりません」 「串辺の意見に同意ですな。戦えというからには装備を回してもらわにゃ。竹やりで爆撃機は落とせんのですよ」  それは皆が思っていたことだった。 「だが、あれって米軍から特別に回ってきたってやつでしょ。そう簡単に次があるんですかねえ」  噴出した不満に加藤は再び語調を強めた。 「装備に対して不満は言うな。上に進言はしてある。後方には後方の事情がある。そもそも、あの実験配備があったおかげで我々は首の皮一枚のところで無事だったのだ。感謝こそすれ文句を言う立場にはないはずだろ。そもそも、我々の行動は患者の封じ込めだ。それに対するあらゆる武力行為が認められているだけでも感謝するべきだ、違うか?」  この点に対して異論は誰からも上がらなかった。  まったく、英断、否、豪断だと加藤も思う。いくら疫病によって人が凶暴化しているとはいえ、それは人なのだ。病人である。そんな彼らに対しあらゆる武力の使用が認められたのだ。よく日本でそんな決断がなされたと思う。首相である田本伝二のことを見直したという声は自衛隊内でも多い。もっとも、それは病人が理性を失い超人化し、さらに人に対する攻撃行動をとり、伝染性の極めて強い疫病であることが確認された感染爆発から四日目のことであったのだが、それは決断の重要さを損なうものではない。それがなされていなければ八日後の現在、自分たちはさらに後退を重ね、感染が本州に拡大していたことは間違いなかったであろう。 「しかし、間も悪かったですな。例のアート・フロートの試験航海も中止になって、本当に氷河期対策間に合うんですかね」 「その前に、ゾンビ、いやいやzataで日本滅亡ってことも――」  その時、高橋伍長が部屋にあわてて入って来た。 「報告。今、東京から特殊弾もって女性技官が来たって」  部屋に歓声があがった。 「量はどれだけだ?」 「うちの部隊に回ってきます?」 「そんなの知りませんよ、今、彼女、食堂にいるみたいですよ」  その言葉で皆の腰が浮き、小隊全員は仮設の食堂に移動した。  そこにいたのは、白衣を着た小さな女性で、既に他の隊員たちに囲まれ、質問攻めにあっていた。  分隊の隊員たちもその質問攻勢に参加しようという空気をみなぎらせていたので、隊長の加藤は自ら場を整理しようと大きく咳払いをした。 「あなたが、中央から特殊弾薬を持って来られた方ですか?」  彼の言葉で他の部隊の隊員たちもとりあえず口を閉じた。一昨日の防御戦で最も功績のあった分隊の隊長である加藤にはそれなりの影響力があった。 「ええと、それはですね、さっきからお伝えしているんですが……」  白衣の女性は困ったような笑顔をして言った。 「情報に齟齬があるのではないかと思うんですよね」 「齟齬、とおっしゃいますと?」  加藤は何だか嫌な予感がした。 「特殊弾薬というのは、私は存じ上げませんよ」 「は……?」  すぐに隊員たちの中から威嚇するような非難の声があがった。  加藤も自らの苛立ちを飲み込み、相手に再び尋ねた。 「……では、あなたは一体何しにここへ?」  すると、彼女は小さな姿勢を正して言った。 「はい、私、東洋理化学研究所化学部門第二十三研究室主任研究員の岸万里香と申します。この度は当研究室で合成したzata鬼化症候群のキヒヤクのサンプルを持ってまいりました」 「キヒヤク?」  彼女の口にした単語がすぐには理解できず加藤は首をひねった。 「はい、これは当該症例の患者が、健常者に対する非常に強い攻撃性を持つことから、この忌避薬によって患者のホルモン受容体に阻害効果を生成し、それによって健常者への攻撃性を著しく低減することが見込まれるものです。このA-2試薬は他の動物サンプルでの実証試験で高い効果が見られたのですが、なにぶん当該症例患者自体は――」 「ちょ、ちょっと待ってくれ。もう少し分かりやすく言ってもらえませんかね」  加藤はうろたえて言った。 「そうだ、現場を馬鹿にしてるのか」 「三行で言ってくれ」  隊員たちの不満げな視線に岸は少し考えてこう言った。 「ええと、この薬を飲めば、zata患者が近づかない……いえ、近づきにくくなります」 「……」  彼女の言葉により明らかに隊員たちのテンションは下がった。彼らが待っていたのは、zataに致命傷を与える特殊兵器であり、根本的解決につながらない防御アイテムなどではなかった。  立ち上がっていた隊員たちの何人かがイスに座ったが、彼女は気にせず言葉を続けた。 「それでですね、その忌避薬の効果を確かめるために、前線での実地試験を行いたく思っています」  やはりか。加藤は嫌な予感の実現を悟ってため息をついた。 「実地試験、ですか?」 「はい。ここには確保された患者は何名かいますか?」 「生きているzataということですか?」 「勿論」 「まさか。前回でも虎の子の特殊弾薬を使って追い返すのが精一杯でした」  彼女はまるで学生のような幼さを前面に出してこう言った。 「では、私を封じ込めラインの内側に連れて行って下さい。そこで患者の直接の反応を取りたいと思います」  ため息の連鎖が食堂に充満した。  希望を望めば、逆に厄介ごとがやって来る。加藤は何度経験しても改まらない自分の甘えた性根を改めて戒めた。  休憩室に戻ると、案の定、隊員たちの口から不満が噴出した。 「何なんですか、忌避薬って。虫よけじゃないですか。虫よけがあったって、あいつら自体をどうこうできなきゃ意味ないでしょ」 「同意。物理的な排除方法がない限り、この封鎖ラインを維持できるのに役立つかどうかは甚だ疑問です」 「そう言うな」  加藤は彼らの意見に乗りたいのをこらえて言った。 「忌避薬でも、俺たち自身の身を守ることにつながるんだ。悪い話じゃない。何をするにおいても、まず俺たち自身の安全が確保されるのは重要なことだ」  それは皆分かっているはずだ。ただ、期待が裏切られたショックが埋められなかっただけなのだ。 「それはそうですけどね、そのためにわざわざ封鎖区域に入って実地試験って何なんですか。より大きな危険を甘受しろってことですよね。安全も何もあったもんじゃない」 「それは……」  そこを指摘されては、加藤も反論できなかった。  その時、食堂に残っていた高橋伍長がまた部屋にあわてて戻って来た。 「続報です」 「今度は何だ」  加藤だけでなく、皆の視線もいささか厳しかった。 「上から漏れて来たんですけど、例の忌避薬の実地試験、当面行わないそうです」 「ん?」 「危険が大きすぎるため、とりあえず、部隊で緊急時に服用するにとどめ、実地実験はストップだとか」 「何だよ、それ」  部屋の空気が弛緩するのが分かった。だが、これが良いことなのかどうか加藤には分からなかった。 「それであの……」  高橋がまだ何か言いたそうにしているのを加藤はぞんざいに言った。 「もういい」 「でも、彼女、それを聞いて――」 「もういいと言ってるんだ」  その強い言葉で部下を黙らせたのを加藤が後悔したのは、それから十二時間後のことであった。    7  動悸が治まり、耕平は今しがたの体験をようやく理解しはじめてきた。  自分は殺されかけたのだ。  相手は自衛隊。自分たちはおそらく異形の怪物として彼らに攻撃され、仲間の何人かは死んだかもしれない。  それも仕方のないことだったと耕平は思う。あの時は、耕平もあの昂揚感に支配されていて、自分が人であることを忘れていたぐらいだ。相手を蹂躙しようとしていたわけで、彼らの首筋に牙を突き立てようとしていたわけで、自衛隊が自分たちを憐れむべき奇病の患者ではなく、化け物として攻撃してきたとしても無理はない。そう思った。  それでも今になって思うのは、誰かから「おまえは敵だ」とみなされることはひどく居心地が悪いということだった。  今、耕平たちがいるのは、先の惨劇の場所から数キロ南へ下がった、人のいなくなったスーパーマーケットの中だった。  あの敗走の責任の大方を負うエラソウは冷凍食品売り場の片隅で無為に冷凍食品を噛み砕いている。リーダーとしての威厳を完全に喪失し、もはや彼は群れに対し大した影響をもたなかった。  他の仲間もまた、傷つき、初めて負けたその感情をどうしてよいか分からず途方にくれていた。陰惨とした空気に包まれた群れは、これまでとは全く違うものに思えた。  耕平は思った。これは相応の報いだ。耕平を含め、自分たちが今までしてきたことを考えてみればいい。多くの人間たちに噛みつき、疫病患者を増やしてきたのだ。我を失っていたとはいえ、決して許されることではない。  では、どうすればいい。自衛隊に自分は人間なのだ、理性が残っているのだと訴えるか。さすがにそれは良い手とは思えなかった。今回のことで彼らは自分たちを抹殺しようとしており、その力があることも証明された。彼らへの自首は、自殺行為に等しかった。  耕平はため息を出し尽くしてうつむくと、下からカゲオが見上げていた。顔を上げると、イチバンが耕平の周りをぐるぐると回っていた。 「言いたいことがあるなら、はっきり言えよ」  耕平はそうつぶやいたが、二人から戻ってくるのは言葉にならない短い音の切れ端だけだった。  やはり彼らとは違うのだ。自分だけ理性があり、言葉も使えるというのは、自分の症状が進んでいないということなのだろうか。まだ自分は人に近いと喜ぶべきことなのだろうか。それとも、背負う必要のない苦悩をわざわざ引き受ける愚か者なのだろうか。  耕平は自分の手の黒いごつごつとした鱗のような皮膚を見て、そのどちらの考えも馬鹿馬鹿しく思った。  耕平は一人、フロアを出た。入口の自動ドアは何の差別もなく開き、足元のパネルが「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」と点滅した。  入口のすぐ外では、見張りをしていたらしいジロリが何も言わずただ耕平を見据えたが、耕平は彼女の視線から逃げるように廃墟の町を後にした。  どうせ、ここにいても彼らとは意志が通じないのだ。少なくとも彼らはまったく元の人間だったときのように考えることができないのだ。耕平の苦悩を分かち合える者は、ここには誰もいなかった。  耕平は町中あてどなく歩き始めた。  人もいない。動物もいない。そんな無人の町が二十一世紀の日本で見られるとは思っていなかった。それは少なくとも氷河期がやってきたころの打ち捨てられた日本だと何となく思っていただけに、早すぎるその未来視は耕平から現実感を奪い取った。  人はいないが、突然変異のような化け物がいるさ。耕平は心の中でつぶやき、街角の壁にいくつか穴をあけた。  小さな町から出ると、周囲は一面の田畑で、その中で足は自然と山の方へと向かっていった。一人散策という気楽なものではなかったが、人のいない町をさまようよりはいくらかマシに思えた。  舗装された山道を外れ、木々の鬱蒼と茂った森の中に分け入って行く。  昼間でも暗い森の中で、大学の時に友人と山登りをしたことが思い出された。あの時は入念に準備をしていたにも関わらず、山の中は不快だった。あの時も季節は夏。暑く蒸して鬱陶しく、虫がまとわりつき、無数の枝がしだれかかってきて、耕平たちの気力を削いだ。それでも、その困難さは日常から遠く隔たった探検気分を二人に味合わせてくれたものだった。  だが、同じ夏であるにも関わらず、今は暑さなど微塵も感じず、顔にかかる枝も何ほどのものでもない。ちょっとした木なら差し出した手に力を入れれば、その自立を早々に諦めてしまう。  山の王、と言えば聞こえはいいが、実際そんなものではありえないことは耕平にも分かっていた。自分たちはおそらくこの地球の歴史上初めて出現した突然変異のようなものだ。この慣れ親しんだ自然とは隔絶している。人間だけから遠ざけられているわけではないのだ。そう考えるだけで泣きたい気持ちになった。  耕平は山中の開けた場所で足を止め、苛立ちに任せ回りの木々を乱暴に薙ぎ払った。  手を振り回し、足で蹴り倒し、回りのそれは面白いように簡単に屈服して、地に頭を垂れてゆく。一人開墾ブルドーザだ。みるみるうちに空間が広がってゆく。  しばらくそんなことをやっていると、さすがに己のやっていることの虚しさが自覚され、耕平は地面に座り込んだ。  どれだけそうしていただろう。耕平はふと人の気配を感じて後ろを振り返った。  そこには一人の老婆がその小さな体に魂をつなぎとめるのが限界と言わんばかりに立っていた。 「あ」  耕平は思わず口ごもった。次の自分の行動が相手にパニックを引き起こすことが容易に想像できたからだ。こんな山の中で一人でいるときに自分のような化け物に出会ったら耕平とて現実から逃げ出したくなる。ましてや相手は老人である。  このまま静かに立ち去った方が良いのか、それとも敵意のないことを言葉で示した方がよいのか。決めかねていると、老人は突然しゃがれた声を上げ、よろよろと耕平の方に歩き始めた。 「あ〜あ〜あ〜」  相手の予想外の行動に耕平は気おされ、ずりずりと体をよけた。老人はそのまま耕平の前を素通りして反対側へ行くとそのまま座りこんでしまった。 「あの、一体……」  おそるおそる耕平が声をかけると、老人は明らかに嘆き悲しむ調子で声をもらした。 「あともう少しだったのにねえ……」  老人は大地に倒れ伏した茎の細い植物を手に取り、そう言った。  耕平が後ろで立ち上がるのも気にする風になく、彼女はしゃべり続けた。 「この子は五十年に一度花を咲かすのよ。ずうっと見守ってきて、今年こそはと思って、ここのところは毎日見に来てたのに……ああ、かわいそうにねえ……」  どうやら耕平がなぎ倒した木々の中に貴重な植物が混じっていたらしい。耕平は罪悪感を刺激された。  だが、今問題なのはそこではない。目の前の彼女が異形の者である耕平に何の反応も示さないということであった。  もしかしてボケているのか。耕平がそう思った瞬間、彼女はくるりと耕平の方を振り返り、耕平をじっと見つめた。  そして毅然とした調子でこう言った。 「あなたがやったの?」  自分にまっすぐに向けられた言葉に耕平は恐れと同時に喜びを感じていた。彼女の言葉には確かにいささかの怒気が含まれていたが、それは耕平のことを人として、否、そうでなくとも、同じ節理のもとで生きる存在として扱おうとする故のことに感じられた。 「黙っていないではっきりとおっしゃい」  まるで教師のようなその叱責に耕平は幼いころを思い出し、反射的に頭を下げた。 「すみません。どうにもムシャクシャして、自分を抑えられなくて……」  そう言ってから彼女の反応が気になり、耕平はそっと顔を上げた。  すると彼女は困ったような顔で言った。 「もう、若い人はすぐにそれ。やってしまってからじゃどうしようもないこともあるのよ」  彼女の言葉は耕平の心をえぐった。 「でも、反省しているのに、こんな年寄りがいつまでもぶちぶち言っても意味ないわね。私からあなたに言えることは一つだけ。今度からはこんなこと、しないでね」  そう言って笑みを浮かべた彼女の仕草はとてつもなくチャーミングに見えた。 「は、はい」  彼女の話では、山のふもとの自宅に家族と一緒に住んでいるのだが、彼女の一家以外は全部避難してしまったということだった。 「お婆さんは、どうして避難しないんですか?」 「だって、その子の咲くところをお祝いしてあげようと思ってたから……」  耕平がぺしゃんこにしたその植物を指して彼女はそう言った。  耕平は思わず頭を垂れた。  だが、彼女をこのままにしておくわけにはいかなかった。 「車はあるんですか?」 「あるわよ。うちの車、ピンク色でかわいいの」  彼女は呑気な口調でそう答えた。  今なら、近くにいるのは耕平たちの群れだけで、他に北上してきている仲間はいないはずだった。だが、それも時間の問題で、やがて南からぞろぞろ民族大移動のごとくやって来るのは目に見えている。脱出するなら今が最後のチャンスのように思えた。  老婆をどう説得しようかと考えていると、彼女が言った。 「そうだ、あなたもいらっしゃいな」 「え」 「テレビで見たわ。そのかっこ、あなた、あの、鬼の何とかさんっていう病気にかかってるんでしょ。早く病院に行った方がいいわ。うちの車で一緒に連れて行ってあげるわ、ね、それがいいわ、そうしましょ」 「それは……」  彼女の申し出は嬉しかったが、彼女の家族が彼女と同じ反応をするとは思えなかった。それに、病院に行くということはあの封鎖線を越えねばならず、それが何を意味するかは身をもって体験してきたばかりだった。 「いえ、僕は一緒には……」 「ダメよ、いいから、一緒にいらっしゃい」 「でも」 「人の好意は素直に受けるものよ。こんな老い先短い年寄りの好意ならなおさらよ」 「……」  固辞するつもりが、彼女の勢いにまけて結局彼女の家までは送り届けるつもりで一緒に行くことになった。  山を下りたところにある、野菜畑に囲まれた昔ながらの木造一軒家が彼女の自宅だった。 「ただいまあ」  彼女が玄関をくぐった後の家人の怒りと、耕平を見たときの驚きは予想通りのものだった。 「な、なんだ、そいつは!!!」 「ばあちゃ、そいつから離れて、こっち来て、早く!」 「そいつ、あれ、なんだ、あのzata鬼化症候群か、その患者だろ。どうしてそんな奴を――」  家にいたのは彼女の息子と孫だった。息子の嫁と小さい方の孫は既に博多の親戚のところに避難したらしかった。 「あんたらは人の話もよう聞かんと。この人はね……ええと、お名前何て言いましたっけ?」  相変わらず毒気を抜かれる彼女の言葉に耕平は正直に名乗った。 「……坂口、耕平です」 「そうそう。坂口さん。坂口さんも私たちと一緒に避難しましょういうお話になったからね、あんたたちも早う準備しなさいよ」 「婆ちゃん、何言ってるんだ?」  彼女は息子に引きずられ家の奥に消えて行った。  玄関に取り残された耕平は高校生らしい孫と微妙な空気の中でにらみあった。  口を先に開いたのは彼の方だった。 「あんた、ばあちゃんに何をした。ばあちゃんはな、俺たちがいくら避難を進めても、全然うんと言わないで、それで仕方なく母さんと妹は先に避難させたんだ。それが急にこんな――」  耕平はぺこりと頭を下げた。 「分かってる。私は君たちとは一緒に行かない。家にも上がらない。だが、君のお婆さんとは縁があって知り合った。だがら、君たちが無事に出発するまで、見守りたい。それだけだ」 「何言ってるんだ、zata患者は人を襲うってニュースで言ってるぞ、あんたもそうなんだろ」  耕平は胸に銀の弾丸を埋め込まれる気持ちになった。 「……もう、そんなことは、しない」 「もうって、おまえ――」  耕平はそのまま玄関を出た。  彼らが自分をどう思うかは容易に想像がついた。耕平たちがしてきたことを考えれば、それが普通。それが当然なのだ。だが、今はそんな銀の弾丸を受けても倒れるわけにはいかなかった。  一時間ほどして父親の方が、出発は翌朝だと外に出てきて告げた。一刻も早い方が良いように思えたが、彼女が仏壇に手を合わせていると言われれば強く反対できなかった。  その夜、耕平は家の塀の外で見張りを続けた。もし仮に、ここで眠りにつけば、再び本能のままに行動する存在に逆戻りしてしまうのではと、怖くて眠る気にはなれなかった。幸い、この体になってから睡眠欲は感じたこともなかったので、夜通し起きていることにした。  夜中に仲間の襲撃はなかった。朝になって出て来た家族は、父親の方はどこから手に入れたのか猟銃を携えており、息子の方は金属バットをバットケースにつっこんでいた。  父親はガレージに入って車のエンジンを吹かしながら、なかなか家から出てこない母親に痺れを切らしているようだった。 「婆ちゃん、早くしてくれ。こっちは準備できてるよ。おい、和樹、婆ちゃん呼んで来い」 「オッケー」  彼女が言ったようにこの家に自家用バンがあったのは幸運だった。このご時世自家用車を持つ世帯は少ないが、庭に農機具が散らばっているところを見ると兼業農家なのだろう。今現在、自動配車サービスが動いている様子がない以上、家に車がなければ老人を連れた避難は絶望的だっただろう。  耕平は父親に改めてこの先のアドバイスをした。熊本の南方を流れる川向こうに自衛隊が防衛線を引いており、そこまで行けば安全であること、他のzata患者たちはおそらく言葉は通じないので、接触は極力さけるべきだということ。耕平の同行は途中までとすること等々。  説明が終わるころ、ようやく彼女が家から出て来た。 「そんなに急いでも仕方ないでしょ」  彼女はいささかむくれ顔でそう言った。 「婆ちゃん、のんびりしすぎだよ」  息子の愚痴に彼女は笑って答えた。 「はいはい、急ぎましょ、ほらほら坂口さんも早く乗ってちょうだい」  どうやら彼女は耕平も一緒に避難すると思っているようだった。 「婆ちゃん、この人はな……」  父親が説明に窮していると、近くで叫び声が上がった。人間の、ではない。仲間の雄叫びだった。  その場の全員に緊張感が走り、孫が敵意のこもった視線で耕平をにらんだ。 「おまえが、呼んだのか?」 「え」 「おまえらは群れで行動するんだろ」 「いや、俺は……」  彼女が孫の頭をぺしりと叩いて言った。 「何言っとるの、早く皆車にお乗りなさい」  もちろん、耕平は彼女の言葉に従うことはできなかった。父親は自動操縦のスイッチを入れ、息子が中から彼女の腕を引っ張り、無理やり車の中に引き込んだ。  ドアが閉まると、中で彼女が抵抗していた。 「ちょっと、まだ坂口さんが乗ってないでしょうに」  だが、彼らの会話に参加する余裕はもはやなかった。  前方から二人の仲間が狭い道路を猿のように駆けて来るのが目に入った。五十メートルほどの距離だ。それは彼らにとってないに等しい距離だった。それは耕平の群れの仲間ではなく、内心、耕平は胸をなでおろした。  同時に耕平は前方に跳躍し、向かってくる片方に正面から飛びかかり、全力の打撃を相手の右太ももに叩き込んだ。ぐしゃりとひしゃげた感触でとりあえずの時間を稼ぐことができそうだった。 「早ういらっしゃい!」  車庫の中から彼女の声が聞こえたが、耕平は罵倒で返した。 「さっさと行け!」  そう叫びつつ、車庫に突っ込もうとするもう一人の仲間に後ろからタックルをかまして地面に押し倒す。相手は訳が分からないという感じだったが、耕平は馬乗りになって容赦なく相手を失神させるまで殴り続けた。  顔を上げると、モーター音を響かせた車がゆっくりと車庫から出て来るところだった。  車の窓からは息子が構えた猟銃がこちらに狙いをつけていた。  こっちの敵は無力化した。そんなことをしていないでさっさと出発しろ。そう思った瞬間、朝の空気に銃声が響いた。  一発、二発。最初の弾丸は耕平の肩口にめり込んだがダメージはない。二発目は空を切って後方へ飛んで行った。 「――――」  それから車は逃げるように猛ダッシュで発進していった。  なぜ、撃たれた?  耕平は呆然としつつ、考えを巡らせた。  彼は耕平の援護のために撃ったのだ。いや、襲って来た奴を狙ったのだ。ひょっとして、耕平が三人の内どれなのか見分けなどつかなかったのかもしれない。  だが、最終的にたどり着く答えは、砂の味がした。  車は人通りのない道を全力で走り去って行く。耕平との決別を言い渡すかのように。  あの老婆が無事でいてくれますように。耕平はそう願った。彼女だけは人として耕平を扱ってくれたのだ。そう願って願いすぎることはないはずだった。父と息子の行動はただ受け入れるしかない。これは耕平の贖罪だった。人でありながら、人の尊厳を犯した者への罰なのだ。  何度も考えた結果、耕平はそれを償うために、人を救うことを決意した。それが耕平の人間性を保つ唯一の行為のような気がしたからだった。  その後、耕平は周辺でまだ残っている人たちと接触しては同じようなことを繰り返した。憎まれ、恐れられ、嫌われ、それでも彼らをできる限り逃がした。例え、同族を傷つけても。  そして、時折、意識を失う時が来る。睡眠欲はなくても体の限界はあるらしい。すると、あの悪夢のような時間が訪れる。耕平も再び彼らと同じになる時が。人に噛みつき、人に奇病をばらまく忌むべき存在に。そして、それに最上の喜びを感じる存在に。  だが、耕平はその力を行使をせずに済んだ。なぜなら、そのとき周囲にはもう人間はいなかったからだ。  再び理性ある存在に戻って来た時、心臓に悪い安堵が迎えてくれた。また人を襲わずにすんだのだ、と。耕平は自分が行ったことに助られたのだと深く感謝した。  それでも本能に支配される時間は次第に短くなっていくような気がした。それは化け物である特徴が一つ消え去ることを意味していたが、よく考えると、それはさらに大きな可能性を秘めていた。ひょっとしてこのまま自分は人に戻れる可能性があるのではないだろうか。病気自体が治る可能性があるのではないか。そんなかすかな光明が見えてくるような気がしたのだった。    8  画面の向こう側では、中継ヘリの中のニュースレポーターが強張った面持で実況をしていた。 《ご覧いただいていますでしょうか。今、眼下に十人ほどの集団が農地の間の小道をぞろぞろと一列になって歩いています。ここは熊本県南部、なんと、あの封鎖地区の中なのです。ご存知の通り、ここは自衛隊や警察などによって立入禁止とされている区域なのですが、彼らはどうやってか、昨夜未明、そこに侵入し、既に封鎖線から二十キロ南下した場所に達しています。彼らは一体何を目的としているのでしょうか。被災地における空き巣、店舗荒らしを目論んでいるとしたら決して許せないことです。なお、この映像はヘリコプターからお送りしており、これは各報道機関に対し、昼間に一日二時間のみ飛行が許可されているものです。あ、見て下さい。今、自衛隊が彼らを保護すべくやってきました。装甲車を含む五台の車両が前後から彼らを挟み込んでいます。ああ、彼らは田んぼの中に逃げようとしています。しかし、装甲車から自衛隊の隊員が次々と出てきて彼らを追っていきます。彼らは抵抗をしています。必死になって抵抗しています。ですが、自衛隊員が次々と身柄を確保していきます。隊員たちは二十人以上いる模様で――》  ニュースはまるで犯罪者が取り押さえられるようなその光景を喜々として流し続けた。  二人の男たちは映像を見ながら渋い顔をした。 「あ〜、ついにやっちゃいましたか。そのうちやるんじゃないかとは思ってましたけどねえ」 「これで警備が強化されてしまいます」 「関西方面は気の早い会員が多かったですからねえ。大丈夫でしょうか、榊原さん?」  榊原と呼ばれた男はお茶を一口すすって言った。 「寒川さん、残りの会員は何人になります?」 「ええと……」  寒川はテーブルの上のファイリングされた紙の資料をめくりながら眼鏡をかけ直した。 「昨日の時点で、百八十二人でしたから今の十人を除いて、百七十二人ですね。今日も何通かメールが来ていましたが」 「委託資産残高は?」 「たしか、五十七億ちょっとだったと」  テレビの映像を冷めた目で眺めながら榊原はつぶやいた。 「不思議なものです。いくらあんなものが大量発生したからといって、自分までそうなりたがる人間が出てくるなんて、世も末です」 「全くです」  寒川はそれに全面的に同意した。 「実際、このまま日本が終わってもおかしくありませんけどねえ。ゲームでいうところの、なんでしたっけ、そう、バッドエンド」  彼の冗談と思しき一言に榊原は笑わなかった。 「それより、それを見越して、〈zataの会〉なんてものを即座に立ち上げた榊原さんの慧眼には驚きを隠せません。インターネットのあの動画で皆さん、触発されたわけですからね」  榊原がテレビで地獄絵図を見たのは一週間前のことだった。官僚時代の後輩によれば謎の奇病ということ以外、政府にもロクな情報がないようだった。  直感で新しい時代の幕開けを感じ取った彼は勝負に出ることにした。〈zataの会〉なるものを立ち上げ、インターネットにビデオメッセージをアップした。未来に希望を持てない人々をターゲットにして、一山当てようともくろんだのだった。そして、寒川ら何人かの協力者を得て、その計画は順調に進んでいる。  だが、榊原の予想よりは現実はまともだったらしい。田本総理は思い切った決断を下し、九州中部に封鎖線を築くことに成功し、いまだzataは日本中に広がっていない。もっとも、それは榊原の〈zataの会〉にとっては良いことなのだが、今一釈然としないものがあった。 「……私のせいだと?」 「いえいえ、褒めているんですよ、心の底から」  寒川は榊原を持ち上げた。  だが、その言葉に何の感動もなく、榊原は言った。 「寒川さん、私はただ社会の空気の一部を言語化したにすぎない。もともと今の社会に閉塞感を感じていた人間がそれだけ多かったということでしょう」 「むずかしいお話しですなあ」 「難しいのはこれからですよ。私もこの会を立ち上げたからには、会員たちの希望を叶えなければならない」 「ですが、これから百人を超える人間が封鎖地域に入るのは難しいのでは? それとも強硬突破を図るおつもりで?」  計画の細部を伝えていない寒川は興味深々で尋ねてくる。 「まあ、それに関しては私に考えがあります。寒川さんは引き続き、会員の各種事務手続きをお願いします」  その時、扉が開いて若い女性が入って来た。薄いグレーのスーツに身を包んだ彼女は感情を表に出さないまま、榊原に向けて言った。 「お時間です。皆さま、お待ちかねです」  榊原はよしっと声を出して腰を上げた。  キャパ百人の貸会議室に集まっているのは、zataの会の東京圏の会員九十人と、入会希望者が二十五人。  榊原が会場に入ったとき、そこは既に熱気で満ち満ちていた。  女が進行役としてマイクを使い榊原を紹介する。 〈皆さま、お待たせしました。これよりzataの会代表、榊原春義からご挨拶があります〉  マイクが短いハウリングを起こし、会員たちは期待をいやがおうにも高めた。  会員の前に立った榊原は低く落ち着いた声で話し始めた。 〈はじめまして。代表の榊原です。こうして皆様に直接お目にかかるのは初めてですね。本日ここには百十五人もの方が列席されています。このような怪しげな会に参加されることに腰が引けた方も、中にはいらっしゃるのではないでしょうか〉  会場の一部で小さな笑いが起こる。 〈ですが、「怪しい」とはこれまでの社会の既成概念に基づくものです。社会が変わるとき、世界が変わる時、それはこれまでの社会では否定されていた価値観こそが力の源となります。それを無意識にでも感じ取られた皆さんの第六感は賞賛されこそすれ、決して責められるようなものではないと思っております。  ご存知のように、今、世界は変わろうとしています。zata鬼化症候群なるものにより、感染者は人ならぬ者として九州南部に封じ込められています。ですが、それも時間の問題です。彼らはすぐに日本中、いや、世界中にあふれかえります。彼らは原初の力により、このおかしくなった世界を作り変えるのです。そうです、彼ら、zataは希望なのです。行き詰まったこの時代を打破し、次の時代を築くための印なのです。この人類の秘められた力が噴出した奇跡を前に、我らは一体何をなすべきか。ここにいる賢明な皆さんなら既にお分かりでしょう。そう、我々はzataと一体になるべきなのです。彼らの愛を受け入れ、そして、その自由と悦楽を原始に戻って体現するべきなのです!  では、そのために、何が必要か? 何も必要はありません。一切を捨て、彼らの前に身を任せましょう。これまでの垢にまみれたモノとしがらみを全て捨て去り、次の世界を共に目指そうではありませんか!〉  声にならない熱狂が会議室を揺らした。  zataの会はこの翌日に公安の継続調査対象となった。    9 「ねえねえねえ、岸さん、やっぱりこれマズイですよ、戻りましょうよ」  若い隊員はバイクを止めて、後ろに乗っけた小柄な女性にそう言った。 「何言ってるの、もう来ちゃったものは仕方ないでしょ。やるしかないのよ、やるしか」  肩から掛けた保冷バッグを片手で押さえ、もう片手で運転手の腰につかまっている彼女はわくわくした気持ちを抑えきれない子供のように、きょろきょろと周囲を見回している。 「そもそも、どうやって実証するつもりなんですか、それ?」  男は彼女の持つ保冷バッグを指して言った。 「だからあ、忌避薬を飲んだ私と、飲んでない君が、一緒に患者のところに行きます。で、私が襲われなければ、成功?」 「……その場合、僕はどうなるんです?」 「えと……やられちゃう?」  彼女は恐ろしいことをさらりと言った。 「やっぱ帰りましょう。大体、医官でもないあなたに命令される覚えはないんですよ」  男はそう言って、再びバイクのエンジンをかけた。  この前の防衛線で彼は後方の連絡要員であり、実際にzata鬼化症候群の患者の姿をその目では見ていない。  だから、前線に立った仲間の武勇譚を聞かされるにつけ引け目を感じていた。彼女の封鎖地区での実証実験に協力してほしいという願いに同意したのはそんな理由も少なからずあった。 「冗談、冗談だってば。君にだけそんな危険なことをさせるワケないでしょ」  彼女の言葉に隊員はほっと胸をなでおろした。 「そうね、患者の近くに、忌避薬を飲んだ私は徒歩で、あなたはバイクに乗ったままで近づくの。それならあなたはすぐに逃げられるでしょ。比較対象試験としては不十分だけど、この際仕方ないわね」  十分男の安全に配慮した案を提示したにも関わらず、男の反応がないのを不審に思い、彼女は彼の視線の先を追った。  彼女が破顔するのと、彼が口を開いたのは同時だった。 「奴らだ! 逃げましょう!」 「どうしてよ! やっと見つけたのよ。ここでやらなきゃ研究者魂がすたるってものよ」 「僕は研究者じゃありません!」 「ここまで来て手ぶらで帰れるわけないでしょ。あなただってそうよ。ハイキングしに封鎖地区に入りましたとでも言うつもり?」 「いや、でも……」  男は答えるのを省略し、バイクのエンジンをかけた。  遠方に見えたzataは、目視できただけで三体。今ならまだ逃げ切れる。そもそも封鎖線付近で彼女に出会ったとき、無理やり拘束してでも連れ帰るべきだったのだ。彼女の熱意に負けてだらだらこんなところまで来てしまったのが間違いだった。戻ったらどれだけの罰が下るのだろうと胃が痛くなったが、それも戻れればの話だった。  後ろで暴れる彼女を無視して、バイクのスピードをさらに上げようとしたとき、突風のような側方からの衝撃でバイクごと転倒した。  地面に放り出された彼は、何事かとあわててバイクを確認すると、前輪に道路標識らしきパイプが突き刺さっていた。  飛んできた方向を見ると、真っ黒なzata一体が五十メートルの距離をこちらに向けて走って来ていた。その後ろにも、二体目が二百メートル近くまで迫って来ていた。  恐怖感がどっと広がるのをこらえ、彼は近くで寝転がっている彼女に向かって叫んだ。 「逃げて下さい!」  バイクはすぐには使い物にならない。自分が何とかするしかないと即断し、彼は携帯していた銃を抜こうとした。  そして、構えた瞬間、眼前にアレがいた。  反射的にトリガーを絞った。命中は、した。したはずだった。  だが、相手は痛がる素振りも見せず、彼に覆いかぶさって来る。まるで工業用ロボットのような重さで身動きができない。  そして、それは目を爛々と輝かせながら彼の首筋にかぶりついた。そう言えば、そんなことをブリーフィングで言われていたことを思い出した。奴らはヒトを襲い、自分の仲間にする。何をやっているんだ、俺は。そう思ったが、もはやどうしようもない。この上は自ら命をと思ったが、彼の意識はそこで途切れた。  その一部始終を万里香は地面に座り込んで見ていた。腰が抜けて立てなかった。目の前の彼は既に失神しているか、あるいは死んでしまったかのどちらかだった。おそらく後者の可能性が高い。  そして、彼を襲ったzataは今度は自分の方を見ていた。ニュース映像で見るのと、こうして至近距離で対峙するとでは、その存在感は全く別物だった。  そして、遅れて来た二体のzataもそれに加わった。距離にしてわずか三メートル。  万里香は自分の呼吸が思う通りにならないことに焦りを感じた。  彼女は自分に言い聞かせた。大丈夫。忌避薬を飲んでいるのだ。奴らは自分に近づけない。薬は効いている。効いているに違いない。だから自分は大丈夫。  だが、無情にも一番前の一匹が彼女に向かって一歩を踏み出した。  彼女の中の忌避薬への信頼感に音を立ててヒビが入る。  さらに一歩前へ踏み出すのを見て、股間が生温かい液体で濡れ始めたが、それにも気づきはしなかった。  ひょっとして、効いて、ないの?  それはつまりは、そういうことだった。  彼らの白目のない黒の瞳は、とても人間とは思えなかった。  お母さん、ごめんな――  心の中で最後の言葉を唱えようとしたその時、目の前に迫っていた一匹が、突然彼女の視界から、消えた。  ――え?  そして、また新たな一匹が加わった。他のやつらよりもっと深い漆黒の奴だった。  いい加減にして。万里香の頭の処理能力は既にパンク寸前だった。  zataたちは急に猿のようにキーキー声を上げ、新参者に敵意を向けた。  それから大立回りが始まった。互いに殴りあい、蹴りあい、威嚇しあい、三対一にも関わらず、新手の個体は驚くほど強かった。それは圧倒的な意志の力で三体の前に立ちふさがっていた。  zata同士の仲間割れにも見えたが、正直なところ、何が起こっているのか万里香には理解できなかった。  結果から言うと、それは漆黒の勝利ではなく、三体の方が先に戦いの継続を放棄した感じだった。万里香への興味は、彼を排除すること以上のものではなかったらしく、そうと決めると彼らは漆黒の前からさっさと引き上げて行った。  漆黒のzataが振り返って、彼女は唾を飲んだ。  それでも、状況は大して変わっていなかった。  三体に犯されるか、一体に犯されるかの違いでしかない。あるいは、もっとシンプルに目の前の彼のように殺されるか。  彼女は目をつぶって、体に力をいれた。この期に及んでじたばたしても意味はない。女は潔さだ。  と、その時、声がした。それは人の声のように聞こえた。 「あんた、くさいよ」  ……え? 「何、その匂い?」  目を開けると、言葉をしゃべっているのは目の前の漆黒のzataだった。彼は少し離れた場所から万里香に語りかけていた。  ひょっとして忌避薬が効いているのか。そう思ったとき、ふと股間が濡れていることに気が付いた。  羞恥心が込み上げてきて、声がしばらく出なかった。  目の前のzataは幸いそのことには触れず、倒れている隊員を見て言った。 「彼はあきらめよう。……あんたたち、自衛隊の人?」  万里香は目の前の状況が把握できなかった。zata鬼化症候群の患者は、超人的な体力と肉体を得る代わりに、知性を失い、動物並みになってしまうと言われていた。言葉を話せるzataなど初耳だった。 「なあ――」 「近寄らないで!」  反射的に万里香は言った。  すると、目の前のzataは彼女の言葉に大人しく従い、その場にとどまった。  彼は怒った風もなく言った。 「それはいいけど、どうしてあんたたち、こんなところにいるんだ? ここは封鎖地区のはずだが……部隊からはぐれたのか?」  少々考えてから万里香は正直に話すことにした。  だが、助けてもらったにもかかわらず、目の前の個体も同じzataだという認識の方が勝り、ついつい棘のある言葉が出てしまう。 「私はあんたたちの忌避薬の実証実験のためにやって来たのよ」 「キヒヤク?」  またこれかと思う。最初は大体聞き返されるのだといううんざり感が万里香の苛立ちを強めた。 「そう。虫よけ薬みたいなものよ。あなたたちが嫌がって近づいて来られなくなる薬」 「ああ、それで」  黒zataは気にもせず、ただ納得したように言った。 「道理で何か臭いと思ったんだ」 「ちょ、女性に臭いとかないでしょ!」 「でも、そういう薬なんだろ」  彼が本気でそう言っているのなら、万里香としてはそう取るしかなかった。大体、そうだとしたら忌避薬の効果をある程度証明していることにもなる。 「そうだけど……それより、あなたzataでしょ、どうして言葉がしゃべれるのよ」 「さあ……」  彼は短い首を少しだけ傾げた。 「何で分からないのよ、自分のことでしょ!他のzataたちはしゃべれないのに、あなただけ、あなただけよね、やっぱりおかしいじゃないの!」 「確かに、他に言葉を使うzataはいないみたいだ。だけど、彼らも意思疎通はちゃんとしてるよ」 「……」  さっきの猿の泣き声みたいなのがそうなのだろうかと万里香は思った。だが、やはり目の前のこのzataだけが特別だということがいまだに信じられなかった。  彼はzataにあるまじく冷静な、しかし有無を言わせぬ口調で提案してきた。 「とにかく、一旦場所を移そう。ここは目につきすぎる」  その言葉に万里香は素直に従った。恐怖は彼が言葉を使うことで随分と減じていたし、彼の行動は十分理性的なものに思えたからだった。  連れて来られたのは町中の小さなペットショップだった。彼が言うには他のzataに少しでもみつかりにくいだろうということだった。  ガラスを割って入った店内の動物たちは餌を与えられていないせいか衰弱しており、中には亡くなっているものもいるようだった。  万里香はまず最初に、彼らに店の奥で見つけた餌と水を与えながら自分を落ち着かせた。動物たちは公園の鳩のように餌に食らいつき、しばらくの間はちょっとした騒動だった。  それが終わってようやく、万里香は彼に謝った。 「さっきはごめんなさい。さっきはちょっといろいろテンパっちゃって……とにかく、もうあんな態度は取らないわ。あなたは私を助けてくれた。これは間違いのない事実よね。だから、私もこれからは一人の人間としてあなたに接するわ、約束する」  そう言ってみたのは彼女の本心だったが、そうすることが本当にできるかどうかいささか心元なかった。何しろ、相手の見かけは全く人間とは違うのだ。中身がどうあれ、外見というのは相手を判断する大きなポイントなのだ。心理的にそれを乗り越えられる絶対の自信はまだ彼女にはなかった。  だが、彼に敵意がないのは確かなようだった。忌避薬が効いているからという可能性もゼロではなかったが、それならそれで彼女の安全は保たれていることになる。  そして、この謝罪のせいか、彼はかなり友好的になり、彼女が期待していた以上のことを話してくれた。  彼らは群れで行動していること。彼らが人間を噛むのは、それ自体に幸福感、満足感を覚えることもあるが、それにより仲間が増えることを明確に意識しているということも。そして、彼自身について言えば、時折理性が飛んだときは他のzataのようになってしまうこともあるのだという。  それらは万里香が思ってもみないことではあったが、万里香の専門分野とはかけ離れていることもあり、通り一遍の興味しか引かれなかった。それより、忌避薬の効果を尋ねてみたところ、「それなりに」という何ともアバウトな答えが返って来ただけだった。  彼の話が一通り終わると、彼の方からも情報提供を求められた。  今、もし彼が一人で封鎖線に行けばどう扱われるのか。zataを人に戻す特効薬のようなものはできあがっているのか、と。  彼の心配は万里香にも理解できたが、彼女にはどちらも否定的な答えしか返すことができなかった。  万里香はじっと保冷バッグを抱えながら、彼の様子を窺ったが、彼は特別気落ちした様子もなく言った。 「ここから封鎖線までかなり距離がある。さっきのバイクをもう一度見てきて、使えるようならそれに乗って戻った方がいい」 「ムリムリ。あたし、バイクなんて運転できないし」  自動二輪が主要な交通手段の一つだったのは随分前のことで、今では単なる趣味の一分野にしかすぎなかった。 「じゃあ、自衛隊に連絡して助けに来てもらえばいい」 「さっき転んだ時に、携帯端末壊れちゃったみたい」 「……」  どうやら彼は真剣に万里香の身の心配をしてくれているようだった。 「ま、まあ、なるようになるわよ。忌避薬も少しは効いてるようだし、しばらくあなたにくっついてzata患者の生態をじっくり観察させてもらうのもいいかもね」  雰囲気を和まそうとそう言ったところ、彼が怒声を上げた。 「ふざけるな!」 「な、なによ」 「こんな危険な場所にとどまるなんて馬鹿げた考えはよせ」  その言葉に万里香はいささかむっとした。 「馬鹿げてない! 少しは危険かもしれないけど、バカげてなんかいないわよ!」  今度は相手の方が驚いたようだった。 「あんたは本当の馬鹿なんだな。いいか、あの時、俺が仲間を止めなかったら、あんたは仲間に噛みつかれてた」  万里香は彼の言葉に歯を食いしばった。 「そ、そんなことないわよ! あの時だって忌避薬が効いてたから、あたしは無事だったのよ」 「あのなあ……」 「あなただって、それなりに効いてるって言ったでしょ」 「だから、それは――」 「あたしは、この忌避薬の効果をちゃんと証明して、それから研究室に帰るの。そうでないとここまで来た意味がないわ」  ここまで案内してくれた若い隊員の顔が脳裏に浮かんだ。  漆黒のzataは万里香に向かって言った。 「いいから封鎖線の向こうに帰れ。途中まではついていってやる」  お節介も甚だしかった。 「イ・ヤ・デ・ス。絶対に、ヤ!」  彼は声を殺して言った。 「俺の理性が飛んだときは、どうなるか分からないんだぞ?」  その挑戦的な言葉に万里香は相手を強くにらみ返した。 「脅したって無駄よ。あなたがどうなろうと、忌避薬が効いてる以上、あなたはあたしを襲えないのよ」  彼は苛立ちを抑えるように何度も万里香の周りをぐるぐると歩き回った。 「だから、俺は人を襲いたいとも思わないし、その忌避薬と勝負するつもりもない。あんたをできるだけ安全なところまで連れて行ってやると言ってるんだ」 「お断りよ。あたしはあんたにしばらくついていって、じっくり実証方法を考えさせてもらうわ」  万里香は溶岩のような黒い肌をした奇病の男にきっぱりとそう宣言した。  売り言葉に買い言葉で調子に乗ってしまったことは彼女自身否めない。彼の言う通りだとすると、忌避薬は効能が弱くて実用性には問題がある、ということになる。だが、全く効いていないわけでもない。それだけでも十分である。そもそも一度だけの試験でそれを決めることなどできようはずもない。それに、効き具合のほどを確認する必要もある。あとは戻って改良すればよい。  最強のボディガードを得た今、それは十分可能なことに思えた。    10 「よしよしよし、これでもう封鎖地区の真っただ中だ、ヨーホー」 「じゃあじゃあじゃあ、これで俺も今年のN1グランプリに出場できるんですね!」 「おう、ガーラはお笑い新人王、吉水チャンは社の年間報道賞、それで俺様は永世名誉プロデューサー様様様ってわけだ、ガハハハ」  左座席の前後で盛り上がっている中、運転手の吉水がいささか冷めた調子でつぶやいた。 「まだまだこれからでしょ。実際に『彼ら』を撮らないことには、ね」  既に乗用車輌の自動運転率は九割五分に達していたが、無人地区の探索には手動の方が何かと便利であり、今回は今や数少ない手動運転免許の持ち主である吉水をその任に据えていた。  後席で半分寝転がっている大田名はにやりとして言った。 「そこはほら、吉水チャンの腕前、信用してるからさあ。だって、空飛ぶ奴には任せておけないんでしょ」  大田名の煽りに吉水は静かに答えた。 「当然ですよ。ドローン・カメラなんかに何が撮れるっていうんですか。AIにせよ、遠隔にせよ、撮れるのは臨場感のないただの風景ですよ」  実際のところ、ドローン・カメラも今では各テレビ局で普通に使用されているのだが、今回のように立入禁止エリアが設定され、ターゲットがその奥深くにいるような場合は操作距離の問題でいささか力不足なのも否めなかった。 「大田名さん、僕、ネタ一個考えてきました」  ガーラが本番でもないのにやたら元気一杯に発表する。 「おお、マジか?」 「行きますよ、行きますよ、見ててください、見逃さないでくださいよ」  ガーラが子供のようにはしゃいで前フリをする。彼は三十越えても目の出ない売れない芸人だったが、そういった人間はそれなりの使いどころがある。例えば、今回のような常識外れの突撃ルポのように。 《あ、せーの、ゾンビくるりん》  ネタと称する何かが車内を微妙な雰囲気にさせたが、それでも彼自身のテンションは高いままだった。 「どうです? いいでしょ、これ結構来てますよね? 《ゾンビくるりん》、流行語大賞いっちゃいますかね? その前にバズワードっすかね、ね?」 「『ゾンビ』じゃなくて、『zata』だろ」  一言ガーラはそう指摘すると 「え〜、『zata』って言いにくいじゃないですか。へーきですよ、へーき。みんな『ゾンビ』って呼んでますから」  他にも言いたいことは山ほどあったが、大田名も辛辣なコメントは避けることにした。実際、お笑いなどというものは、どこがどう転んで受けるか分からないところがある。内輪で聞いていた糞つまらないギャグが、番組本番でどっかんどっかん来るのを何度も聞いたことがある。その度にこの客たちは何を考えているのだろうと首をひねるのだが、「来ると思ってたよ」と、大田名はその都度分かったふりをするのであった。それに今回のロケに命を張るような馬鹿が彼の他にいなかったのだから仕方ない。適材適所。うまく使うしかない。 「来るね、間違いないよ」 「大田名さん」  吉水が車の運転をしながら、大田名を呼んだ。 「どしたどした?」 「あれ、違いますかね」  吉水が進行方向を指さして示したものは、大田名にもはっきりと見えた。  二車線道路の先で女性が必死になってタクシーを拾うように、両手を頭の上でぶんぶんと振っている。 「ビンゴぉおお! 脱出中の女性に遭遇。早速インタビュー行ってみようか、吉水チャン、車ストップ。アンド・ロケスタンバーイ!」  車は止まり、ガーラはマイクの調子を気にしながら、あわてて偽物の小銃を肩にかけ、車を降りた。  吉水はきびきびと後席からカメラを取り出していたが、さらにテンションを上げたガーラは、重たそうな体を転がすようにして女性目がけて駆けてゆく。カメラも回っていないので完全なフライングだ。  大田名はため息をつきながら馬鹿の行為を見守った。 「おーっと、おーっと、我々はついに封鎖地区で初めての女性に遭遇しました! え〜とえ〜と、ではでは早速インタビューを行ってみたいと思いマス!」  売れたことのないガーラは突撃ルポの経験もないので仕方がないともいえるが、カメラに映っていないものは番組にならない。なおかつ、ガーラのテンションもさすがにウソくさいのでストップをかけようとしたとき、大田名は自分の目を疑った。  彼女は後ろに黒い影のようなものを背負っていた。それは先ほどまでは決してなかったものだった。  大田名は実際のそれを見たことはなかった。勿論、他の二人も同様のはずだ。ドローン中継で見た小さな映像から想像はしていたものと、それはかなりの度合いで合致するものがあった。  それのすぐ目の前まで迫っていたガーラは突然素に戻り、それに背を向けて逃げ戻ろうとしている。ようやく準備のできた吉水はそんなガーラの姿を撮っている。毎度カメラマンの肝の据わりようには驚かされるが、それも彼らからある程度の距離があるからに違いない。  大田名にできることはこの貴重なシーンを少しでも引き延ばし、できることなら、取材対象のあの女性を助け出すことだった。  彼女も何かを叫んでいるようだが、大田名の耳には入って来なかった。 「こっちへ走れ!」  彼女に向かって大田名はそう叫び、肩にかけた小銃を彼女の後ろのzataに向かって構えた。同じ偽物ではあるが、ガーラに持たせているものより出来はいい。ガーラのは小道具室から拝借したもので、こちらは経費で調達した、米軍正式採用のMk-16Lのモデルガンだ。弾は出なくてもリアリティの積み重ねで映像の緊張感を出すとともに、対峙した相手をひるませる効果を見込んで持ってきたものだった。  だが、zataも彼女も、その場から動こうとはしなかった。  じれていると、ようやく彼女が何を叫んでいるかがはっきりした。 「落ち着いて下さい! 大丈夫です! 彼は安全です、危害を加えません!」  ガーラも吉水も彼女の言葉に気づいたようで、車に乗り込む寸前で立ち止まった。  彼女は後ろのzataと共にゆっくりとこちらへ歩いて来た。それは大柄な奴隷と小さな姫のようにも見えた。 「吉水チャン、撮ってる? 撮ってよ?」  小声でささやくと、吉水は既にカメラを構えており、ひょっとしたらずっと構え続けていたのかもしれないが、大田名に向け片手でOKサインを出して見せた。  サイコーだ。視聴率四十パーセントの夢を見つつ、大田名は頬を緩めた。    11  万里香は相手についていくと宣言したものの、それはつまり、行く先は相手任せということで、このまま封鎖線に向かわれたらどうしようかと実は内心ひやひやしていた。  だが、歩き始めて三時間、彼は封鎖線のある北へは向かわず、足取りを東に向けたままだった。つまり山岳地方だ。考えてみれば彼が封鎖線へ向かうはずはない。行けば彼は自衛隊に捕えられるか、攻撃の対象となるのだから。  それでも、人家が少ない方向へ進んでゆくにつれ彼女の不安は高まっていった。ひょっとして、相手は自分を山中に連れ込んで乱暴しようとしているのではないか。そこに群れの仲間がいるのではないか。  そして、すぐにその考えを打ち消した。自分を襲うならどこでも同じだし、他のzata患者から助けてくれたではないか。彼の好意を疑うなど恥ずべきことだった。  不安な気持ちを振り払おうと、万里香は前を歩く相手に話しかけた。 「そう言えば、名前、聞いてなかったわね?」  彼はそれには答えず歩き続けた。 「あ、あたしは岸万里香。東洋理化学研究所の研究員よ」  そう言って、肩から掛けている保冷バッグに目をやり、また違うことで不安になった。既に自衛隊の基地を出て三時間が立っていた。この暑さの中では保冷材が長くは持たないことも心配だったし、実証実験の組み立てもまだ良いアイディアが出なかった。健常者二人とzata患者が一人いれば簡単だ。だが、ここに健常者は万里香一人しかいない。ならば、時差式で試すか。薬を服用時と、未服用時で効果を試す。だが、効果がない場合、それに未服用時は当然zata患者は襲ってくるわけで、その場合はこの騎士役に命を預けることになるのだが、信用していないわけではないが、他に何かやりようがないものかと考えてしまう。 「ねえ、名前、教えてよ?」  苛立ちながらもう一度尋ねたが、彼は答えようとしなかった。 「聞いてどうする?」 「だ、だって、お互い呼び合うのに名前がないと不便でしょ。そのための名前でしょ」  万里香は正論を言ったつもりだったが、相手から返って来たのは予想外の答えだった。 「巷では、zataとかいうんだろ。zataでもゾンビでも好きに呼べばいい」  その投げやりな態度に万里香は一瞬口ごもった。 「――名前を教えてくれるなら、ちゃんとそっちで呼ぶわよ、当たり前でしょ。私はキシマリカ、万里香よ。覚えた? あなたは?」  彼女の勢いに怯んだのか、彼はしばらく口ごもった後、自分の名を告げた。  だが、自分でそれだけ執拗に聞き出しておきながら、「坂口耕平」という名は、目の前の大きな黒い人型のそれと、万里香の中でなかなか結び付かなかった。  身長は二メートルを超えているだろう。体格は、言わばプロレスラーをもっとごつくしたようだった。体表は玄武岩のような黒いごつごつしたものが鎧にように覆っている。体毛やら頭髪やら爪やら生殖器など人としての特徴を示す多くのものは見られない。  内心の後ろめたさを隠すように万里香は話し続けた。 「zata鬼化症候群は、感染者に噛まれ……接触感染で媒介されるって言われてますけど、感染ルートを含め、政府の方では詳しくはつかんでないようなんです。坂口さんは何か心当たりありませんか。あたしもこの忌避薬は、ちょっと何というか、独力ではなく、人の手を借りたものというか、偶然の産物って面はあるんですけど、ウイルスの大元が分かればいろいろ――」  万里香が話し続けていると、彼は突然歩みを止めた。 「ど、どうしたんですか、坂口さん?」  彼はうつむいたまま、ゆっくりと言葉を漏らした。 「彼女との婚約は破棄されるし、長期の海外出張には出されるし、アート・フロートはおしゃかになるし、アパートの隣人はうるさいし――案外、絶望でこんな姿になってしまったのかもな」  いきなり彼の人としての情報がごろごろ出てきて万里香は面食らった。 「な、何言ってるんですか。絶望でかかる病気なんてありませんよ」  とは言ったものの、zata症候群自体、未知の疾病だったし、絶望による免疫力の低下から病にかかることはいくらでもあり得ることだった。  幸い、彼は愚痴を続けようとはしなかった。 「冗談だ。絶望なんかのはずがない。あんたは知らないだろうが、仲間の、zata病の患者たちの頭の中はパラダイスだ」 「は?」 「彼らはテレパシーみたいなもので言葉を介さずにつながっている。お祭りのようにいつも騒々しく、能天気だ。そんな連中が広めている病気だ。絶望とは無縁だろ」  彼がさらりと言った言葉を万里香は聞き逃せなかった。 「な、何ですか、テレパシーって? 超能力者が使うアレのことですよね。それは坂口さんも使えるんですか? え、ひょっとして、私の考えてることとか分かったりするんですか――」  そうであればzataの脅威はさらに跳ね上がることになる。そして、目の前の彼についての態度も再考が必要になるのは間違いなかった。 「いや、俺は……」  その時、後方から車の音が聞こえて来た。 「到着だ」 「え?」  坂口の言葉とともに、バンは彼らの随分手前で停車した。 「ちょ、どういうこと?」 「あんたの引き取り手を探してたってわけだ。さ、しっかり立ってろ」  そう言うと、彼は万里香の後ろでしゃがみこんだ。 「え、でも」  車には三人の男が乗っていた。彼らの言うところによれば、封鎖線の中を撮影しに東京から来たテレビ局の取材チームとのことだった。  彼らがしばらくの間、この封鎖地区にとどまるつもりだと聞いて万里香は安堵した。坂口の思惑通りに送還されては何のために危険を冒してここまで来たのか分からない。  一通りの情報交換が済むと、彼らは早速カメラを回し始め、その前で万里香は自分たちのことを話すことになった。  自分がある研究機関の一員で、zata忌避薬の実証性をテストするために自衛隊にやって来て、勝手に封鎖地区に入ったこと、その際一緒について来た自衛隊員はzataの襲撃で亡くなったこと。そして、その時に彼女を助けたのが、ここにいるzataだということ。  万里香は坂口のことは彼のプライバシーを考え、名前を出さなかったし、彼も自分から名乗らなかった。だが、さすがに名無しでは都合が悪いため、テレビチーム側から「クロタさん(仮)で行きましょう」と提案され、坂口も反対しなかったためその仮名を使うことになった。  ディレクターを名乗る、大田名という男が一旦カメラを止めさせ、万里香に尋ねた。 「その忌避薬とやらの効果のほどは? そちらの彼は今もあなたのそばにいるわけですが」  大田名は万里香と坂口を交互に見やった。  その問いに彼が答えた。 「確かに近づきたくない感覚は幾分あるような気もする。ただ俺が人を襲わないのは、理性を保っているからだ。だが、それもずっとそうである保証はできない」  その言葉に顔を見合わせる三人に対し、彼はさらに言った。 「あんたたちはすぐに引き返すべきだ。撮影なんて馬鹿げてる。彼女を連れて今すぐに封鎖地区の外に戻った方がいい」 「ちょ、何言い出すのよ」  せっかく人手が増えて、実証実験の目途もついたのに、今さら送り返されるわけにはいかなかった。  当然、その思いは撮影クルーも同じようで反論があがる。 「ちょっとちょっと」  大田名が頭をかきながら言った。 「クロタさん、それは論外。ガイローンですよ。私たちはニュースを求めて危険を冒して封鎖地区へやって来ました。テレビ局からも自衛隊からも睨まれてます。それなりの果実を手に入れないまま撤退はできませんよ」 「そうそう、これは僕のN1グランプリ前哨戦なんですからね」  テレビで見たことがあるようなないような男がそう主張した。  万里香も早口で彼らの側についた。 「あ、あたしだってそうよ。忌避薬の実証ができるまでは戻れないわ」  坂口は声に不満を込めて言った。 「あんたたちは何も分かっていない。命より大切なものはないだろ。この辺りにも、じきに仲間が群れをなしてやって来る。そんな場所にとどまりたいだなんて正気の沙汰とは思えない」 「聞こえませんなあ」  人を小ばかにしたような大田名の態度はさすがに万里香にも鼻についた。 「とにかく、私たちはしばらくここにとどまりますよ。ここであなたたちに会ったのは運命の導きってやつでしょうからね。今日本を揺るがすzata患者、しかも言葉をしゃべる特異体、それにzataの脅威を封じる可能性を持つ忌避薬とそれを命がけでテストしにきた若き女性科学者。この二つを前に何もしないなんてテレビ関係者として失格ですよ」  坂口はふくれてそっぽを向いてしまったが、万里香は相手のお世辞に気分を直し、大田名の話に乗っかった。 「大田名さん、私の忌避薬、効果が証明されればニュースになりますよね? 学会発表よりフライングになっちゃいますけど、いいですよ、許可します。こんな時ですし、インパクト重視ですよね」 「う〜ん、それは絵的に効果が証明されれば、ですかねえ」  大田名はもったいぶって言った。 「大丈夫ですよ、彼も言ったでしょ。近寄りたくない臭いがするって。百パーセントの効能は無理でも、それなりの効果は出るはずです。その証拠に彼、あたしに襲い掛かってこないですし」  ガーラがその発言に突っ込みを入れる。 「いやいや、僕らだって襲われてないっすよ」  自分の失言に気づいた彼女は言いなおした。 「それは……ほら、私の近くにいるからですよ。そう、私の体から発せられる香気が彼の受容体に作用して――」  大田名はまじめな顔をして言った。 「岸さん、それにクロタさんも、これは重要なことなんですよ。今zata患者は日本中で懸念されている確かな脅威です。しかし、それに対する絶対確かな盾があるとすれば、どれだけ皆の安心に寄与します? これは国民的な関心事なんですよ」 「も、勿論、承知しています」  万里香はかしこまってうなずき、坂口もそれには渋々と同意した。  すると、大田名は待っていましたとばかりに話を進めた。 「では、その忌避薬の実証実験で一本取りましょうか。それが終われば我々もこの地を退散しましょう。勿論、彼女を連れて。それでいいですよね、岸さん?」 「え、まあ、それなら……」  実証実験ができるなら是非もなかった。さらに大田名は提案を続けた。 「クロタさんで実験できれば簡単なんですが、彼は人を襲わないんでしょ、それだと実験の意味ないですからねえ。じゃあ、こういうのはどうですか。薬を飲んだ被験者が、野良のzata患者と二人きりになって、無事かどうかを検証する。効果の有無が絵的にも非常に分かりやすい。もし何かあってもクロタさんが助けてくれる、と」 「ちょっと待て」  そこで彼が反対の声を上げた。 「何か問題でも?」 「危険すぎる。人の命がかかってるんだぞ」 「何ゆうてんねん!」  ガーラが似合わぬ関西弁で突っ込みを入れてきた。 「四流芸人が命かけへんかったら何かけるゆうんねん!」 「そういう問題じゃない」 「そういう問題や! 当たり前のことやってたって、人気は出んのですよ。体張ってナンボ。命かけてナンボ。あんた、下積み十二年の芸人なめんなよ!」  大田名がくくっと笑いをこらえながら代案を出した。 「じゃあ、プランBでいきますか。クロタさんは理性が残ってる。人を襲わない。それは今こうして実証されている。で、被験者は薬を飲む。あなたは襲わない。薬の効果は実証される。出演者もとても安全だ」  少し間があり、吉水がつぶやいた。 「……ここまで来てやらせですか」  その言葉に万里香もどきりとした。  大田名は大げさにそれを否定した。 「ノーノ―、安全配慮義務を講じた上での再現映像だよ」 「再現ねえ」  吉水はいかにも気の乗らない風につぶやいた。 「岸さんもそれでいいですよね」  万里香は必死で考えた。確かに彼は理性を残している。それは非常にありがたいことだが、zata患者の平均像からあまりにもかけ離れている。そんな者を対象にして実証実験などしてどれだけ意味があるのか。やらせなど、科学においてはそれこそ論外だ。やはりやるのであれば、一般的なzata患者でなければ意味がない。  そう結論づけ言葉にしようとしたとき、彼が先に反対を口にした。 「却下だ」 「ちょっとお、クロタさーん」 「さっきも言ったはずだ。理性がなくなった時は、どうなるか、分からないと」  それはつまりやらせすら成立しなくなるということだ。  だが、大田名はしつこく食い下がる。 「大丈夫ですよ、クロタさんは大丈夫。僕は信頼していますよ」 「だからそういう問題じゃ――」  なおも、反論する彼に大田名は言った。 「よく聞いて下さい、ここでこの忌避薬の効果が証明されれば、大量生産にゴーがかかって、全国民に行き渡るようになる。そうでなければ、ここだけのものに終わってしまうわけでしょ。この非常事態において、どちらが国民のためになるか、あなたにも分かるでしょう」  大田名の薄っぺらい正論に彼は先までの勢いを削られたようだった。 「それは……」  今の流れで万里香も反対を口にしづらくなった。代案があればいいのだが、それをじっくり考える暇さえない。  それ以上の反論がないと見るや、大田名は話は決まったとばかり手を打って喜んで見せた。 「よしよし、これはいい番組になるぞお。ガーラ、お茶の間の心をわしづかみだな」 「ま、まかせて下さい、ガーラやります、ガーラやります、ガーラやってみせます」  壊れたおもちゃのようにガーラは繰り返して決意を表明した。  夕方、五人はその場でキャンプを行い、たき火を囲んでレトルトの夕食を取った。  その後、ガーラとクロタはワゴンの中に詰め込まれた。吉水は、車内後方に予備の小型ビデオを固定し、自らはフロントウィンドウの外から車内を撮れるように木箱を見つけてきて、その上に三脚をセットし、外からファインダーを覗き込んだ。  万里香には寝袋が与えられたが、興奮して眠るどころではなく、車の回りをうろうろと歩き回って東京の研究室のことを考えた。  この実験が成功したら、九州行きにいい顔をしなかった主任も認めざるを得ないだろう。主任は内緒にしてあるが、この薬のアイディアは米国の友人から流れて来たものだ。友人の好意に甘えた形にはなっているが、とにかく何でも結果を出して一目置かれなければ研究者として始まらないのだ。 「さて、どんな塩梅かね」  カメラをセッティングする吉水の隣で、大田名がつぶやくのが万里香にも聞こえた。  吉水は無表情に答えた。 「ギャラの方、二十パーセントアップお願いしますよ」 「おいおい、そこはせめて八パーってことで、よろ」  こんなところでまでギャラの交渉とは、世知辛いのはどこでも同じようだった。 「……封鎖地区に来て、こんな絵を撮るとは思いませんでしたよ」 「ガラス越しだと画像悪くなるよねえ」 「……そりゃあね」  車外からガラス越しに中を撮るのだ。吉水もいろいろ機材を工夫していたようだが、それでも野外と同じようにはいかないのだろう。車内は照明をつけさせていたが、あとは臨場感でごまかすしかないようだった。  吉水は暗くなった空を見上げて、肩を回した。  彼が不満を抱えているのは万里香にも分かった。やらせまがいの番組を撮らされようとしているのだから当然だ。勿論、それを黙認しようとしている万里香も何のわだかまりがないと言えばうそになる。だが、人生には何より結果が必要なときがあるのではないかと万里香は思う。  吉水に言い聞かせるように大田名が言った。 「そうは言うけど吉水ちゃん、これも結構すごい絵だよ。彼、あれでもホンモノのzata患者だからね。その対面映像。まだどこも流してないはずだよ、きっと」 「……それはそうですけどね」 「気分切り替えてこうよ、ね」 「大丈夫ですよ、ちゃんと撮りますから」  吉水も何とか自分の気持ちに区切りをつけたようだった。  午後八時になり、完全に外が暗くなったのを確認して、大田名は車内のガーラにキューを出した。 「ガーラ、スタートよろ」  万里香も大田名の隣にくっついて、車内のガーラのピンマイクが伝えて来る音に一緒になって耳を傾ける。 〈さてさて始まりました。zata鬼化症候群患者さんとの密室の一夜。怖いですねえ、危険ですねえ。でもダイジョーブ! 私、ガーラ小牧はこのお薬を既に飲んでいるのデス! これは極秘開発中の超強力zata除け薬。これを飲めば、zataの患者さんは私に近づけない。近づけないハズなんですが、それを検証するために、私ガーラ小牧、zata患者さんと一緒に一晩頑張ってみたいと思いマース〉  ガーラは前席から後席の彼に向かって語り掛けた。 〈クロタさん、あ、これは勿論仮名ですよ、上から怒られないよう、番組は人権にもきちんと配慮していまーす。で、クロタさん、まだ寝ていませんよね。どうですか、僕のこと襲いたくなってませんか? ん、そういう趣味はない? ですよねえ、って、そういう趣味の問題じゃなくてえ。これ、どういうコーナーか分かってますよね。zataの患者さんは人間を見ると噛みつきたくなるんでしょ。僕のことも噛みつきたくて仕方ないんじゃありませんか?〉  彼は一言も発しない。打ち合わせでは何かしゃべることになっていたはずだったが、今のところ協力的な態度はどこにも見られなかった。 「マズったな。彼にも報酬を約束しとくべきだったなあ」  大田名は顎をさすりながらそうつぶやいた。 「彼はそんなこと求めないと思います」  万里香は言った。 「ん?」 「あんな姿になって、生きるのに必死になってる彼が、お金なんて欲しがると思いますか?」  大田名はしばらく黙り込んでから、車内のガーラに指示を出した。 「もっと行け」  端末からさらに嘘くさく、それでいて能天気な声が聞こえてくる。 〈クロタさーん、僕ね、zata患者さんが普通の人から差別されたりしたら悲しいなーって思うんですよ。ちょっと見た目が変わったり、ちょっと力持ちになったり、ちょっと人にかみついたりしたぐらいで……ソレってちょっとの範囲を越えてるやないか―い! てことでですね、一つ、ギャクを持っておけばいいんじゃないかと思うんですよ。そうしたら、普通の人も、あ、そっかー、ゾンビさんも同じ人間なんだなーって思ってくれると思うんですよね。あ、ゾンビさんって言っちゃいましたね、ごめんなさいね。でも大丈夫ですよ。今から聞くギャグを聞けば、自分から、僕ゾンビでーすって言いたくなっちゃいますから。え、どんなギャグかって? 知りたいですか? ホントに知りたい? え〜、もう仕方ないなあ、そんなに言われたら、クロタさんだけに特別ですよ〜、ちなみに、僕これで今年のN1グランプリ出る予定なんでよろしくお願いしますね。それでは、行きまーす。…………《ゾンビくるりん》〉  微妙だ、と万里香は思った。リハーサルでガーラが練習しているのを嫌というほど見ていたのだが、本番で聞いてもやっぱり今一だった。状況のせいだろうか。とても笑えそうにない。 〈はい、ゾンビくるりん。ゾンビくるりん〉  車内でガーラは反応の返ってこないネタを痛々しく連呼していた。  大田名もあせった様子で次の指示を出した。 「クロタの反応を拾え」  ガーラがもう一度後ろを覗き込む。 〈あれ〜、クロタさん、僕のギャグが面白すぎて寝ちゃいましたあ?〉  どういう論理展開よ、と万里香は内心で突っ込みを入れたが、本当に眠ってしまったのだろうかと万里香自身も不安になってきた。さすがにそれでは番組が成立しない。ガーラのN1はともかく、忌避薬の実験は成功させてほしいところだった。 「起こせ。生の反応を拾え」  大田名の指示でガーラは短い棒で後席のクロタをつついた。 〈クロタさ〜ん、せっかく二人きりの夜なんですよ、寝るにはまだまだ早いじゃないですか。クロタさんが望むなら、僕、夜のお相手もしちゃいますよ〜〉  さらにガーラはつつき続けた。 〈ねえねえ、お話ししましょうよ、クロタさんたら〜〉  ガーラも焦っているようで、声に必死さが混じってきている。 〈クロタさーん、どうしちゃ――〉  そこでガーラの言葉が途切れた。と同時に、バリバリというすごい音とともにフロントガラスが飛び散り、中からガーラと前席シートが一緒になって飛び出してきた。 「――」  万里香は思わず悲鳴を上げた。  何が起こったのか。よくは分からなかった。だが、想像はついた。  呼吸を整えて、車の前方に行くと、吉水が尻もちをついて倒れていた。 「吉水さん?」 「……大丈夫、カメラは、おしゃかかな」  緊張を隠せずに、それでも軽口を叩いた彼は視線を移した。  万里香も彼の視線の先に目をやった。  十メートルほど離れた暗くなった地面にガーラが変な格好で横たわっていた。  おそるおそる大田名の後についてそれに近づいていく。  思わず顔をしかめる。首があらぬ方向に曲がり、全身は大量の出血で赤く染まっていた。一目で絶命が見て取れた。 「ガーラ……」  大田名がつぶやいた直後、バンから事の張本人が姿を現した。  万里香の頭の中では無数の疑問符が乱舞していた。彼は自分を助けてくれたではないか。理性があると明言していたし、人を襲うつもりもないとはっきり言っていた。それとも、ガーラにゾンビ発言をされたから切れたとでもいうのだろうか。そして、思い出した。理性を失った時はどうなるか分からないと彼が言っていたことを。それが今ということなのか?  彼がこちらへ一歩踏み出したとき、三人は一様に身構えた。彼も他のzata同様、人間離れした存在であることを、万里香は改めて思い出した。  もし、彼が本当に理性をなくしているなら、今度こそ終わりに違いなかった。この三人ともそろって彼の餌食になるのは確実だ。これはきっと神様の罰なのだ。万里香はそう思った。  だが、意外なことに、その神の使いのzata患者は悔恨の言葉を口にした。 「……反射的にシートを押しただけだったんだ。眠りかけのところにあまりうるさくされたものだから……決して殺すつもりは……だから、だからこんなことはやめるべきだと言ったんだ、それをあんたたちが――――」  長い沈黙が流れた後、吉水が吐き捨てるように言った。 「さすがに、こんな絵は流せませんな」 「どうするんですか?」と万里香は尋ねた。 「どうするって言われてもなあ」  大田名は不機嫌そうにつぶやいた。  万里香には彼がガーラの死に何も感じていないように見えた。そんなことが果たしてあるのだろうか。彼らの関係はよく知らないが、それでも同じチームの仲間だったのではないのか。 「人が死んだんですよ」  万里香は責めるように言った。 「……俺のせいだっていうのかい、お嬢ちゃん?」  彼の眼は冷たい怒りで染まっていた。 「それは……」 「そいつに危険がないって言ったのはあんただろう。違うのか? 俺たちはそれを信用して番組に使ったんだ! それが、こんな――一体どうしてくれるんだ!」  怒鳴り散らす大田名に万里香は一言も返せなかった。ある意味、すべて彼の言う通りだった。  そんな沈黙から救ってくれたのは吉水だった。 「責任転嫁をしても始まりませんよ、大田名さん」 「おい、吉水」 「我々は我々の都合で彼らを利用した。勿論、ガーラもです。そして、彼らは彼らでそれに最終的に同意した。つまりは、そういうことじゃないですか」 「だがな――」 「とにかく争っていても仕方ありません。ここは一旦出直しましょう。いささか危険はありますが、彼さえいればどうとでも――」  その時、暗闇で遠吠えがした。野犬のではなく、聞いたことのないそれだった。  三人がおろおろする中で、彼が言った。 「車の中に入れ!」 「何なんだ、あれは?」 「奴らだ。仲間が近くまで来ている、急げ!」  万里香たちはあわてて車内に逃げ込んだ。とは言っても、フロントガラスはないに等しく、シェルターの役目はほとんど期待できそうになかった。吉水は必死になって倒れた機材を持ち込んだが、ガーラを運び込もうとする人間は誰もいなかった。  その行為は正解であったらしく、一分もしないうちに遠吠えの主たちは車を取り囲んだ。一、二、三。三人のzata患者は万里香たちを一瞬で絶望に陥れた。  だが、彼らには守護神もまたついていた。  彼は車外にでたまま、守護神の名に恥じず果敢に三対一の戦いに挑んだ。 「吉水さん、まだ撮るんですか?」  吉水は車内からその格闘戦を撮ろうと携帯端末のカメラを構えていた。 「大きいの、壊れちゃったからね」  そういう意味ではなかったのだが、どう言って止めるべきかも分からなかった。  時折響く車体の大きな衝撃が恐怖を呼び起こしたが、それでもzataの魔の手は最後まで車内に侵入してこなかった。  結局、闘いは数分で終わり、zata患者たちは闇の中へと退散していった。    12  しばらくの間、吉水は運転席で携帯端末を覗き込み、今しがた撮影したばかりの映像に興奮していた。 「すごい。これはSFXじゃない、CGじゃない、生の映像だ。自分のこの目が信じられない。すごい映像ですよ。ね、そう思いますよね、大田名さん?」  だが、話を振られた大田名だけでなく、万里香にもそれに答える気力はなかった。  大田名はちらりと車外にいるzata患者と、そして地上に倒れ果てたままの、かつてガーラだったものの姿に目をやり、力なくつぶやいた。 「こんなことになるとはな……」  後部座席の万里香にもフロントから吹き込む夜の生暖かい風が自らの罪を問うように頬をさすった。 「……ご、ごめんなさい」  万里香は自分でも分からぬまま突然涙を流し始めた。 「ごめんなさいごめんなさい」  自分でも止められない呪文のようなその懺悔の言葉は、隣でいる大田名を苛立たせたようだった。 「そんな言葉をいくら聞いても、あいつは生き返ったりしないんだよ!」  荒々しい彼の言葉に万里香は体を硬くした。 「何が効果がありますだ。何が百パーセントだ。その結果がこれか!? せっかくみつけたレポーターをパーにして撮影が滅茶苦茶だろうが!」 「ひゃ、百パーセントなんて言ってません」 「自信満々だっただろうが!」  大田名の一喝が再び万里香を委縮させた。  いつのまにか、車の前方にやって来ていた彼が、取り払ったフロントから中を見て言った。 「彼の死は、俺は当然だが、あんたたちにも全員等しく責任がある。忌避薬に効果がないとは言わないが――」 「じゃあ、どうして――」  万里香のヒステリックな答えに彼の言葉は詰まった。 「何度も言っているだろう。効果がゼロでないだけだ。嫌な臭いがしたって、本能が命じればどうにでもするだろ。俺はそれを理性で押しとどめているだけだ」  それを聞いて大田名が吐き捨てるように言った。 「とんだ欠陥商品をつかまされたもんだ。お詫びのコマーシャルでも出した方がいいんじゃないのかね」  彼の言葉に車内は再び静まり返った。  やはり予想していた通りだった。この忌避薬は完成品には程遠い代物なのだ。その程度を確かめるつもりだったが、そのために人が一人死んだ。いや、最初の彼を入れれば二人。万里香は顔を水の入った桶に無理やり沈められる思いがした。  彼は再び三人に向かって言った。 「あんたたちは一刻も早くここから脱出するべきだ。これ以上、ここにとどまることは自殺行為だ。死にたい人間は、ここにはいないだろう?」  もはや反論する者は誰もいなかった。  しばらくして吉水が言った。 「でも、この車、大丈夫ですかね?」  そう言いながらモーターをかけようとしたが、何の反応も返って来なかった。 「おいおい、勘弁してくれよ」  大田名が大げさに車の低い天井を仰いでみせた。 「歩いて行くしかないんじゃないですか」  万里香もあきらめ混じりでそう言うと、大田名が言い返してきた。 「封鎖線までどれだけあると思ってるんだ? 十キロはあるぞ」 「それがなんだっていうんです」 「あのなあ、ただの十キロじゃない。周りにさっきみたいなzata患者がうじゃうじゃいる中の十キロだ。それこそ自殺行為だろ」  文句ばかりの彼に万里香はいら立ちを募らせた。 「武器だってあるじゃないですか」  大田名の持つ小銃のことを指摘すると、彼は急にばつが悪そうになって、それがモデルガンであることを白状した。  吉水が言いにくそうに言った。 「大田名さん、局と連絡は取れないんですか? こっちにはさっき撮ったこの映像があるんです。局だって助けてくれるんじゃありませんか?」 「んん」  大田名は気乗りしない様子だった。 「体面を気にしてる場合じゃありませんよ。命がかかってるんですよ」 「それは、そうだが……」 「早くお願いしますよ」  さんざん悩んだ挙句、大田名は局に連絡を入れた。  しばらく激しいやりとりをした後、通話を切って彼は舌打ちをした。 「話にならん。このロケは局が認めたものじゃなく、あくまで個人行動だから、局は何もできんとさ。ま、予想通りだ」 「そんな、じゃあ、この映像はどうするんですか?」  吉水は責めるように言った。 「無事に帰ってきたら検討するとさ。人が死んでなければ局の対応も違ったんだろうが……今さらだ」  吉水はその無慈悲な通告に唇をかんだ。 「そうそう、あと、封鎖地域で国が救助作業を行っているから、それで助けてもらえとさ」  大田名は軽い調子でそう付け加えた。 「救助作業、ですか?」 「ああ。指定された場所に自衛隊のヘリを何度か飛ばして、救助してくれるんだと」  重要な情報だった。 「じゃあ、今いる場所を自衛隊に連絡すれば――」  万里香の提案を大田名はへしおった。 「違う違う。場所を指定するのは向こうさんだ。こっちはその場所へ刻限までに行かなきゃならんのだとさ」  それでも明るいニュースには違いなかった。それから、局が教えてくれた近隣のいくつかの救助ポイントを紙の地図を見ながら三人で検討した結果、向かうべきは、ここから約三キロの地点にある三坂中学校ということになった。  それから、暗闇の中でガーラの遺体にガレキをかぶせて墓の代わりとし、彼を残し、車の中で仮眠を取った。  そうして日が昇ると、四人は行軍を開始した。  武装は辺りで見つけた鉄パイプが一本だけだったが、彼自身が最高の武器であり、護衛だった。 「これ、飲みますか?」  万里香は忌避薬を念のため勧めてみた。  すると、吉水は少し迷った末に「飲んで損するわけじゃなし」と飲むことにしたが、大田名は頑として受け付けなかった。残りは僅かとなったが、万里香はなぜかそれが捨てられなかった。  奇妙な行軍は、意外にも好調だった。  天気がいいのは置いておくとしても、二時間たってもzata患者の襲撃は一度もなかった。それに睡眠時間は短かったにもかかわらず、頭は妙に冴えており、体にも不調なところは見当たらなかった。シャワーが浴びれないのを口にするのはきっと贅沢なのだろう。  何もない田畑の中を三人はひたすら歩き続けた。  先頭を歩く彼の黒い背中を見ながら、万里香は忌避薬のことを思い起こしていた。  きっかけは、米国の友人から来たメールだった。暗号化された添付ファイルには、ある化学物質の構造式が書かれていた。メールには、汎用性の忌避薬を自分なりに設計してみたのだが、しばらく手が一杯なので、そちらで合成してみてほしい。特に自分には興味がないので権利関係はすべて万里香に渡す旨が書かれていた。  普通ならありえない提案だった。もし、実用化されたなら、論文は共著になるのが当然だし、特許も同様である。  不思議に思って連絡してみたが、友人の態度は変わらなかった。とにかく、早く合成してみろと強く勧めてくるだけだった。結局、万里香も、長らく研究の成果が出ずに困っている友人をアシストしてくれているのだと了解して、彼女の言う通りにした。  確かに薬はそれなりの効能を持っていた。実験室では蚊やアブ、ゴキブリだけでなく、ネズミや猿などの哺乳類にも効果を見せていた。このままデータを蓄積し、整理すれば、世紀のまではいかなくても、それなりの結果が得られるはずだった。  そんな時にzata事件が発生した。人が人でなくなる未知の病気。しかも、それは感染者が積極的に意志をもって感染を押し広げているように見えた。  そこで万里香はひらめいた。この薬はzataにも効くのではないか。もしそうなら、注目度は並大抵ではない。日本を救うと言っても過言ではない。そこで主任の反対にも関わらず、室長に無理やり自衛隊に連絡をとってもらい、九州にやってきたのだった。  今回のことは初めから玉砕覚悟だったのだが、自分以外の犠牲者を出すとは思っていなかった。まったく、自分は何がしたいのだろうと万里香は頭を上げることすらできなかった。  イヤホンでずっと携帯ラジオを聞いていた吉水が、突然その片方を外して立ち止まった。 「何か変だ」 「何がだ?」 「いえね、自衛隊の救助ですけど、救助ポイントは全部で二百ヶ所ほどあるんだが、その期限がどうも」 「期限がどうした?」  不機嫌な大田名が先をせかした。 「やけに早い気がするんですよ」 「早い?」 「ええ、救助地点が発表になったのが昨日の夕方。救助部隊の到着は早いところで今日の夕方、遅い所でも、明日の午後」 「それのどこが変なんだ」 「だってですよ、救助には大型ヘリを使うらしいんですが、自衛隊にそんなにたくさん大型ヘリありましたっけ? 二百ヶ所ですよ。日本全国からかき集めたとしても、このスケジュールじゃ救助しきれないと思うんですけどね……」  万里香も吉水がどこにひっかかっているのか分からなかった。 「知ったことかよ、とにかく俺たちは夕方までに、三坂中学校に到着すればいい。そうだろ」 「それは、そうなんですが……」  それでも二人の会話を聞いて万里香は何だか嫌な予感を覚えたが、今できることは目的地を目指してただ歩くことだけだった。    13  万里香の心配は杞憂に終わった。午後二時すぎには一行は何事もなく目的地に到着していた。  三坂中学校は校舎こそ新しくないものの、田舎にありがちな学校らしく、校庭だけはやたら広く、そこには既に二十人近くの住民が避難してきていた。 「さあ、早く向こうに合流しましょう」  万里香がそう言うと大田名が目をむいた。 「ちょっと待て、まさかそいつも一緒にとか思ってるわけじゃないよな。そいつがあそこに入って行ったら大パニックだぞ」  これには吉水も同じ意見だった。 「そうですね。それに、救助地点にzata患者がいないことが救助の条件ですよ。彼がいたら救助自体行われない可能性が高い」  二人に言い返せない万里香を見て、彼は言った。 「大丈夫だ。元から行くつもりはない。ここでお別れだ」  それを聞き大田名がにやりとする。 「ほらほら、患者様は御自分の身の程を知っておられる。では、ここらでお別れということで」 「ちょっと待ってくれ」  そう言ったのは彼自身だった。 「おいおい、何だよ、今自分でお別れだって言っただろうが」  彼はちらりと校庭を見て言った。 「あそこへ合流するのは、ヘリが来る直前にした方がいい」 「どうしてですか?」  万里香が尋ねると、彼は、zataは人が大勢いるところへ寄って来るのだと言う。だから、zata患者の襲撃を受けるリスクを少しでも減らすには、少しでも離れていた方がよく、それがお互いのためになるということらしい。  大田名は渋ったが、結局、彼の提言は受け入れられ、しばらく離れて待つこととなった。離れてと言っても、中学校から数百メートル離れた商業ビルの中であり、何かあれば一本道をすぐに中学校まで走っていける場所だった。彼もまた合流の時間までその場にとどまることになった。  大田名と吉水は何か使えそうなものを探してくるとビルの上へ上がってゆき、万里香と彼は一階の宝飾フロアで時間をつぶすことにした。  ビルの中は電気が消えていて、昼間にもかかわらず薄暗かった。万里香は売り場のイスに腰掛け、暗がりでもきらきら光る宝石たちをぼんやり眺めながら思った。  自分は何をやっていたのだろう。忌避薬の実証実験は結局できていないも同様、否、いさぎよく失敗といってもいい。忌避薬に効果があるとしてもおそらくそれは実用に足るものではないのだ。それを知るために二人の人間が犠牲になった。万里香が自分の手柄にしたいがためにやりすぎたからだ。  どうしてこうなったのか。ちょうどzataが発生し、日本全てを巻き込むようなパンデミックになる可能性があった。この忌避薬の効果が実証されれば研究者としての名声と富は計り知れない。研究者ならそんなチャンスに巡り合えば、とことん突き進むものではないか。そして、万里香はそうすることを選んだのだ。  だが、それでも振り返ってみれば自分のやりようは研究者として杜撰であり、全くの失格だった。自分は欲に目がくらんだだけなのだ。ただそれだけの愚かな人間なのだ。他人の命を犠牲にして、それでわずかな成果さえも残すことができない。薄暗がりの中で時折光る宝石が自分を笑っているように思えた。  果てしなくたそがれていると、彼がそばにやって来て声をかけた。 「どうした?」  彼の重々しさは近くにいるだけで万里香の良心に圧迫感を与えた。 「……ごめんなさい」 「何を謝る?」 「……全部。あなたの忠告をすぐに受け入れなかったこと。あなたをあんな訳の分からない撮影につきあわせたこと、ぜんぶ、ぜんぶよ」  彼は何も答えなかった。  ショーケースの上に並ぶホログラムが急に点灯して、十八金のリングが宙に表示された。  万里香は自分に意味のないものとしてそれをぼうっとしながら眺めた。  すると、彼がつぶやいた。 「これ、似ているな」 「え」 「俺が婚約者に贈ったやつに似ている。と言っても直前で解消されて、送り返されてきたけどな」  万里香は何と答えてよいか分からなかった。  彼はなおも話し続けた。 「だが、今になってみれば、彼女は正しかったよ。こんな化け物を夫にしたがる奴はいないだろうからな。もし、結婚してたら、俺が最初に襲ったのは彼女かもしれない。新婚早々夫婦そろって人外なんて笑えたもんじゃない」  万里香は宙に垂れた彼の腕に手を添えた。ごつごつとしてひんやりしたそれは、誰からも隔絶した存在であるかのように思えた。 「……戻ったら、必ず助けるから」  思わず言葉が漏れた。 「助ける?」  不思議なものを聞いたというような彼の声がした。 「ええ、人に戻る薬を作って、あなたに必ず飲ませるから」  随分と安請け合いをしているなと自分でも思う。万里香はその専門家ではないし、zata病がすぐに解析されるものとも思わなかった。だが、そう言わずにはいられなかった。 「気にするな」  彼もそれを真剣な言葉とは取らなかったようで、万里香の手からそっと腕を引いた。 「どうして、あなたはたまたまそんなわけのわからない病気になっただけじゃない。あなたが悪いわけでもなんでもないわ」  万里香の言葉をとどめて彼は言った。 「そうさ。たまたま変な病気になって、たまたまzataになって人を殺しまくってるだけさ。この先、普通の暮らしになんて戻れるわけがない」 「そんなことない、あなたはちゃんと理性を残してる。それは人として大事なことだし、あなたが、みんなを助けようとしてくれたこともみんな知ってる。大丈夫よ、あきらめないで」  自分の言葉がどれだけ薄っぺらなものか万里香は分かっていながら、他の言葉をみつけることができなかった。  また、そのうち彼は理性をなくす。そして、他のzata患者と同じようなふるまいをする。そして、それは彼にも万里香にも止める術はなかった。  彼は右手を上げて宙に浮かんだリングをゆっくりと握りつぶそうとした。彼の漆黒の拳によって像は焦点を失い、かき消えた。 「あんたが、俺を人間扱いするのは、打算があるからだろ」 「え」  彼の予想外の言葉に万里香は驚いた。 「俺が理性がある特殊なzataだから。言葉を話せる貴重なzataだから。自分の研究に役に立つ可能性を秘めているから。そうだろう?」  呆然として、万里香は彼のシルエットを眺めた。  そんなことはない。そう叫ぼうとして考える。本当に少しも、これっぽっちも違うと言い切ることができるだろうか。断じて違うと神に誓うことができるだろうか。万里香は自分に自信が持てなかった。 「そろそろ時間だ」  暗闇の中で彼がそうつぶやいた。  午後四時前、三人は三坂中学校に向かって歩き始めた。  彼は前と変わらない態度で言った。 「俺は近くで見ている。救助活動が終わるまで、万が一の状態に備えよう」 「へいへい、よろしくお願いしますよ」  大田名は大仰にそう吐き捨て、吉水は小さくお辞儀をし、万里香は泣きそうになりながら笑顔を作り、別れとした。    14  校庭は昼間より随分人が増え、五十人近くの避難者が集まっていた。  ヘリの到着時間が間近のせいか、校庭は慌ただしい雰囲気に満ちていた。それでも、知らない人間同士ながら互いの不安と安堵に折り合いをつけるため、至るところでコミュニケーションが取られていた。 「お宅はどちらから?」 「ええ、品内から。ずっと家にこもっていたんですが、これを逃したらもうチャンスがないと思って」 「私は隣町の地区センターに避難していたんですよ。仲間と一緒に」 「あそこ無事だったんですか。避難したお隣さんと連絡が取れなくなったものだから、てっきり――」 「私は木佐又からでして……」 「そんな遠くから、山奥でしょ?」 「車で二時間かかりましたよ。もっと近くに救助ポイントがあればよかったんですが――」  ざわつきの中から徐々に親密さが醸成されようとしていたその時、急に鋭い声が上がった。 「誰かその赤ん坊を黙らせろ!」  声の主は大田名だった。すすり泣く赤子に向かって彼が怒鳴ると、誰かがそれに言い返した。 「こんな時にあんたは弱者をいたわることもできないのか。そんなのは人間の屑のすることだ」  すぐに口論になった。 「その赤ん坊の泣き声であいつらがやって来たらどうするんだ。オマエは責任とれるのか、ええ?」 「そ、それにしたって、言い方ってものがあるだろ!」 「どう言ったってな、ここでの弱者は俺たち人間なんだよ、弱者は弱者なりに生き残るために何でもしなきゃならないんだよ」  砂を噛むようなその言葉に多くの人たちが下を向いた。  万里香は歯を食いしばり顔を上げると、皆に向かって努めて明るい声を出した。 「元気出しましょう。もうすぐですよ、もうすぐ救助が来るんですから。助かるんですよ、私たち。だから仲良く待ちましょう、ね」  吉水もそれに同調した。 「ここで争っても何もいいことはありませんからね。こんな時こそ平常心ですよ」  二人の言葉でとりあえずその場は落ち着きを取り戻した。  万里香はこそっと吉水に訊いた。 「あの人、いつもあんな感じですか?」 「割と、そうかな」 「サイアクじゃないですか」  これまで何となくは分かっていたとはいえ、上司や同僚には決していてほしくない種類の人間だった。 「彼は、自己中心的な昔ながらのプロデューサーですから」  吉水の彼を弁護するようなコメントは万里香にとって到底受け入れられるようなものではなかった。  落ち着きを取り戻した空気の中でぽつりぽつりと会話が再開された。 「救助のヘリはいつ頃到着なんでしょうか?」 「お昼のラジオでは夕方五時って言ってましたね。それから何も言ってませんけど……」 「今四時過ぎですか」 「もうすぐですね」 「本当に、ここでいいのかしら?」 「いや、あってますよ。三坂中学校でしょ。ここですよ、間違いありませんって」 「門の所に看板が出てましたし」 「それならいいんだけど」  万里香が赤子の母親たちと話しているのを見て、大田名も吉水と小声で話し始めた。 「悪かったな、こんなことになっちまって」  大田名の言葉に吉水は目を丸くした。 「どうしたんですか、大田名さんがそんなこと言うなんて」  彼の口からそんな真摯な謝罪の言葉を聞いた記憶は吉水にはなかった。 「これでも悪かったと思ってるんだよ。何というか、ちょっと、功を焦った。もっとやりようがあったんじゃないかとも思うが……今さらだ」  目をそらす大田名に吉水は思わず吹き出しそうになった。 「それはいいですけど、大事なのは報酬ですよ。大丈夫ですよね?」  吉水の疑問に大田名は太鼓判を押した。 「それは間違いない。戻ったら、その映像、俺が交渉して絶対局長に高く買い取ってもらう。あんなの持ってる局は他にいないんだ。言い値で買い取ってくれるさ」 「でも、どうでしょう、あれは暗かったし、見栄えとしてはあまり……そうだ、この救助の映像を撮るっていうのはどうですかね、ああ、でも残りバッテリーが……」  その提案に大田名は少し口ごもった。 「まずはとにかく救助ヘリに乗り込むことだ。映像があっても、俺たちが生き残れなきゃ何にも――」  大田名が言い終える前に、校庭の誰かが叫んだ。 「あそこに何かいるぞ!」  続いて双眼鏡を持った青年が南の方を指して言った。 「zataだ!」  その言葉で校庭の集団に一瞬にして恐怖が広まった。 「二匹! こっちにやって来るぞ!」  それを受けて大田名も声を上げた。 「奴らはすぐ群れで来るぞ。ここじゃ駄目だ。校舎の中に立てこもるんだ!」  その言葉を聞いて、人々はわらわらと校舎に向かって駆け出した。  万里香は自分がまだ後生大事に抱えている忌避薬のことを皆に言わなかったことで少し罪悪感を覚えた。勿論、一旦は考えた。だが、手持ちにある忌避薬はあと五人分しかなく、保冷効果もとっくに切れ品質も保証できない。何より、その効果があやふやときてはビタミン剤より自信を持って勧めることさえできなかった。  万里香はちらりと自分の来た方向、彼と別れた場所に目をやった。彼はまだ来なかった。この事態に気づいていないだけなのかもしれないが、先ほどのやり取りを考えれば、必ず来てくれると思う方がおかしいような気もした。  それでも、万里香は集団の最後尾について校舎への避難を行った。まるでヌーの暴走のようだった。  校舎の中へ入っても、人の流れは止まらなかった。先頭で誰が仕切っているのかは分からなかったが、上の階へと進んでいるようだった。  学校の校舎が立てこもりに適した場所かどうかは不安だったが、他にどこがあると言われれば返答に窮するだけだった。仕方なく、万里香は身寄りのない老人たちの手を引きながら校舎の階段を上って行った。  最上階の三階まで来ると、廊下で渋滞が起こっていた。 「どうしたんですか?」  人だかりの中で万里香が隣の婦人に尋ねると、屋上のカギを壊しているとのことだった。  出入り口が少ない分、どこかの教室に立てこもるよりはそれはいくらかマシな案に思えた。  万里香が階段の上を見上げると同時に、上から声が響いた。 「開いたぞ!」  その言葉とともに、人々は天国の門に殺到する死者のように階段を駆け上がった。  あっけにとられた万里香は息の切れかけた老人たちと一緒にゆっくり階段を上がってゆく。すると、上から何人かの男たちが階段を駆け下りて来た。 「ど、どうしたんですか?」  彼らに尋ねると一人が足を止めて答えた。 「大丈夫だ、ここにバリケードを作る。教室から机を持って来て並べるんだ」  zata患者の怪力を間近で見ている万里香には、そんなものがどれだけ役にたつか疑問に思えたが、やらないよりはマシかもしれなかった。問題はそんな時間があるかどうかだった。  それを察したように男は言った。 「大丈夫、上に見張りをたててる。奴らが後者に入ってきたら、作業はすぐ中止だ」  そうして、男たちがバケツリレーのようにして大量の机を一旦屋上へ持ち上げ、それから屋上までの階段に下から積み上げる地味な作業が緊迫した空気の中で行われた。  その間に地上のzata患者は一人増えて三人になっていたが、グラウンドをうろうろするばかりで校舎に入って来ようとはしなかった。  机による空間封鎖バリケードは二十分たらずで完成した。それはまるでどこかのアトラクションのようにも子供の遊び場のようにも見えた。これがどれだけ足止め効果があるかは疑わしかった。  だが、屋上へ戻って来た男たちは皆満足そうな面持ちで額の汗をぬぐっていた。  屋上では五十人ほどの人々が落ちつかない面持ちで救助が訪れるのを待っていた。子供に哺乳瓶でミルクをやる母親、端末をいじり続ける少年、金属バットをぐるぐると回転させる青年。万里香は見張り役を交代し、校庭を観察した。  相変わらず、校庭のzataたちに変化はなかった。三人のzataは何をするでもなく、校庭をうろうろとしている。なぜ彼らが校舎に入って来ないのかは分からなかったが、ありがたいことには違いなかった。この状況が続くなら、救助が来るまでは何とかなりそうだった。  万里香がほっとして屋上に視線を戻すと、吉水がフェンスに背を預けながらのだらしない姿勢で携帯端末のカメラを人々に向けていた。大きなカメラではないのでマスコミだとバレはしないだろうが、その行為に万里香は嫌悪感を覚えた。 「吉水さん」  注意しようと彼女は彼の肩をつついた。 「おっと、揺らさないで下さいよ?」 「そういうの、あんまりよくないと思いますよ」 「ん?」 「だから、こんな避難してる人を、カメラで撮ったりすることですよ」  彼はカメラから目を離さずに言った。 「そうですか、重要な記録だと思いますけどね」 「でも、中には嫌がる人もいるかもしれないじゃないですか」 「そんなに難しく考えないで下さいよ。僕だけじゃない。他にも撮ってる人、何人かいますよ」  見回すと、彼の言う通りだった。  吉水はファインダーをのぞきながら嬉しそうに言った。 「もし仮にここで僕たちが全滅したら、この動画が最後の記録になるかもしれないんですよ。何か言っておくことありますか?」 「ちょっと、縁起でもないこと言わないでくだ――」  その時、後ろで女性の甲高い声が上がった。  双眼鏡をのぞいて見張りをしていた女性がヒステリックに叫んだ。 「来たわ、来たわよ!」  一瞬、救助の到来を告げる声かとも思ったが、彼女の視線は地上に向けられており、その強張った表情は救助隊とは違うものの接近を告げていた。  皆と一緒に万里香もフェンス越しに地上を見た。  すると、校庭を駆けるzata患者の群れがあった。その数は十数名。校庭でうろうろしていたのは仲間を待っていたからのようだった。万里香の背筋がすっと冷たくなった。あの人数では、例え彼が駆けつくてくれたとしてもどうにかなるとは思えなかった。  だが、それとほぼ同時に遠くの空からかすかな音が聞こえて来た。屋上の全員がそれに気づき、北の空にヘリコプターの姿を見つけると、屋上は狂喜した。 「救助だ!」 「よっしゃ!」 「これで助かるぞ!」 「間に合ったのね!」  万里香は空と地上を交互に見やった。間に合うかどうかは微妙にも思えたが、助けがそこまで来ていることが大きな安堵感をもたらしたのは確かだった。  屋上では皆が必死で両手を振り、ヘリに自分たちの存在を知らせようとしていた。  だが、しばらくして皆が異変を感じ取った。  ヘリコプターはものすごい音をさせながら中学校に接近し、屋上にいるこちらの姿にも明らかに気づいていると思われるのに、それ以上は近づいて来ようとしなかったのだ。  万里香の隣で初老の男がつぶやいた。 「もしかして、この屋上には降りられないのか?」  隣の若い男性もはっとなった。 「そうだ、こんなところじゃ、あの大型のヘリの重さを支えられないのかも」  距離により変わるヘリの爆音は、耳をふさぎたくなるほどだったが、それでも声を張れば近くの人間との会話はかろうじて成立していた。  いつの間にか万里香の隣に来ていた大田名が大声で言った。 「まずい状況だな」 「ええ」  そんなことは言われなくても分かっていると万里香は冷たくうなずいた。  大田名は万里香の態度を気にせず、校庭に何人か残っているzata患者たちを顎で示した。 「吉水が言ってたろ。救助隊は近くに奴らがいる場所では救助を行わない。自分たちまで巻き添えになる可能性があるからな」  そのことを思い出し、万里香は愕然となった。 「おまけにヘリが建物の構造上の問題で屋上に着陸できないとなれば、なあ?」 「じゃあ、どうすれば……」 「最後の希望が、奴が来て、ここのzataを一掃してくれることだが、奴さんてんで来やしねえ。さすがにあの人数相手じゃ話にならんと思って退散したのかね」 「彼は――」  咄嗟に口に出たが、それ以上は万里香も反論できなかった。  二人の話を聞いていた近くの人間からブーイングが起こる。 「何言ってるんだ、まだここは無事じゃないか。救助の時間は十分あるはずだ」  若い男の不満に大田名は肩をすくめた。 「じゃあ、ヘリの連中にそう言ってやりなよ。ホバリングしながら一人ずつロープで引き上げる手もあるが、この人数じゃな」  屋上から恨みがましく見つめる視線の先でヘリはやはり校舎の周りを虚しくぐるぐると旋回するだけだった。  緊迫した視線の背後で、階段につながる扉がどん、と大きく鳴った。屋上の視線が一斉に扉に集まったが、それ以上の変化は起こらなかった。彼らに時間が残されていないのは明らかだった。  人々は再び空中のヘリに向かって声を枯らしながら叫び始めた。 「助けてくれえ!」 「ここだ、ここにいるんだ!」 「お願いします、赤ん坊がいるんです、この子だけでも助けて!」  悲痛な大合唱だったが、それは絶望の上澄みにすぎなかった。終わってしまえば、そこには希望の見えない暗闇だけが残る。  大田名は何も言わずただ上空を見つめている。吉水は懲りることなく、パニック寸前のこの光景を撮影していた。  万里香は地上に彼の姿を探したが、どこを探しても見つからなかった。  だが、奇跡は起こった。上空のヘリは十数回目の旋回を終えた後、何かを決断したように慎重に機体の向きを整えつつ、高度を落とし始めたのだ。  屋上に再び歓声が響いた。  ある程度の高度になると、ヘリ後方からロープにつられた人がするすると宙を降りてきた。皆が固唾をのんで飲んで見守る中、それは一分ほどの時間をかけて、校舎の屋上に無事着地した。  まだ若いが精悍な風貌をした自衛隊の隊員は、皆に敬礼をした上でヘリの音に負けない声を腹から出して言った。 「これから皆さんの救助を開始します。一人ずつ私が抱えて上空のヘリにお連れします。高齢者、お子様、女性、一般男性の順でお連れしますので、列を作ってお待ちください」  機械のアナウンスのようにそれだけを言うと、早速彼は有無を言わせず近くのお年寄りに安全具を巻き付けた。老人は戸惑いながらも家族に説得され、納得したようだった。そんな老人を隊員は片腕で抱え込むと、上空に合図を送った。  すると、ロープは上空へ二人を吊り上げ始めた。まさに蜘蛛の糸だった。  万里香も他の人々と同じように希望に包まれ、その光景を眺めていた。  だが、それも再び扉が大きく鳴るのを聞くまでだった。今度は続いて二度。  現実に引き戻され、万里香は扉を見やった。扉の中央が大きくへこんでいたのが見えた。皆が怯える視線で扉を見る中、万里香は扉の方に走り出そうとして、吉水に片手で引き止められた。  彼は無言で首を横に振った。 「でも、誰か、遅れて来た人がいるかも」  そうは言ったが、万里香が本当に気になっていたのは別の人物だった。もし、zataが本気になればとっくにあんな扉は破られているような気がしていた。  だが、それは口にせず、万里香は、吉水の手をほどき、扉へそれを確かめに行った。 「おい、開けるなよ!」  ヘリの下から大田名が大声で怒鳴っていた。  苦虫をかみつぶしながら万里香は大声で返事をした。 「分かってます! ちゃんと確認してからにします!」  そして、扉にたどり着くと、万里香は壁と歪んだ扉の隙間に目を細めた。 「……誰か、いますか?」  扉の向こう側にそう尋ねてみた。たが、声がしゃがれてヘリの音にかき消されたせいか、答えは返って来なかった。だが、人の気配があるような気がした。 「誰かいるんですか?」  喉の痛さに顔をしかめてもう一度尋ねると、今度は返事があった。 「……岸さんか?」  その声に万里香は驚いた。 「!」  一瞬、喜びがあふれそうになった。やはり彼は来てくれたのだ。例え、万里香のことを軽蔑していても、例え、相手のzataが手の負えないほど多数であっても。そのことに万里香は感動しそうになった。 「……どうなっているんですか?」  自分を落ちつかせながら万里香は訊いた。  扉の向こうから息を切らしたような彼の声が聞こえてくる。 「小休止だ。さっきまで机の投げ合いだ。だが、奴ら、飽きたらしい。今は階段の下でこっちを様子見している」  やはりすぐそこまでzata患者たちが来ていたのだと思い、ぞっとなった。 「大丈夫なんですか?」  万里香の問いには答えず彼は尋ねた。 「それより、救助はどうなってる?」 「だ、大丈夫です。ヘリが来てくれて、今さっき一人目が吊り上げられました」 「……」  しばらくの無言を挟んで彼は言った。 「急げ、時間はあまりないかもしれないぞ」 「え、それって……」  急に扉の向こうで机が崩れ落ちる音がした。 「ちょっと?」  彼から返事はなかった。扉の向こうでは第二幕が始まったらしい。  万里香がヘリの方に視線を移すと、二度目の救助ロープはまだ降りてきていなかった。加えて、その下に集まった人々の間で何やら言い争いが起こっているようだった。 「ごめん、ちょっと様子見てくる」  扉に向かってそう言うと、万里香は扉から離れた。  ヘリの下の人々はつかみ合いに近い状態で、もめている中心はやはり大田名だった。 「分からん人だな、俺は報道関係者なんだよ、封鎖地区でこいつと貴重な絵を撮って来たんだ。それを持ち帰って放映する義務がある。最初に救助されて当然だろ」  吉水を指して彼はそう主張した。  万里香は内心げんなりした。当然、彼の言葉は他の人々にも受け入れられるわけはなく、次々と反論が起こった。 「そんなこと関係ないでしょ!」 「そうよ、お年寄りが先よ、うちのおばあちゃん、昨日から咳込んでてつらそうなのよ」 「うちの子をお願いします、この子をどうか、お願いですから――」 「違う違う、まずはケガ人だ。避難の途中で大変な目にあったんだ。そういった人間を優先させるべきだろ!」  そう主張する右腕に包帯を巻いた男に大田名は言った。 「それってzata病に感染したんじゃないのか。そんな奴をヘリに乗っけて、途中で発症したら救助もくそもなくなるぞ」 「な、なんてことを言うんだ、こっちはな――」  男の周囲にさっと空間ができる。 「馬鹿野郎、これは違う、このケガは――」  大田名は男の反論を無視して頭上をちらりと見た。万里香の目にも二度目のロープとともに救助要員が下りてくるのが見えた。  大田名と再び視線があった。今度は何を言うのかと思いきや、最悪だった。 「この彼女なんて、まるっきりzata病患者を一緒に連れて行こうとしてるんだぜ。今もあの扉の向こうに待たせているんじゃないのかね。つまり、彼女の合図一つで俺たちは全滅ってわけだ」  大田名の言葉で敵意に満ちた視線が一斉に万里香に向けられた。 「ちょ、大田名さん、何を――」  彼女の反論は周囲の疑念に遮られた。 「ほ、本当なのか?」 「あんた、何を考えてるんだ!」 「そんなことが許されると思ってるの!」  いきなりヒステリックな他人の感情にさらされ、万里香自身もパニックになりかけた。 「ち、違います。私は、違うんです。彼は、ただ、私たちを守ろうと――」  結果的にそれは失言だった。 「ほらみろ、いるんだ、zata患者があの向こうまで来ているぞ!」  大田名のダメ押しで、万里香の周りに人が殺到し、問答無用で揉みくちゃにされる。  万里香は大田名がなぜそんなことを口に出したのか、彼の意図を図りかねた。お互いによく思っていなかったのは確かだが、こんなことをして一体何になるというのだ。  だが、彼が離れた場所で上からロープが下りてくるのをじっと見つめているのを見て、理解した。万里香は他の人たちの気をそらす単なる餌だ。そのすきに彼はめでたく蜘蛛の糸の次の救助者となるつもりなのだ。  口惜しさがあふれそうになったが、それをうまく口にすることができないまま、彼女は大勢の人たちに小突き回され続けた。  もういやだ、どうしてこんなことになるの。どうしてみんなそんな勝手なことばかり。どうして自分のことしか考えられないの。  保冷ケースを必死になって守りながら万里香はそんな風に思った。けれど、よく考えれば自分も似たようなものだった。万里香とて自分の業績にしたいがために危険を冒し、封鎖地区に入り込んだのだ。大田名のことも、ここにいる人々のことも責める権利はないような気がした。  ふと気がつくと、いつのまにか彼女の回りから人は散っていた。  一瞬、何が起こったのか分からなかったが、その後、万里香の耳に飛び込んできたのは、悲鳴の重奏だった。  屋上の人々が助けを求めヘリの直下に雪崩をうってゆく。その恐怖に満ちた視線の先を見ると、フェンスを越えて屋上に上がって来たzataの姿があった。  彼らは屋上入口を死守する守護神の相手をするのをやめ、校舎の外壁を登って来たのだった。一人、二人、三人。みるみるうちにその数は増えてゆく。そして、そのうちの一人と視線があった。相手は躊躇なく、万里香の方へ向かってきた。  万里香は足がすくんで動けなかった。彼女にできたのは心の中で呪文を繰返すだけだった。 〈忌避薬効いてる忌避薬効いてる〉  何の意味もないことをするなと自分をしかりつけたくなったが、怖くて目を開けることもできなかった。死ぬときは一瞬だろうか。それとも自分もzataにされてしまうのだろうか。そんなことになるぐらいならいっそ自分で命を絶った方が良いのではないか。  だが、いつまでたっても何も起こらない。  万里香はおそるおそる目を開けた。  すると、先ほどのzataが二メートルほどの距離を保ったまま、万里香を見据えていた。  一体どういうことなのか。心に浮かんだある可能性を検討しようとしていると、急に体を引きよせられた。 「しっかりしろ!」  聞き覚えのある声だった。 「ダンゴムシになってる暇はないぞ!」  そう叱咤激励してくるのは坂口だった。 「あ……」  思わず惚けた声を出すと、彼は再び声を張り上げた。 「向こうへ行け! ロープの下でみんなで固まってろ!」  彼に突き飛ばされて万里香は死ぬ気で仲間の元に駆けた。大田名の嫌そうな顔が目に入ったがいちいち気にしていられなかった。  そこには大田名の他、赤ん坊を抱えた母親や老人など十人ほどの男女が固まって震えていた。  万里香はロープの真下に陣取る大田名に向かって言った。 「大田名さん、みんなをまとめて下さい」 「どうして俺が?」 「大田名さんならできるでしょ」 「はあ? この場で何をどうやるっていうんだよ」 「彼だって来てくれたじゃないですか」 「バカ! もう無理だ。クロタ一人が助太刀に来たところで、数が多すぎる」 「あきらめてどうするんです、ヘリだってすぐ真上にいるじゃないですか。彼らを屋上から追い出せば――」 「この光景をよく見て言えよ!」  そんなことは言われるまでもない。屋上では八人の黒い悪魔たちが大勢の人たちを追い回している。彼らは一人だけ混じった異分子の抵抗に手を焼きながらも、おおむね好き勝手していた。つまりは人に噛みつき、人の悲鳴と絶望を絞り出していた。既に犠牲者の亡骸が十以上は屋上に無造作に転がっている。  後ろで大田名の苛立った声が聞こえた。 「早く降りてこい、いつまでかかってるんだ! こっちは大変なんだ、見て分からんのか!」  大田名の声に応えるように、爆音の中からスピーカーの音声が届いた。 『まことに申し訳ありませんが、救助活動は現時点を持って中止となります。皆さんには自力で封鎖線まで来ていただくことになります。皆さまの幸運をお祈りしております』  そして、途中まで降りてきていた隊員は再びするするとヘリに上がってゆく。 「ふ、ふざけるな!」  声を張り上げ怒鳴っているのは大田名だけで、他の人々はそんな余裕さえもない。  そんな中、ふたたび万里香たちの集団もzataたちに目をつけられた。二匹のzataが嬉しそうに飛び跳ねて向かってくる。頼みの彼は向こう側で五人のzata相手に手一杯だった。  蜘蛛の糸も消えた。助けてくれる人もない。武器すらもない。本当に万事休すだ。そう思った。  だが、万里香の体は本人が思うのとは違う行動をとっていた。 「おまえ、何やってんだ」  後ろで大田名がつぶやいていた。  それはこっちのセリフだと万里香は思った。何しろ万里香は皆の前へ出て、両手を開いてzataたちに向かって待ったをかけているのだから。最後にいい格好をしようとしたのだろうか。せめてもの罪滅ぼしをしたかったのか。自分でも訳が分からなかった。  だが、zataたちは万里香と対峙したままぴたりと動かなかった。正確には、うろうろしてそれ以上、万里香たちに近づいて来なかった。  これは――  この状況が指し示す万里香は一つの可能性にたどり着いた。  忌避薬が効果を発揮しているのだ。理性のある坂口相手には効かなかったが、普通のzata相手には有効なのだ。そうとしか考えられなかった。  万里香は後生大事に守り続けた保冷ケースからサンプルを一本取り出し、それを仁王立ちで飲み干した。そして、保冷ケースを大田名に託す。 「大田名さん、これ、まだ少しあります。みんなで飲んで下さい!」  飲んですぐに効果がでるわけはないのだが、頼れるものには何でもすがりたかった。  こうなったらなるようになれだ。万里香はやけくそでzataたちに圧をかける。 「さあ、あんたたち、どきなさい、そこをどくのよ」  そう言って、彼らに向かって一歩踏み出す。勿論、足はがくがくと震えたままだ。 「ハイハイハイ、おどきなさい!」  二匹のzataは万里香が一歩踏み出すと、退歩する。 「みんな、ついてきて! こいつら私には近寄れないわ!」  自分を奮い立たせるために大声を上げる。  忌避薬の効果があるとしても、この場にいる限り何も進展はしない。校舎から出て、車でも調達して避難するしかない。  下への階段に向かって万里香は一歩ずつ前進した。 「馬鹿、後ろのことを考えろ!」  後ろの大田名から馬鹿呼ばわりされ、後ろががら空きであることに思い至り、横歩きに変更する。  十人ほどの仲間を背負い、じりじりとカニ歩きで二匹のzataとともに階段へ向かって移動する。  あと二十メートル。十メートル。だが、忌避薬は本当に今匂っているのだろうか。不思議な気持ちで遠目に彼を見る。彼は二匹のzataの後ろで相変わらず多くのzataを相手にしていて余裕がなさそうだった。だが、万里香の方は何とかなりそうだった。忌避薬は効果があったのだ。これを持ち帰って増産すればzataの脅威は小さくなり、対処手段も増えるはずだ。勿論、万里香の研究者としての評価もうなぎ上り。何も言うことはない。階段までほんのあと少しだった。  その時、万里香は思わず前につんのめった。まるで後ろから誰かに蹴り飛ばされたかのように。  それと同時に後ろの人たちが一斉に階段に向かって走り出したようだったが、問題は万里香自身だった。  バランスを崩してzataたちに向かって突っ込む。幸い、二匹のzataは万里香をよけてくれたが、坂口が相手をしている乱闘中のzataたちはそうはいかなかった。  その一匹のフルスイングをもろに胸で受ける。嫌な音が体の中から響き、体は宙を飛んでいた。あ、と思った瞬間、彼女は再び屋上にたたきつけられた。  これ、まずくない?  くらくらとぼやけてゆく視界の中で万里香は思った。息ができない。体も動かない。これって生命活動の停止につながるんじゃないの? 皆、うまく逃げられただろうか。彼もうまく逃げてくれれば。ああ、ダメだ。もう無理……ごめんなさい。  それを脳内でつむぐ最後の言葉にして、万里香は意識を失った。    15  約束の時間に十分ほど遅れて待ち合わせの喫茶店につくと、相手は既に到着していて注文したアイスコーヒーを眺めていた。池袋の老舗の落ち着いたところを指定したのはお互いの立場がよく分かっているといったところだろうか。 「悪いな、現役官僚様を待たせてしまって」  榊原は後輩に向かってそう軽口をたたき、彼の前の席についた。 「遅いですよ、人を呼び出しておいて何なんです。昔言ってたことと違うじゃないですか」  まだどことなく幼さの残る瀬川正志はまだ三十歳にはなっていなかったはずで、彼が経済産業省の官僚だと聞けば、驚く人間の方が多いに違いない。  このzata事件が起こったとき、榊原が最初に連絡を取ったのはこの後輩だった。自分になついているのは相変わらずのようで、まだまだこのパイプは有効に活用できそうだった。 「官僚には官僚の、民間人には民間人のやり方ってものがあるだろう。一つの考え方にとらわれるな」  榊原はそう先輩風を吹かし、近くに来たウエイトレスにコーヒーを注文した。 「対策委員会に出向になったんだって?」 「もうてんやわんやですよ。本当ならこんなトコ来ている暇なんてないんですからね」 「まあ、忙しいだろうが、出世のいいきっかけだ」 「で、今日は一体何の用ですか」  瀬川はまっすぐに尋ねて来た。 「大したことじゃない。情報交換ができればと思ってね」  榊原は瀬川をまっすぐに見返してそう応えた。榊原がzataの会の指導者であることは相手も知っているはずだった。zataの会はまだ会員も少ないながら、今回のzata事件の中でそれなりのインパクトを持って受け入れられていた。それ故、瀬川も今回の呼び出しに応じた。そう榊原は認識していた。  少し間をおいて瀬川はうなずいた。 「……そうですね。で、何が知りたいんです。いくら先輩でも何でもかんでもお話しするわけにはいきませんよ」 「分かってるさ。まず、現状を教えてもらいたいな。勿論、報道されていない部分のところを」  瀬川は氷の浮いたグラスに口をつけ、それから声を潜めて話し始めた。 「封鎖地区からの救助活動は、先輩も分かってると思いますが、単なるエクスキューズです。一日目で五十六人を救助できましたが、二日目はそれを下回るでしょう。それでおしまいです」 「一体、どれだけの数が取り残されているんだ?」 「試算では、八十万人」 「おおっと。なかなかの人数だ。で、今回ので救助活動は済ませたことにするとして、反転攻勢の準備ができたってことか?」  瀬川は苦々し気にそれに答えた。 「実は、ご存知の通り、zataには通常兵器が効きません。そこで米軍から特殊弾薬を供与してもらうことになっていたんですが、予定の期日になってもまだ全然そろってないんですよ。米軍は単なる手続き上のミスだと言い張っているんですけど、どうもそれだけじゃないような……」  瀬川は榊原が思った以上のことを話してくれている。それならばと榊原もカードを切った。 「噂で聞いたんだが、米国の寒冷化対策プロジェクトに、人を一旦体組成ごと作り変えて、氷河期を生きながらえさせるというものがあるらしい」 「え、初耳です」  瀬川は目を丸くした。 「だから噂だ」 「確かに米国はまだ寒冷化対策を正式決定してませんけど、おそらく火星移住で決まるだろうともっぱらの話じゃないですか」 「あの国はな、一つの頭の下に小さな頭がたくさんある。ヒュドラみたいなものだ。日本で言えばヤマタノオロチ。それぞれが相手の様子を見ながら勝手に動いてる。必ずしも一つ一つが上の統制下にあるとは限らないのがやっかいなところだ」 「じゃあ、今回のzata事件も、米国の試験か何かだと?」 「さあ、それは分からんさ。まったく米国と関係ない新種の奇病かもしれんし、関係あったとしても、流出したウイルスをどこかのテロ組織が使った可能性だってある。真相を知りたければ、あちらさんに聞いてくれ」  瀬川はうつむいて無言になった。  しかし、よくやっていると思う。この国で大胆な隔離政策があれだけ素早くとれたのは予想外だったし、それが今もなお続けられているというのは賞賛に値すると本気で思う。せめてその優秀さを寒冷化対策の決定時に発揮していてくれればと榊原としては思わずにはいられなかった。 「先輩、戻って来てくれませんか」  すがるような声で瀬川は言った。 「何だ、今さら」 「局長にも特例でオッケーもらってます。今は先輩の力が必要なんです」 「冗談はよしてくれ。優秀なやつはいくらでもいるだろ」 「そんなにzataの会が大事なんですか。あんな詐欺まがいのことやめて下さいよ。そのうち捕まりますよ」  後輩の必死の説得に榊原はおかしくなった。この先、日本がどうなるにせよ、榊原にとっては今さらだった。 「どうせ将来、この国は中途半端な方策のもとで衰弱死していくんだ。その死に方を助けてやってもかまわんだろ。俺は俺で民間人として国民のために尽くしているのさ」 「そんな」 「そっちこそ身の振り方を考えておいた方がいいぞ。さっきの話を聞く限り、日本も安泰ってわけにはいかなさそうだ。何ならzataの会に来るか。今人手が足りなくてな。来てくれると助かる」 「お断りします。僕にも官僚としての矜持はあります」 「まじめだねえ」  榊原としても本当に彼が寝返ると思ったわけではない。この男はこの男なりの行動原理で動いているのだ。それに必要以上に干渉しようとは思わなかった。  榊原はテーブルの端末で後輩の分も含めて精算を済ませると、ちょうど黒ずくめでサングラスをかけた男が二人隣に立っていた。  時間だった。 「表の、公安さんによろしく言っておいてくれ」 「え」  瀬川は再び驚いた顔を見せた。ひょっとしたら本当に知らなかったのかもしれない。念のためとはいえ、屈強なボディガードを随行させてきた榊原とは心持ちからして大きな違いがあると言わざるをえなかった。 「それじゃあな」  コーヒーを運ばれてきたウエイトレスとすれ違いで榊原は店を出た。  計画を急いで次の段階に進める必要がありそうだった。    16  封鎖線から南方に約五キロ。人のまったくいなくなった市街地に彼らはいまだいた。  耕平がそこに戻って来たのは、ある意味、偶然だった。救助ポイントを後にして、ふらふらとあたりをさ迷っていた時、カゲオに出くわし、なかば無理やり連れて来られたのだった。  群れの数は随分と増えて、広場に集うzataは五十人を超えており、耕平には見知らぬ者ばかりだった。うまくテレパシーを使えぬ耕平はいくらか奇異の目で見られたが、知り合いがいたせいもあり、群れからはじき出されるようなことはなかった。  イチバンは相変わらず群れの中心で元気いっぱいに騒ぎまくっているし、カゲオは何も言わないのにしつこいくらいにまとわりついて来る。エラソウはと言えば、かつての面影を完全になくし、群れの端で大人しくなっていたが、それについてはもはや何の感慨もわかなかった。  そして、ジロリについて言えば、彼女は群れの新しいリーダーとして確固たる地位を築いているようだった。彼女は耕平について黙認の姿勢を示し、それが即ち群れの考えとなった。  幸運だった。何しろ、耕平はこれまで人間を守り続けてきたわけであり、それは即ち、zataを退けてきたということだ。退けた者の中に、群れの一員も何人かいて、先の学校を襲撃したのも群れの新メンバーだった。彼らは邪魔をした耕平に対して決して友好的とは言えず、ジロリがいなければとても群れにはいられなかったはずだった。  耕平は群れに戻って来たといっても、どうするわけではなかった。むしろ、どうしてよいか分からなかった。地面に座り込み、じっと大地を見て考える。  先の屋上での出来事はそれだけ耕平にとってショッキングであった。  あの後、瀕死の万里香と吉水だけはかろうじて逃がすことができたが、彼らが今も無事かどうかは知る由もなかった。  大田名を含め他の者は全員、zataたちにその運命を蹂躙された。ひょっとしたら、この群れに合流する者も出て来るかもしれない。  だが、それが何だというのだ。理性を放り投げ、自らの生存のみを優先し、他人に対する協調も寛容もすべてを消し去った存在に何かを主張する権利があるというのだろうか。そんなありようを目にしたことは耕平に自分がこれまでにしてきたことに疑問を抱かせるに十分だった。  これまでzataとして本能の赴くまま人を襲うことを拒み、人間を助けることにその力を尽くしてはみたものの、それが一体何だったというのだろうか。結局、たどり着いたのは、膨れ上がった人間に対する嫌悪感だった。それならば、群れで生きるzata患者たちの方がよほど生命のあり方として潔いような気さえしていた。例え、その生が人を襲うことと不可分であったとしても、人の視点から離れ、この世の生命連鎖の中で見れば、それは決して誹られるものではないのかもしれなかった。  カゲオがしゃがんだ耕平の頭にそっと手を置いた。 「……大丈夫だ」  彼にそう言葉を返したが、カゲオからは言葉は返って来なかった。  言葉を解さない獣――そんな単語が出かかったが、それは正しくない。確かに耕平はかつて、口に出す言葉ではなく、頭の中でつながる彼ら独特の意志疎通法を体験していた。  今となっては超能力のように思えるそれを再び体験することは不可能にも思えた。けれど、そうと知りつつ、耕平は目の前のカゲオに向かって頭の中で念じてみた。 <俺は大丈夫だよ>  だが、カゲオは首をひねるばかりで、意思疎通が叶ったとはとても思えなかった。  仲間を捨ておき、ずっと人間たちにかかりっきりだったのだから、自業自得と言われればそれまでだった。今さら仲間になど戻れるのだろうか。戻ってもよいのだろうか。結局、自分はどちらにもなり切れず、どちらにも居場所はないのだ。そう思えた。  仲間に戻れる戻れないに関わらず、群れに戻って来たからにはやるべきことが耕平にはあった。  今やリーダーとなったジロリの元へ耕平は向かった。彼女はリーダーらしく、新顔の強そうな仲間を周りに従え、その中央で静かにうたた寝しているように見えた。  耕平が彼女に近づこうとすると、取り巻きの何人かが視線で威嚇してきた。これ以上、彼女に近づくとただでは済まないといった感じだった。  だが、彼らを見て耕平は思った。おそらくこの新顔たちよりも自分の方が強い。これまでの経験から言っても、後からzataになった連中とは能力に開きがあるようだった。だから、もし、彼女を守る五人ほどのzataと争いになっても彼らを組み伏せることは可能だという自信があった。  しかし、群れ全体と諍いになればさすがにそうはいかない。そもそも、群れを一度捨てた耕平には弱みがあった。だから、それ以上のごり押しはできなかった。思念で会話ができないことがもどかしかった。  耕平はそこで立ち止まると、幾ばくかの羞恥心を抑え込み、彼女に向かって声を上げた。 「聞いてくれ、人間たちはもうすぐこちらに対して全面攻撃をしてくるはずだ。彼らの救助活動はその前触れだ。ここは前線に近すぎる。もっと前線から離れるべきだ」  耕平としては知りえた情報を彼らに伝えないわけにはいかなかった。  だが、彼女からは何の返答もなかった。それとも、思念で返事をしてきているのかもしれないが、そうだとしたら耕平にはどうしようもない。  彼女は相変わらず眠っているのか起きているのか分からない風で、昔のあの鋭い視線を見せようともしなかった。周りのzataたちにも耕平の話の内容が理解できているような反応を示す者は一人もいなかった。  耕平は苛立ちながらさらに説得を続けしようとしたが、取り巻きの一人が大きく吠えて威嚇してきた。これ以上、彼女をわずらわせるなということらしい。しばらく彼とにらみ合ったが、結局耕平は諦めざるをえなかった。  夜になって、耕平は一人で町角の花屋の前でうたた寝していた。店頭や店内に飾られた花たちは既に枯れ果てていたが、周りに気を遣わず眠ることができるだけで最高の環境だった。人間たちといたときは、いつ眠ったままゾンビの本性に目覚めてしまうかと気が気ではなく、気を張っていなければならなかった。だが、今はそうではない。今ならその本能に身をゆだねてしまうことに何のためらいもない。そう思えるようになっただけでも、群れに戻って来て良かったと耕平は思った。  もう一度本格的な眠りに入ろうとしたとき、誰かに揺すられて、耕平は目を開いた。  黒い肌に金の細い筋が入ったzata。驚いたことに、昼間、耕平に何の興味も示さなかったジロリが一人、そこにいた。 「な、何の用だ」  いささか警戒して耕平は尋ねた。  だが、すぐに彼女が言葉を解さないことを思い出し、自らの発言を悔いた。 「そうだよな、zataは言葉を話さないんだった。じゃあ、俺は一体何だよって話だな」  自嘲的なひとりごとをつぶやいて、耕平は再びうつむいた。  その時、上から声がした。 「昼間……ごめんなさい」  もう一度見上げると、真摯な目で彼女が見つめていた。 「言葉を、話せるのか?」  彼女はこくりとうなずいた。 「じゃあ、どうして昼間は――」  耕平の問いを彼女は押しとどめた。 「言葉、少しだけ」  聞き間違いではなかった。確かに耕平は彼女と言葉で意思の疎通をしていた。  喜びで叫び出したいほどの耕平を前に、彼女は先を続けた。 「私、群れのリーダー。あなた、一度、群れ、抜けた。私、話きく、よくない。だから……」  たどたどしい言葉ではあったが、彼女の言うことは耕平にも十分理解できた。  それならば、耕平にも伝えなければならないことはあった。昼間伝えようとしたことを改めて彼女に言わねばならなかった。  耕平は立ち上がって言った。 「聞いてくれ、人間は――」 「分かってる」  彼女はうなずいて言った。  本当に分かっているのかと問い正しかったが、彼女はもう一度その言葉を繰返した。 「そ、それなら、すぐにでもここから――」  耕平の訴えに彼女は問いで返した。 「逃げて、どうするの?」 「え」  予想外の質問だった。 「逃げて、私たち、どうなる?」 「それは……」  彼女の質問に耕平は咄嗟に答えられなかった。 「逃げても、同じ。これ以上ここに人はいない。仲間増えない。それより、もうすぐ仲間がやって来る。たくさん、たくさん、集まってくる。そしたら、向こう側に行く。そして、人間をたくさんたくさん、仲間にする。みんなわたしたちの、仲間にする」 「……」 「あなたも一緒に」  そう言って、彼女は耕平の背にそっとその金色混じりの手を回した。  耕平の重くて頑丈なだけの体に、同じような彼女の手の平が触れただけで、それはまるで違うようなものになった気がした。  涼やかな彼女の声が頭の中に響いて来た。以前に体験したzataの意志疎通法だった。  わたしたちはわたしたち   今はヒトとはちがうもの    かつてはヒトであったけど     それは今や夢のゆめ      それを認めて受け入れて       今はわたしはわたしたち  彼らのやり方がまだ自分にできたことに耕平はただただ驚いた。  では、自分の思っていることも彼女に伝えられるのだろうか。耕平は彼女をじっと見て、念を伝えようとした。  すると、彼女はそうじゃないと言うように、微笑んだような表情になり、耕平の目を手で覆った。  彼女の意図することを理解して、耕平は目を閉じた。そして、自分の思考に焦点を合わせた。         ヒトとはちがう。        それは認める。       もう人の社会には戻れない。      この群れで生きてゆく。     生きられる限り生きてゆく。  ジロリが両腕で耕平をぎゅっと抱擁した。  自分の意志が通じたと分かり、耕平は打ち震えた。  わたしたちは祝福の与え手   一噛みで兄弟姉妹を生み増やす    そして、彼らも仲間を増やす     世界は私たちで満ち満ちて      ヒトは世界からいなくなる       幸せな私たちで世界が満たされる  彼女の突飛な世界観にはいささか面食らった。それはzataの甘い夢で、丸い汚れのない理想だった。人とは相いれないものではあるが、耕平にはそれも悪くないように思えた。  それでも危険。ここは危ない。   仲間が来るまで待ってはいられない。    一旦、引き下がろう。     安全な場所まで避難しよう。    わたしたちは引かない   わたしたちは前に進む  進むための、今は一休み   ヒトにはなにもできはしない    わたしたちはヒトを打ち砕く  ヒトにやられたのを忘れたか。   僕たちは負けた。    僕たちは打ち負かされた。    あんなことは二度と御免だ。   誰もあんな目に合わせたくはない。  ギロリモ、カゲオも、   イチバンも、他の大勢の仲間も  だから、仲間が来るまで後ろに引こう。  私たちは引かない   引こう。    引かない      引こう。     逃げない    逃げるんじゃない。   逃げもしない。引きもしない  破滅だ。   チガウ    破滅するのはヒトたち     傲慢な者は滅び去る。     私たちは誠実に生きるだけ    結果がどうあっても?   結果は正しくやってくる  ………  甘い愛撫と茨のような意志の交換は、弛緩と緊張の複合な組み木細工のように耕平を一晩中、惑わせ、悩ませた。  そして、目が覚めた時、彼女は傍らにおらず、広場の中心で群れのメンバーたちに昨夜の決意を飛ばしていた。  仲間たちよ、集え    人たちに祝福を与えるために      仲間たちよ、奮え         我らの生を輝かせるために       進むときは間近     我らは祝福を持って挑む   たとえ、地獄の釜をひらこうと  我らはそれを越えてゆく  それを聞いて、耕平は陰鬱とした気持ちになった。  人間たちが対zata兵器を持っているのは間違いない。前回の封鎖線でそれは身を持って体感している。その後、追撃戦がなかったのは、おそらくは弾薬に限りがあったからだろう。だが、それに目途がついたから、今回の救助作戦があったのではないか。全面攻勢に移る前に人的被害をあらかじめ出ないようにするために。人間たちの兵器が何であるかは分からないが、ここは少なくとも彼らの目と鼻の先である。ここにとどまっているのが得策とはどうしても思えなかった。彼女が言うように、仲間が集まるにせよ、あと何日かかるか実際には分からない。どれだけ集まるのかも分からない。このままじりじりと危険が増すのをじっと見ていることは耕平にはできなかった。  彼らを守らなければ。  そう思い、耕平は再び群れを出た。  彼が足を向けたのは、また山だった。だが、今度は前と目的が違う。前は、群れから離れて一人で生きるつもりだったが、今度は、群れを生かすためだった。人間たちは熊本南部の平野部に封鎖線を敷いていたが、その封鎖線も山間部は同じ密度で固められてはいないはずだった。そこに穴を見つけ、zataの仲間達が一挙に、あるいは自分一人でも封鎖線の向こう側に出られれば、人間たちを混乱させることができるかもしれない。  山間部を数時間歩いて無人の集落に到達したが、その頃には既に日は暮れていた。  そこは遠目に見ただけで、封鎖線の一部であることが知れた。道路沿いにはセンサー類と思しきものが設置されており、時折、自衛隊の巡回車が通過し、空にはドローンが飛んでいった。暗がりに点滅する道路沿いのセンサー・ラインは何も隠すつもりがない、裸の防衛線のようにも思えた。  だが、山間部に大した戦力が配置されているとは思えなかった。どこかに拠点はあるのだろうが、その間隔は相当あるはずで、その間を突破することは難しくないように思えた。  耕平が集落を見ながら考え込んでいると、村から伸びている道路から一台の車がやって来た。  耕平は咄嗟に森の中に隠れた。だが、それは相手に見られたらしく、車は耕平の大分手前でライトをつけたまま停止し、中から何人かの男が下りて来た。  耕平は木々の間でじっと身構えた。このままやり過ごせればそれでよし。見つかっても、この山の中を逃げ切るのは難しくはないはずだった。  相手は自衛隊や警察の人間ではないようだった。一人を除いて、夏場にも関わらずコートを着込んでおり、その姿は傍目にも異様だった。 「すみませーん、この辺りにお住まいの方でしたら、少し状況をお聞きしたいんですが」  彼らの一人が森に向かってそう叫んだ。  耕平はもはや人間たちと接触する気はなかったし、協力する気など毛頭もなかった。  耳を澄ませば彼らの会話が聞こえて来た。 「見間違いでは?」 「誰かいたように見えたんだがな……」 「とにかくもう少し南下しよう。ここは封鎖線に近すぎる」 「そうだな」  そうして、彼らは諦めて再び車に乗りこみ、出発していった。  彼らが何のために封鎖線を破ってこちら側に来たかは謎だったが、耕平には彼らにかまっている暇はなかった。  耕平はこれからの案を考えた。あの集落を越えて北へ向かうのはどうか。木々を伝えばセンサー類に引っかからずに突破できるようにも思えた。では、突破してどうするか。おそらくこの近辺の人々は既に避難しているはずで、仲間にすべき人間はもっと北方に行かなければいないに違いなかった。それならばすぐに平地に降りて熊本を目指すべきだろうか。だが、耕平一人だと、敵の戦力を集中され、仲間を増やす前に終了となる可能性が高い。要するに、ここを突破するにしても、ある程度のまとまった数が必須のように思えた。  すぐにここに仲間を送ってもらえないものか。耕平はジロリに向かってテレパシーを飛ばそうとした。だが、今度は全くそれができなかった。また前の人間並みに戻ってしまった。何か理由があるのか、それを考えている時間も惜しかった。耕平は急いで一旦群れに戻ることにした。  そうして夜の山道を下っていくと、道の真ん中で熊と出会った。子熊ではなく、かなりの大きさだった。九州に熊がいるのかと少し驚いたが、出会ってしまったものは仕方がない。人間であったときの耕平ならパニクって、フリーズしていたかもしれないが、今の自分はそんなことをする必要がないことを本能的に知っていた。  だが、熊の方はそうではなかったらしい。  熊は両腕を大きく上げて耕平を威嚇してきた。体長は耕平を上回り優に三メートルはある。  耕平はどうするべきか判断に躊躇した。道でうるさいペット犬に吠えたてられたようなものだ。少なくとも、自分から道を譲ろうという気にはなれなかったので、そのまま突っ立っていたら、熊の方はそれを交戦の合図と取ったらしい。四つん這いになって耕平に向かって突進してきた。  さすがに野生の獣だけあってプレッシャーはそれなりのものだった。だが、あの弾幕の中の恐怖に比べればどうということはない。耕平は腰を下ろし、力士のように熊の突進を正面から見事に受け止めた。  そして、自分よりも大きな熊の巨体をごろりと横に転がした。童話の金太郎の一シーンを思い出し、自分で少しおかしくなった。  だが、熊は敵意をむき出しにしたままなおも立ち上がり、その爪を振り回す。耕平は五度ほどかわしたところで急に面倒くさくなった。  眼前の熊に対して敵意はなかったが、相手がそのつもりなら仕方がない。  相手のパンチをよけたところで、力を込めて拳を打ち込んだ。それは熊の巨体を貫き、そのまま袈裟懸けに内蔵をえぐってやった。  熊は苦悶の叫びを上げ、不思議な踊りを踊った後、地面に倒れ、そして息絶えた。  馬鹿な奴だ、とそう思った。力も耐久性もzataの比ではなかった。ここで殺し合う必要など微塵もなかったというのに。人間とzataとの関係とは微塵も違うというのに。こうなってしまったのは自分に非があるのだろうか。  耕平がため息をついてその場を立ち去ろうとしたとき、回りを囲まれていることに気が付いた。  前方には先ほど見た車が、そして道の両側には二人ずつコートを羽織った屈強そうな男たちが身構えていた。  車の前の痩せた男が小声で言った。 「作戦開始」  その言葉と同時に四人の男たちはコートを脱ぎ棄て、耕平に向かって突っ込んできた。  そのスピードに耕平は目を見張った。予想した速さよりもずっと早かった。耕平のzataの目で追えない速さではないが、ヒトの動きを越えていた。  耕平はあえて回避せず、彼らの攻撃を受けることにした。  そして、再び驚いた。彼らの拳は、耕平の左胸、右背、左わき腹、右腰骨に命中したが、それは明らかに人間の力ではなかった。  そこでようやく彼らの体が機械仕掛けのアシストを受けていることに気が付く。腰回りと肩甲骨あたりから手足に伸びている金属製フレームは、軍事用の強化外装に違いなかった。通常の何倍もの力が出せるという話だったが、それを身を持って受けるとは予想していなかった。  だが、それでも耕平をひるませるには至らなかった。正直、単純な力としても先の熊よりも劣る。  耕平がぶんと軽く腕を振り回すと、彼らはそれを見事にかわし、素早く後ろにステップバックした。  相手は四人。明らかに耕平を敵と認識して攻撃してきた。手加減をする理由は何もなかった。一人ずつ動きをとめて、首筋にかぶりつく。それで終わりだ。  そう考えたが、耕平はそのプランをすぐに思いなおした。その前にできることはやっておくべきだった。 「その程度で勝てると思うな。引けば見逃してやる」  自分の言葉にどれほどの力があるか過信しているわけではなかった。ただ力をふるう前に、もう一度自分を納得させたかっただけだった。少なくとも、そう宣告しておけば後で後悔することもない。  しかし、耕平の言葉は、彼自身が思った以上に相手を動揺させていた。 「おい、しゃべったぞ」 「zataってしゃべるのか」 「マジかよ」 「聞いてねえぞ」  そして、四人ともが車の前の痩せ男の顔色を窺った。あの命令を発した男だ。  すると、男が一歩前に出てきた。 「先ほどあなたが倒した熊。あれはzata鬼化症候群を発症していませんでした。九州南部における動物や家畜にしても、発症したものは見つかっていません。なぜヒトだけがzataとなるのか? 不思議だとは思いませんか」  耕平は相手の意味不明な言葉にイラついた。 「それがどうした。未知の奇病の感染ルートが見つかりにくいのはよくある話だ」  男はにやりとした後、首を横に振った。 「失礼、そういう話ではありません。人をzataにするのはzataだけ。限られた手段を持つものは希少価値を持つということを言いたかっただけです。言葉を解すzataとあればなおさらです」  耕平は拳に力を込めた。こいつは殺そう、そう思った。  だが、彼の次の言葉を聞いてその意志は白紙に戻った。 「神よ、我らをお救い下さい」  そう言って、男は耕平に向かって膝まずいたのだった。    17  規則正しい振動に時折、横揺れがかぶってくる。薄暗いコンテナに強化外装をつけた男二人と一緒というあまりうれしくない海の旅に出て、既に三時間が立っていた。  沈黙に耐えかねたのか、向かいに座る男が耕平になれなれしく話しかけてきた。 「あんた、あれでよくついて来る気になったよな。まあ、俺たちとしちゃ、手間がかからず助かったがな」  もう一人の男がやめろと目くばせしているのが耕平には分かったが、男は軽口をやめなかった。 「あんた、そんなに人間の血が吸いたいのかい? おっと、俺たちの血を吸おうったって無駄だぜ。ちゃんとzata忌避薬を飲んでるからな。あんたは俺たちに顔を近づけられないだろ。どんな流行病だろうが、突然変異だろうが、科学の力の前では無力なのさ。封鎖線より向こうのzataが一網打尽になるのも時間の問題――」  耕平はおもむろに立ち上がった。彼らと今一緒にいるのは捕まったからではない。あくまで耕平が自主的について来たのだ。それを目の前の男は勘違いしているらしく、一方的に不快な言葉を垂れ流されるのは面白くなかった。  耕平は男の前にゆっくりと歩みよった。 「て、てめえ、何だ、やろうっていうのか」  そう言って、つられて中腰になろうと駆動する男の強化外装を耕平が肩のところで押さえつけると、フレームは簡単にひしゃげ、男は顔を苦悶にしかめた。  耕平は言い聞かせるように男に話す。 「俺はホモじゃないが、男の顔に顔を近づけることも躊躇はしない」  そして、怯える男の眼前で口を大きく開いて見せたとき、もう一人の男が叫んだ。 「待て、待ってくれ! すまねえ。こいつの口が悪かったことは俺が頭を下げる。頼む。ここはこらえてくれ!」  もとより、相手を脅かすための芝居であり、本気であったわけではない。なぜ彼らが忌避薬を持っているのかは不明だったが、それは万里香のものと同様、耕平にしてみれば意志の力でどうとでもなる程度のものだった。  だが、あの屋上で彼女の忌避薬は効果を発揮しているように見えた。耕平には効果がなくとも他のzata達には有効だったのだ。自分の発言が忌避薬と彼女の運命をゆがめたのだとしたら申し訳のない気がした。だが、それも今となってはどうでもいいことだった。  耕平はすぐさま男から手を離し、再び腰を下ろした。  負傷した男が治療のためコンテナから出ていって、先の男と耕平は二人きりになった。 「代わりは来ないのか?」 「さて、だが、あんたが本気になれば俺たちが何人いても同じことだろ。俺たちは単なる付け合わせみたいなもんだ」 「……」 「なあ、気を悪くしないで聞いてほしいんだが、俺もあんたの内心には興味がある。どうしてこの話に乗ったんだ?」  男は興味本位ながら真正面から質問をぶつけてくる。 「いや、まあ、話したくなければそれでもいいんだが。あの榊原って奴もよく分からんからな。〈zataの会〉とか、自分からzataになりたいなんて、何考えてるんだか」 「あんたは奴の仲間じゃないのか?」  男は肩をすくめた。 「俺たち四人は臨時で雇われただけさ。ご本尊を調達する仕事ってことでな。これでもあんたをもてなすために、テーザー銃やら麻酔銃やらどっさり用意してたんだぜ」  耕平がじろりとにらむと男は両手をぱたぱたと振って見せた。 「いやいや、あんたがあそこでうんと言ってくれて助かったよ、マジな話。俺ら四人がかりでも、あんたの捕獲は、まあ、無理だったろうからな」  男の予想は耕平から見ても妥当に思えた。 「その〈zataの会〉、というのは?」 「ああ、そりゃ、知らねえか。つい最近有名になってきた団体だ。有名って言っても変な意味でだけどな。そりゃそうだろ。会員はみんな、zataになりたいっていう連中ばかりなんだぜ。政府が封鎖線で人の出入りを厳重に監視してるから向こう側には行けないが、そうでなきゃ、大挙してzata詣でしてお仲間になりたいなんて公言してるんだからな。で、ついにはご本尊の輸入ってわけだ。笑えるだろ」 「zataになりたい……」  そういった人間がいることに耕平は不思議な感情を覚えた。 「ああ。ところで、その、他のzataの連中ってのは、みなあんたみたいに言葉がしゃべれるのか? それに、人間の時の記憶が残ってるのかい? ニュースじゃそんなこと一言も言ってなかったんだが」  耕平は小さくため息をついた。 「いや、ほとんどの連中は言葉をしゃべれない。意識はあるが、ヒトの頃と同じ、とは言えないだろうな」  彼らの意思疎通の方法についてはあえて話さなかった。 「なるほどな、あんたはやっぱり特別ってわけだ」 「だが、仲間だ」 「仲間?」 「ああ。俺はzataだ。もう人じゃない。だから、zataのために動く。〈zataの会〉の連中がzataになりたいっていうならそうしてやるさ。本土でzataが大量発生すれば、九州から目がそれる。仲間が生き延びる可能性が高まるだろう」 「なるほど……」  男の同意に耕平は何か落胆めいたものを感じた。 「何がだ?」 「え……いや、ひょっとしたら、あんたは人間側につくのかなって気もしてたんでな」  男のその言葉に耕平は意表をつかれた。 「俺が?」 「だって、言葉もしゃべれる。理性もあって、俺たちと駆け引きをしてる。人間のやりようだ」  耕平は相手の言葉を鼻で笑った。 「……それはあんたが、俺たちが人を襲うところを見ていないから言えることだな」  男はいきなり声を強くして言った。 「あんた、分かってるのか? zataを助けるってことは、人間を滅ぼすってことだぜ。本当にそれでいいのか。いや、逆に自衛隊の反撃であんたたちが滅ぼされるかもしれないってのに、あんた、人間に戻りたいとは思わないのか?」  確かに治療薬ができて、zataから人間に戻れる可能性を否定することはできない。だが、その可能性は耕平にとって今さら何の魅力もなかった。 「……なるようになればいいさ」  耕平の投げやりな言葉に男はため息をついた。 「そうだな。俺が言うことじゃないやな。俺は今回大金が手に入ればどうでもいいさ。外国に高跳びして、しばらくは高みの見物だ……ちなみに空気感染とか接触感染とかってあるのか?」  耕平は苦笑してそれに答えた。 「さあ、今のところ見たことないが」 「そ、そうか、変なこと聞いて悪かったな」 「気にするな」  船は三時間後、陸に到着し、耕平はコンテナに入れられたまま陸路で移動させられた。  高速トラックでさらに二時間。ようやくコンテナは移動をやめた。男に千葉の山中だと告げられた。  ここに来て、いささか耕平は不安になった。よくよく考えれば、男が言っていたようなことが本当にあるのだろうか。〈zataの会〉、zataになりたい人間たちの集まり。普通に考えれば、zataを捕獲して国に売り渡そうとしているのではないか。そうでなくても、zataを欲しがる民間や外国の組織などいくらでもあるはずだ。自分はただだまされただけではないのか。自ら進んでモルモットになる契約を交わしてしまったのではないか。そんな恐怖感が沸いて来た。  それならば今からでも逃げ出し、自分一人ででも関東でzataパニックを起こすべきではないのか。考えれば考えるほど、どうすべきか分からなくなった。  そうこうしているうちにトラックの扉が開き、外からまぶしい太陽の光が差し込んだ。  光の中に、あの護衛たちに囲まれた榊原が立っていた。護衛たちは今度は皆、小銃を手にしている。 「長旅ごくろうさま。到着です」  耕平に丁寧にそう言った榊原の後ろには、山中としては不釣り合いな大きなホールが建っていた。 「ホテルの一部でしてね、本日は借り切っていますから、ご心配なく」  榊原はそう言って微笑んで見せた。  耕平はひとまず脱走案を保留して、もう少し様子を見ることにした。  それから、耕平はホテル一階の応接室らしき部屋に通された。そこには〈zataの会〉、の事務の者だという老人と若い女性が待っていた。  二人とも耕平を見て、一瞬驚きを隠さなかったが、すぐに元の表情に戻った。  黒いスーツを隙なく着込んだ女の方が榊原に報告する。 「会員の方は既に二階ホールにお集まりです」 「人数は?」 「二百八十六人です」  榊原は小さくため息をついた。 「思ったより少ないね」  女は素直に頭を下げた。 「申し訳ありません。榊原さんが出た後、政府の最終攻撃作戦が発表されて、それから伸びなくなりまして……」  女性をかばうかのように老人が会話に割り込んだ。 「ですけど、預託額は百七十億を越えています。これは想定以上の――」  老人の言葉を榊原は不機嫌そうな顔で止め、もう一度女の方に尋ねた。 「スピーチの開始は午後二時だったね?」  女が「はい」とうなずくと、榊原は「五分押しだな」とつぶやいた。  それから榊原は耕平に向き直って言った。 「今から私は、上で一つ演説をぶってきます。三百人近くのzata志願者の前でね。この部屋でも聞こえるようにつないでいます。それが終われば、あなたをそこにご案内します。あとは、あなたの自由です。好きなだけ貪り食っていただきたい」  その直接的な表現に部屋の空気が一瞬しんとなった。  耕平は尋ねた。 「それには、あなたたちも含まれているんですか?」  女性と老人の顔に恐怖が一瞬浮かんだのを耕平は見逃さなかった。  だが、榊原は落ち着き払っていた。 「二百八十六人、その人数に私とこの二人は幸か不幸か入っていません。ご不満ですか?」  耕平は彼から顔を背けた。大方の話は理解できた。彼は会員から金を巻き上げるだけの新興宗教の教祖と何もかわらないのだ。つまり、耕平が決して好きになれない人種だった。そしてさらに滑稽なのは、彼らが耕平を使って会員たちに与えようとしているのは、おそらく、会員たちが本当に望むものなのだろうということだった。それならそれで良い。耕平にはそのことがもたらす結果の方が大事だった。仲間を増やして、関東でパニックを起こし、九州の仲間を助ける。それができるなら、他のことはどうでもよかった。 「さっさとスピーチとやらを済ませてこい」  耕平はかすれた声で言った。  榊原は相変わらずの笑顔で答えた。 「かしこまりました。登場の時は威厳に満ちたふるまいをお願いしますよ。彼らにとっても一生に一度のことですからね」  そう言って、彼は女を連れて部屋を出た。  部屋に残された耕平は初老の男が注視するなか、無言でソファに腰を下ろした。  ソファは大きく軋んだが、それなりの高級品らしくソファの足が折れたりはしなかった。  老人が部屋の隅の機器をいじると、スピーカーから低い音が聞こえた。 「これで放送が聞こえます。しばらくお待ちを」  耕平は相手をじっと観察した。男は榊原に比べるとずっと普通だった。どこにでもいる善良そうな老人というところだろうか。多少陰気そうなところはあるが、耕平を前に緊張しているだけかもしれない。もっとも、あの榊原の仲間であることからして、善良であるはずがないことも確かだった。  自分の金銭欲のために、同じ人間である仲間を売るのだ。例え、仲間自身がそれを望んでいたとしても、その行いは耕平には醜悪にしか思えなかった。 「あんたはなぜ金がいるんだ?」  耕平はストレートにそう尋ねてみた。  男は少し驚いたような表情をして、それから柔らかい顔に戻って言った。 「人さまにお聞かせするような話ではございませんよ」  まるでどこかの坊主のような口ぶりだった。  耕平もそれほど知りたかったわけでもないので話題を変えた。 「じゃあ、このあとはどうする? 日本はzataであふれかえる。人間たちの居場所はなくなるだろう。あんたも、俺たちの仲間になった方がいいんじゃないか?」  男はしばらく考えて言った。 「確かにそれもひとつの手ですな。ですが、聞くところによると、あなたのように言葉を解すzataはほとんどいないとか。獣のようなものの仲間入りをするのは遠慮したいですなあ」  男の何の変哲もないその態度に耕平は興味をなくした。  その時、部屋のスピーカーがハウリングを起こした。榊原の演説が始まったのだ。 《『zataの会』の会員の皆様、本日はこのような辺鄙な山奥まで、誠にご足労でございました。ですが、本日は皆さまの宿願が叶う日となることを、私は喜びをもってここにご報告したいと思います》  スピーカーの向こうから人々のざわめきが入った。  榊原の声が再び続いた。 《七月二日、あれからまだ一ヶ月もたってはおりませんが、あの日のことを誰もが痛烈な記憶とともに思い出すことができるはずです。あの日、『彼ら』が地上に降り立った日、我々人間は、世にも醜悪な姿をさらすことを強いられました。あの日、『彼ら』が人間を殺した数よりも、人間が人間を殺したとされる数の方がはるかに多かったことを私はどうしても忘れることができません。人間は、理性的で合理的な存在だと信じてられてきました。ですがあの日、人間は自分が生き残るために、他人を弑することに何のためらいも見せなかったのです。相手はただの流行病であったかもしれないのに、しかも彼ら自身の意志でなかったにもかかわらずです。そんな彼らが少しばかり自らのルールの枠を外れたぐらいで、我らはその相手の存在を認めないことにしたのです。そこには、助け合いの心も、慈悲の心もかけらも見出せませんでした》  榊原の心にもない言葉が耕平の心を苛立たせた。  椅子の軋みに気づいたのか、老人が声をかけてきた。 「現在の情勢はご存知ですか?」 「情勢?」  耕平は声に棘をつけて訊き返した。 「政府は九州でのzata鬼化症候群患者の殲滅戦を宣言しています。正確な日にちは発表されていませんが、もうすぐでしょう。三日前には米国が日本に対して一ヶ月の完全鎖国を宣言しています。日本から渡航者だけでなく、モノを含めた流入を完全に拒否するそうです。おまけに、他国政府にも同調を求め、韓国と中国とロシアがそれに倣うとか。今後さらに増えると言われてます」  しばらく隔絶していた現実社会の動きを知らされたが、耕平は驚きはしなかった。むしろ驚かない自分に驚いた。自分が人の社会に見切りをつけていたことを耕平は改めて実感した。 「あんたはどうする気だ。国外に脱出するつもりなんじゃないのか? 日本から脱出する人間を受け入れてくれる国なんてあるのか?」 「それは榊原さんにお任せしています」  男は随分と彼を信用しているようだった。  そして、彼は部屋の扉を開けて、耕平に言った。 「さて、そろそろ参りましょう」  部屋の外へ出ると、ひっそりとした館内に榊原の演説が不気味に流れていた。まるで不思議な廃墟にいるようだった。  耕平は男に連れられ階段を上った。 《――ですが、私はその場にいた彼らを責めるものではありません。私とて『彼ら』と同じなのでしょう。変わらぬただの普通の人間なのです。私はただ自分の本性に失望したのです。人間に理性も、合理性も見出すことができないならば、『彼ら』と何の違いがあるというのでしょう。ただひたすらに我らを目指す『彼ら』の方がよほど生命として芯が通っているようにみえ、それは失望した私の心を深くひきつけます。皆さんも理由はそれぞれあることでしょう。人を捨て、『彼ら』とともにあることを選ぶ理由が》  耕平は彼の演説を聞いて胸が苦しくなった。こんな男の言っていることに深くうなずいてしまう自分が嫌だった。それ以上に、彼が薄っぺらな論理で、彼の内心に踏み込んでくることが許せなかった。 《その理由が何であれ、私たちは今日このとき、この場所において同じ決断をするためにこの場に集まりました。自らの生き方を見つけ、それを選び取ることができるのは、人生最大の奇跡と言えましょう。私たちは、これまでの古い人生に見切りをつけ、新たな輝かしい生き方を今日つかみ取るのです》  男は〈煌めきの間〉と書かれたプレートのある両開きの扉の前に立ち、耕平のために扉を開き、どうぞと耳打ちした 《私たちは、人よりも『彼ら』を選ぶことをここにつつましくも宣言します。では、ここに紹介しましょう。我々の希望の星、最後のきらめき、zata・オメガ!》  壇上に上がると、人々の声にならない嗚咽とともに熱い視線が耕平をとらえた。  榊原はマイクを一旦おいて、耕平に小声でささやきかけた。 「さあ、どうぞ」  それが我慢の限界だった。彼の言葉と同時に、耕平は榊原めがけ飛びかかり、右腕を振り回した。  だが、瞬間、目の前を小さな弾丸がかすめ、その思わぬ事態に耕平の右腕は宙を空振りした。  壇上で無様に尻もちをついた榊原は、それでもすぐさま舞台の反対側へ駆け出していた。彼を迎えるように舞台袖では女が銃を構えたまま耕平をにらみつけていた。  その光景を見せつけられ、会場はどよめいた。  耕平は一瞬、榊原を追ってぶちのめすべきかどうか迷ったが、会場を見て冷静さを取り戻した。やるべきことは最初から決まっていた。  耕平は壇上の中央に立つと、会場の二百八十六人に向かって、ありったけの空気を使い雄叫びを上げた。言葉など不要。彼らはzataの洗礼をただ浴びればいいのだ。  耕平は壇上から彼らの元に飛び降りた。  会員たちは皆、ホールに並べられたパイプ椅子に腰かけていた。多くの人が両手を前で組み、何かに祈るようにして目を閉じていた。  耕平は敢えて大きな足音を立て、数珠を持って合掌している白髪の初老の女性の前で立ち止まった。邪魔な隣のイスを片手で大きく放り投げる。遠くで大きな音がして、彼女の体が一度大きく震えたが、そのあとはずっと小刻みに震え続けていた。  一体彼女はどうしてzataになろうと思ったのだろう。老いか家族の問題か、それともこの社会が嫌になったのか。だが、耕平には分かるはずもない。  耕平はそれ以上の思考を放棄し、zataとしての本能にしたがった。  ざくりと自らの牙が相手の老いた筋肉に食い込むのが分かった。人に牙を立てるのはどれだけぶりだろう。長い時間のようでほんの一瞬のことだったようにも思える。牙からは耕平の中の体液が相手の肉体に滲出し、体の自由を奪う。人という存在としての自由を奪う。彼らは自らそれを放り出したのだから、耕平には何のためらいも、罪悪感もない。  彼女はのどをつまらせたように短くうめいた後、ばたりと前のめりに倒れた。  後ろでそれを目の当たりにした中年の男がパニックに陥ったようにあわあわと立ち上がった。どこへ行こうというのだ。耕平は手を伸ばし、彼を捕まえると、無理やり床に組み伏せた。パイプいすの列が崩れ、回りで声が上がる。だが、気にする必要はない。  耕平は押さえつけた男に対し、同じように首筋に牙を突き立てた。男は絶叫を上げて抵抗したが、それもほんの一瞬ですぐに気を失った。  ほとんどの者はその場で念仏を一心に唱えるようにして耐え続けていた。だが、ところどころからは内にとどめ置けない不安と恐怖が奇声となって漏れ出ていた。  滑稽だ、と耕平は思った。嫌ならば逃げればいい。怖いならば拒絶すればいい。逃げようとする自由までは奪われていないのだから。もっとも、逃げられるかどうかは分からないが。否、耕平はここにいる誰一人として逃がすつもりはなかった。  一人、二人、三人、四人、五人、次から次へと大食い選手権で力戦する選手のように耕平は人々に牙を立ててゆく。  満腹感は生まれなかった。その代わり、何かを成し遂げているという高揚感が高まって行く。仲間を増やしている、ということなのだろう。おそらくzataに生殖はない。これがzataの仲間を増やす本来の方法なのだ。  さあ、次だ、次も、次を。zataの洗礼を与えるのだ。耕平は恍惚の本能に突き動かされながら牙を立て続けていく。  どれだけの時間がたっただろう。  会場にいる人間はすべて倒れ伏していた。多くの者は痙攣をおこし、水揚げされた魚のような状態だった。zataとして、再び立ち上がって来るものは今のところ誰もいなかった。  他の仲間のそれを見ていたところから、zata化には時間がかかることは知っていた。早いもので三十分、遅ければ何時間もかかるものもいる。耕平は仲間の誕生を待たねばならなかった。  立ち上がり、ホールの中を見渡した。動く者は自分以外誰もいない。誰も立ちあがらなかったらどうすればいいのだろう。これだけやって仲間ができなければどうすればいいのだろうか。  耕平は弱気になる自分を嫌い、もう一つの気がかりに思考を向けた。榊原たちの行方であった。彼らはもう逃げてしまっただろうか。  扉を開けようと取っ手に手を掛けたが、鍵がかかっていた。だが、少し力を入れると簡単に鍵は壊れ、扉は外への空間を開いた。  建物の中に警護をしていた男たちの姿はなかった。きっともう退避してしまったのだろう。それならば榊原たちは言うまでもない。  ふと二階のガラス張の壁に目をやると、建物前の空き地にヘリコプターが停まっていた。ひょっとしてまだ榊原がいるのだろうか。そう思い、耕平は急いで外へ向かった。  外へ出るとヘリコプターはローターを全力回転させちょうど飛び立つところだった。  耕平が見上げると、ヘリの窓からにやついた榊原の顔が見えた。 「少し遅かったな。俺からのプレゼントは堪能してくれたか。あとはお仲間でよろしくやってくれ!」  そう言い捨て、ヘリはどんどん空中へ上ってゆく。  耕平は怒りで腹の中が煮えくり返りそうだった。あの男をzataの中に放り出したい、そんな衝動に襲われた。  耕平は周りを見て、近くに金属製のポールが立っているのを見つけた。本来なら旗を掲げたりするものだが、耕平の使い道は当然違う。  ポールを力任せに引っこ抜くと、思ったより長くバランスがとりづらかった。何とかやり投げのように構え、空中のヘリに狙いを定める。そして、シュート。  放たれたそれは金属製の槍となって、ヘリの後部を貫いた。バランスを失ったヘリは空中でおかしな動きをすると、ずるずると墜落していった。  それを見て、耕平は一人ほくそ笑んだ。    18  何か焦げたにおいがする。目がかすんでよく見えない。榊原は自らの不調を感じ、何が起こったのか必死に記憶を探った。  そうだ。それはすぐに思い出された。いきなりヘリを襲った衝撃。あのzataが何かを投げつけて来たらしい。あの距離を命中させるとは全くとんでもない化け物だ。 「寒川さん、どこです、どこにいるんです?」  声をかけたが、返事はない。 「祐美、いないのか?」  目が見えないまま手探りで辺りを探すが、二人は見つけられなかった。  斜めに傾いたシートから仕方なく立ち上がると、近くで声が聞こえた。 「榊原さん、大丈夫ですか?」  寒川の声だった。 「寒川さん、一体どうなっているんですか?」 「どうもこうも、見た通りの有様ですよ」  彼の言葉に思わず苛立ちを覚える。 「いや、目が良く見えないんだ。ヘリは墜落したのか?」 「……ええ、それはもう」 「祐美はどうした?」 「祐美さんは……そう、後席で気を失っているだけみたいですよ。ヘリの操縦士の方は、残念ですが……」 「そうか……」  このまま成田まで行って、ベトナムへ逃げるつもりだったのが、あのzataのおかげでとんだトラブルだった。お互い納得ずくでのことだったはずなのに、何が不満なのだ。やはりzataは理性をなくした畜生なのだ。  内心でそう悪態をつきながら、榊原は重要なことを思い出した。 「寒川さん、ケースはどうした? 無事か?」 「もちろん、大丈夫ですよ」  それを聞いて境原は安堵した。ケースには会員から委託された財産の書類一式が詰め込まれている。これをもって海外で一旗揚げてやるつもりだった。 「予定が狂った。寒川さん、急いで車をみつけてきてくれないか。成田の便、時間がない」 「いやいや、病院が先でしょう。その目で海外へ行かれるつもりですか」 「それはそうだが……」  寒川の提案を受け入れるべきかどうか考えながら、結局、首を振る。 「いや、とにかく車だ。ここにいるといろいろやっかいなことになる。急いでくれ」 「そうですか、分かりました」  彼を送り出すと、後ろの祐美のことが気になった。遠坂祐美はある大企業の秘書をしていた女だった。ちょっとしたきっかけで榊原と男女の関係になり、榊原がzataの会を立ち上げると、勤めている会社を辞めて、榊原の手伝いをすると言って来た。正直何を考えているかよく分からないところがあったが、それでもルックスはなかなかのものでこれまで傍に置いておくのに不満はなかった。  幸いなことに、しだいに視界は晴れてきた。墜落のショックによる一時的なものだったのだろう。榊原は視力が戻ったことに安堵した。  そして、同時に息をのんだ。  後席に座っていた祐美の足は短い黒のスカートのすぐ下のところで榊原の座っている前席に完全に挟まれて真っ赤に染まっていた。出血量からして彼女の命は時間の問題だった。 「祐美、大丈夫か、祐美」  恐ろしくて彼女の体に触れることさえできず、榊原は大声で彼女の名を呼んだ。  すると、彼女はゆっくりと目を開いた。 「達也さん……」 「おまえ、大丈夫なのか」  榊原の視線を追って、祐美は自分の下半身に視線を落とした。  彼女は一瞬目を大きく見開き、驚愕の表情を見せたが、それで泣き叫んだりはしなかった。そして、静かに言った。 「救急車、呼んで下さい」  榊原は咄嗟にそんなことも思いつかなかった自分を恥じた。そしてまた、彼女を救急車に引き渡した後のことを考えた。 「ねえ、達也さん……救急車はもう呼んでくれたの?」  そして、答えを出した。 「すまない、祐美。ここまでだ」 「え」 「その足じゃ、おまえは連れて行けない。かといって救急車を呼んでおまえにつきあっている時間はないし、おまえに俺たちの計画のことをばらされるのも困る」 「そんな、わたし……」 「本当に残念だ。だが、君なら仕方がないこと、分かるだろう」 「そんな、冗談でしょ、達也……」 「本当にすまないと思ってる。だが、聞き分けてくれ。君は理性ある人間なんだから」  榊原は懐のホルスターから銃を抜いて、彼女に向けた。  祐美は無言でいやいやという風に首を横に振った。 「さよなら」  銃声が辺りにこだました。  祐美は額の弾痕から命の息吹が抜け去ってしまったようにぴくりとも動かなかった。彼女は死んだのだ。人を殺したのは初めての経験だった。官僚のままでいれば決してしなかった体験のはずだ。榊原は運命のいたずらに苦笑いをして封をすることにした。  その時、背後で音がした。  寒川が戻って来たのだと思った。彼なら今の光景を見られても問題ない。 「遅かったな。いいニュースと悪いニュースがある。取り分は増えた。なぜなら、彼女は死んだからだ」  そう話しかけた相手が、自分が予想した相手と違ったことに榊原は愕然とした。  目の前に立っていたのは、あの漆黒の獣だった。 「お、おまえ、どうして……」 「どうしても何も、あんな槍一本でおしまいになると思っ――」  そう言い終わらぬうちに、榊原は手の中の拳銃を、目の前のzataに対し、全弾打ち込んだ。  全弾命中。ブラボー、ブラボー。  だが、相手は蚊に刺されたほども気にしていない。 「まて、まて、人間に戻りたくないのか、俺は米軍にも伝手がある。zataウイルスは米軍の――」  問題ない。言葉を理解する存在には必ず論理が通用するはずだ。この見た目が異形の化け物もそうに違いないのだ。人に戻す確約をしてやり、あとはそれなりの金を渡してやれば無用な争いは避けられるはずなのだ。  だが、彼は止まらなかった。zataの祝福すら授けようとしなかった。榊原の体は幾重にも引き裂かれ、無造作に森の中にぶちまけられた。  耕平は自己嫌悪の塊になって先の建物へと歩いていた。  何もあんなにする必要はなかった。噛みついて、運命を天にまかせてやればよかったのだ。それがどうだ。獣のようにあんなことをするなんて。それともzataとして、力のある生き物として、感情にしたがっただけなのだと肯定すべきなのだろうか。耕平はすぐさま答えが出せなかった。  そして、再びあの建物に戻って来た。森の中に開けた広大な土地と清潔な建物。  出迎えは一人もいなかった。あれから一時間はたっているはずだった。それなのに耕平はいまだ一人きりだった。  耕平はうなだれた。わざわざこんなところまで何をしにきたのか。道化にでもなったような気分とはまさしくこういうことをいうのだろうかと笑い出したくなった。  何もかもがうまくいかない。思った通りには全然いかないのだ。自分は生きることと相性が悪いのだろうか、そう思った。  その時、建物からふらふらと出てくる者があった。一人、二人…… それは次第に数が増えてきて、耕平の前に集ってきた。  体が震えるのを耕平は感じた。  それは間違いなく耕平の仲間だった。  しばらくして、二百人を超えるzataがそこに集っていた。  耕平は新たな仲間とともに咆哮を上げた。  自分には何かができる。さっきとは打って変わりそんな自信があった。であれば、やることを実行するのみ。ここから南の仲間を助けるための行軍を開始するのだ。    19  ジロリは心行くまま熊本の街を仲間と共に蹂躙していた。もはや自衛隊や警察の抵抗に組織だったものはなく、zataの巨大な群れを押しとどめるものは何もなかった。  あの封鎖線を前に何日も焦れていたのが嘘のようだった。サカグチ・コウヘイがジロリの元を発った二日後、南から十万を越える仲間たちがようやく到着した。ジロリは五百の仲間に島原湾を泳がせ、封鎖線のすぐ後方に上陸させ熊本市内を混乱させた。あとは簡単だった。浮足立った封鎖線に数の暴力をもって突撃し、それを容易に噛み砕く。幸運にも前回煮え湯を飲まされた特殊弾頭はほとんど使用されず、仲間に大した損害は生まれなかった。  今や彼女を阻むものはない。この世界は彼女の意のままだった。  ジロリは自分の前方で逃げ惑う人々の首元に接吻を与えることを繰り返し続けながら前進した。多くの人間を仲間にする。仲間を増やせ。増やせ。増やせ。可能な限り多く。それが今の彼女を突き動かす根本原理であり、それを何のストレスもなく実行できることはひたすら快感であった。  例え、それが人間としての倫理から遠く離れたものであっても、後悔はしていない。今や残り少なくなった理性で彼女はそう考える。最後の最後まで悩んだが、やはりあのDYウイルス薬を自分に接種したのは正解だった。  数ある職業の中から米国の工作員を選び取ったのは自分の意志だった。だが、その世界は彼女にとって過酷すぎた。世界の裏側の暗い沼に足を取られ、八年間必死になって這い回り続けた。いつの間にか敵ばかり増え、職を離れればその後の命は保証されないような状況だった。彼女の神経は限界に達しようとしていた。  そんな時に与えられたミッションがこれだった。日本に潜入し、アート・フロートに乗り込む技術者サカグチ・コウヘイに接触し、ある薬を接種せよと。その薬はヒトをいわゆるゾンビに変化させるもので、これは米国のPGC(地球寒冷化対策計画)の一環である。また、サカグチ・コウヘイは極秘裏に採取されたDNAのチェックでDYウイルスに適合性が高いと判断されたサンプルの一人である、と。いつも通りの合衆国憲法を清々しいまでに無視した不正規命令だった。  具体的には、彼に鹿児島で接触し、一夜をともにし、彼に薬を接種したあと、急ぎフクオカに戻り、マニラへ飛ぶ手筈になっていた。慌ただしいが、それほど困難なミッションではないはずだった。  だが、肝心の接種の際に問題が起こった。眠っていたはずの彼が無意識に抵抗したため、接種中のウイルス薬をこぼしてしまったのだ。結果、彼に接種できたウイルス薬は規定の三分の二ほど。そうした場合は予備の薬を使うようマニュアルには書かれていたが、彼女はそうしなかった。ある目的のために。  人がゾンビになる。命令を受けた時、彼女は半信半疑だった。いくら国の命令とはいえ、そんな非人道的なことをやっても良いのだろうか。過去に行って来た自分の非人道的行為の数々とそれを比べてみて、彼女は実行までの数日間それについて悩み続けた。だが、結果は最初から決まっていた。どうせこの道から抜けることはできないのだ。それならば、行きつくところまでやって、そして――  そして、彼女は念願を叶えた。  外見はひどいものだったが、これまでも工作員として様々に外見を偽ってきたのだからそれは大した問題ではなかった。それよりも、体の奥から湧いてくる万能感。それを証明する人間離れした怪力、そして運動能力、知覚能力も人の比ではない。地獄から這い出して来た異世界の住人としてそれはふさわしいものに思えた。それに、懸念していた知能の低下は思ったほどでもなかった。  それでも疑問はあった。なぜ国がこんなものをPGCの一つとして採用しているのか。ゾンビは寒さに強いということなのか。だが、いくら寒冷化に耐えきれると言っても、知性が極端に低下するゾンビでは今の文明は維持できない。果たしてそんな案が採用されるものだろうか。  そんな疑問もゾンビとして何度もヒトに牙を立てるうちに忘れ去ってしまった。衝動の赴くまま行動すればよい。そう思うようになった。もはや人間に未練はないのだ。彼女はゾンビになり切ろうとした。  人としての理性がふと蘇ったのは、あるゾンビが彼女のいる群れにやって来た時だった。彼女にはそれが誰だかすぐに分かった。サカグチ・コウヘイ。彼女の手によりおそらく日本で最初に生まれたゾンビだった。  だが、群れにやって来た彼について、しばらくして分かったことがあった。彼はゾンビとしての能力の一部がかなり低かった。その分、人としての理性と知能を大幅に保っていた。つまり、彼はゾンビとして欠陥品だった。  なぜそんなことになったのか。決まっている。あの時、彼女が予備のウイルス薬を使わなかったせいだ。彼女は彼に対して哀れみと罪悪感を持った。それは、ゾンビとして成功した自分の満足感に対する裏返しでもあった。この二つの感情は今なお彼女の中から消えていなかった。  そして、熊本を制圧した直後、はるか離れた地で仲間がまとまって生まれたことが自然と分かった。なぜそんなところにという疑問はあったが、その中心にあのサカグチ・コウヘイがいたことにさらに驚いた。状況から考えて、彼が大勢の仲間を生み出したことに疑う余地はなかった。  彼女は思った。群れの当面の目標は福岡だったが、その後は本州へ渡り、彼のもとへ行こう。もう一度彼に会って、彼のゾンビとしての成功を祝福したい。そう強く思った。  そう決めた彼女は二十万に膨れ上がったゾンビの巨大な群れの先陣三万を自ら従え、北に向かって走り出したのだった。    20  元の人間に年輩者が多かったせいであろうか。耕平の前に集まったzataたちはおっとりとした動きの者が多かった。活力という点では九州の群れに明らかに劣っているように見えた。だが、このままにしておけば、彼らは散り散りバラバラになってしまうだろう。感染爆発の先駆けとしてじわじわとzata患者を増やしていく、そういう意味では悪くなない。だが、やはりそれでは困る。zataとしてはそれでもいいのかもしれないが、耕平の目的とは違う。  耕平は群れのリーダーとして、二百人の仲間たちに方針を示さねばならなかった。九州にいる彼女を助けることが何よりも優先だった。そのためにはまず数が大事である。だから、この二百人を少しでも多くこの千葉の山奥から東京まで連れて行き、そこで一気に仲間を増やすつもりだった。  だからまずは東京。そのことを仲間たちに大声で訴えた。  だが、案の定、伝わっているかどうかはさっぱりだった。頭の中で念じてみても同様だ。一旦は集まってきたzataたちが次第に耕平に対する興味をなくしていくのが見て取れた。  焦った耕平は、先ほど投げつけたポールの隣にいまだ立っているもう一本のそれを引き抜くと、それを宙で振り回し、地面にざくりと突き立ててみせた。耕平の身長の倍以上あるそれはさすがに目立ったらしく、再びzataの仲間たちは耕平に注目を戻した。  耕平はポールをかついで走り出した。ちらちらと後ろを向き、仲間たちの様子を見る。走りに注意力散漫になると、先頭でポールを上下に振って興味を煽る。それをしばらく繰り返していると、仲間たちは喜びながら耕平の後に続くようになった。  まるで幼稚園児の行進だ、と耕平は思った。  だが、それでもzataであることには違いない。一旦走り出すと、彼らの脚力はオリンピック選手をはるかに上回るそれだった。  これで何とかなる。そう思った耕平は彼らがついて来られる目一杯の速さで道路を駆けた。  時折、下り道ですれ違った住民が悲鳴を上げるが、彼らにかまっている暇はない。無視して先を急ぎたいところだが、群れの中にはそんな人間にも一々噛みつくものがあった。その度にそれをとがめていては進まないので、すぐに追いついてくれることを願って前に進んだ。  人里に降りてくると、zataの群れに対する人間たちの注目度が大きくなった。当然である。異様な黒の集団が、マラソンランナー以上の速さで道路を駆け抜けているのだ。耕平の棒振りのおかげで今のところかろうじて統制は取れていたが、それが失われるのは時間の問題だった。  耕平は一か八か、館山自動車道に入った。 高速を走る車はもちろん邪魔だったが、両サイドにしっかりしたフェンスが立てられており、群れが散乱しないのではないかと思ったからだった。  高速で仲間たちは自動運転車と競うようにスピードを出したが、その途端、車の方が次々と緊急停止をし、あっという間に道路は自動車の置物で埋め尽くされ、必然、渋滞となった。おそらく、搭載AIが車でないものが大量に高速で移動するのを見て、認識システムがパニクったのであろう。  急停車する車に勢いあまってぶつかる仲間もいたが、幸いzataの方が頑丈だった。盛大に宙を舞う仲間もいたが、それでも彼らは大抵無傷で、衝突した車の方の外装が大破していた。  勿論、パニックに陥ったのはAIだけではない。中に乗った人間たちも同様に状況が把握できていないようだった。 「何止まってるんだ!?」 「ちょっと何なの?」 「さっさと進めよ、手動モードがあんだろが!」  様子を見に車の外へ出て来た人々は、後からやって来るzataの群れを見て悲鳴を上げた。これは耕平にとっていささか計算違いだった。  ほとんどの人間にとっての災害であり、災厄であるzataが大きな群れをなしてそこにいたのだ。そうなると、zataたちの多くは人間を襲おうとする。阿鼻叫喚の地獄が出現する前に、耕平は見せしめに、人間を襲おうとしていた仲間の一人を金属ポールで盛大にふっとばした。彼は十メートルほどかっとんでやはり高速の上に落下した。  さすがにそれは仲間の注意を引いたらしく、続いて何人かの仲間に同様の「体罰」をくらわせると、彼らは再び耕平の命令に服するようになった。まるで校内マラソンをさぼる生徒を監視する体育教師のようだった。  別に今さら人間を守ろうと思ったわけではない。その証拠に、ポールで仲間を吹っ飛ばす時、人間もそのあおりをくらって何人か吹っ飛んでいたからだ。その姿を見ても耕平の心が痛むことはなかった。  群れを再度掌握し、再スタートを掛けようとしたとき、近くの車から漏れ聞こえてくる音が耳に入った。  耕平はその車に近づき、無人の車内で鳴り続けるラジオ放送に耳を傾けた。 《――繰り返します。現在、熊本市街でzata鬼化症候群の患者が大量発生し、市民を襲っているという知らせが入っています。これは九州中部に築かれていた封鎖ラインが崩壊したことが原因とみられ、患者は群れを成して熊本から北上中、自衛隊と警察は急ぎ――》  耕平は思わず硬い頬を緩めた。この知らせは即ち、彼女が無事であることを示していた。最終攻撃に先手を取って、あの封鎖線を突破したのだ。結果的には彼女の判断が正しかったことになる。それでも耕平をそのことを心底喜んだ。  だが、続くニュースはその緩んだ気分を一気に引き締めた。 《今入った情報によりますと、館山自動車道の蘇我IC付近で大規模な事故渋滞が発生している模様です。未確認ながら、高速上を多数のzata患者が走っているという情報も出ている模様で、警戒が必要です。繰り返します――》  それを聞いて、今いる場所が急に危険なものに思えて来た。二百人の仲間がいることで油断していたところがあったが、ここは耕平たちにとってあくまで敵地の真っただ中だった。そこでの生存を確かなものとするためには、一刻も早く多くの仲間を作る必要があった。  耕平は大きく吠えて、仲間に再度前進を訴えた。    21  万里香が、あの悪夢のような出来事を共に体験した吉水というカメラマンと再び出くわしたのは、博多から戻ってきて早々、事情聴取に呼び出された東京・警視庁の廊下でのことだった。 「お」 「ど、どうも」  お互いまともな言葉にならない音声で再会の驚きを共有し、二人して廊下の長椅子に腰を掛けた後、しばらくの無言をおいてどちらからともなく言葉を交わし始めた。 「奇遇ですね、岸さんもですか?」 「ええ、吉水さんも?」 「ええ、私は今日で三日目ですよ」 「あ、そうなんですか、私今日が初めてで。昨日九州の病院を退院して、こっちに戻ってきたばかりなんですけど、いきなり出頭しろって…… あ、その節は大変お世話になりまして、吉水さんがいなかったら、私……」  九州の病院で目を覚ました時聞かされたのは、吉水という男が彼女を病院に連れて来たということだった。 「すみません、あなたを一人置き去りにする形になってしまって。いろいろ仕事の後始末があったもので……それより、体の方は?」 「ええ、何とか日常生活はかろうじて」 「そうですか、それはよかった……」  そんな当たり障りのない会話を交わしていたが、その先はどうしても「彼」のことを話題に上げないわけにはいかなくなった。 「見ましたよ、あの映像。病院で何度もニュースで見ました」 「ああ、あれね。ひどい映像でしょ。携帯端末はやっぱり駄目ですね」  学校の屋上での避難の失敗を余すことなく捉えたそれはキー局のニュースで大々的に流れたのだった。 「でも、よかったじゃないですか。封鎖地区まで行ったかいがあったわけでしょ」 「まさか」  吉水は短く笑った。 「もらえたのははした金ですよ。大田名さんが約束していた額の十分の一にも満たない額でした」 「……」  大田名がどうなったかは、ニュース映像からは分からなかった。そんな彼女の疑問を感じ取ったのか、吉水は自分から彼のことを切り出した。 「大田名さんなら、あの場で亡くなりましたよ」 「え」 「多分、亡くなったと思います。それかzataになっているか」 「そう、ですか」  その続きを彼はなかなか話さず、万里香は自分から訊いた。 「あの、『彼』は、どうなったんですか?」  あの学校の屋上で万里香は意識を失った。その後、気が付いたのは博多の専用病院でのことだった。そこへ連れて来たのは、吉水という男だったと看護婦から聞かされたが、彼ら二人が命を永らえたのは、どう考えても「彼」のおかげとしか思えなかった。  吉水はあの時のことを彼女に語り出した。 「僕たちが助かったのは、彼のおかげです。救助ヘリの去った屋上で、僕たち二人を抱えて屋上から飛び降り、僕たちを車で逃がし、自分は追手のzataを引き付けるためにその場に残りました」 「その後は……?」 「それっきりです」  吉水の言葉は、万里香にとって銀の杭のように心臓に突き刺さった。  封鎖地区のzata壊滅作戦が実施されたというニュースはいまだ流れていなかった。つまり、まだ彼はあの封鎖地区にいるということになる。  上司である研究所の部長には忌避薬の効果も含めて電話で話したが、何だかはっきりしない口ぶりで、とにかくそのことはいいからしばらく休んでいろと、何も話してもらえなかった。  万里香は吉水に尋ねた。 「この取り調べって、あの封鎖地区でのこと、ですよね?」 「ああ、僕はそうでしたね。岸さんの場合は知りませんけど」  確かに万里香の場合、忌避薬を持って勝手に自衛隊の基地から飛び出した件がある。だが、それで警察から呼び出しを受けるというのもおかしな気がした。 「吉水さんは、『彼』のことを話したんですか?」  吉水は苦笑いを浮かべた。 「勿論、話しましたよ。あっちの方の取材映像を持って帰れなかった以上、別に隠す理由もないですからね。ですけど、警察の方は、半信半疑というか、何とも言えない感じでね。あ、でも、扱いはひどくないですから大丈夫ですよ。ほどほど丁重には扱ってもらえますから、そこは心配しなくても――」  その時、急にビル内の雰囲気が慌ただしくなった。スーツ姿の男たちが顔を強張らせ早口で何かをしゃべり出した。  万里香は嫌な予感がして、目の前を小走りに駆けてゆく若い署員に何があったかを尋ねてみたが、「急いでますから」と一言であしらわれてしまった。 「マジか……」  携帯端末に目をくぎ付けにしている吉水がつぶやいた言葉で、万里香は自分の予感が当たっていることを予想した。 「封鎖地区が破られたそうです」 「本当に?」 「ついに地獄の釜が開いた、と」 「……」  万里香は自らの仕事が何の結果も残せなかったことに改めて罪悪感を抱いた。せめて所長に直接あって忌避薬の効果を直訴してもよいのではないかそんな思いもあった。  二人は無言のまま、廊下でじっと待ち続けたが、署員たちは誰も二人に気にかけることなく、いつまでたっても担当者らしき者はやって来なかった。  万里香がどうしようかと思って、隣の吉水の顔を見ると、彼は再び携帯を見ながら声を上げた。 「え」  先ほどより切羽詰まった感があった。 「どうしたんです?」  彼が万里香に向けた顔にもはや余裕はなかった。 「千葉でzataが発生したらしい」 「え、千葉?」 「zataの群れが高速をこっちに向かって来てるとさ」  確かに、その情報は先ほどのものより切実だった。九州と千葉では距離的重要性は比較にならなかった。  二人は示し合わせたように立ち上がり、ビルを出た。誰も止める者はいなかった。  外は軽いパニック状態で、自動走行車の乗り場では、ユニットの取り合いすら起こっていた。  吉水は携帯で何やら操作してから、万里香に訊いた。 「岸さん、あなた、どうします?」 「え」  警察庁から出たはいいが、そこから先のことはまだ万里香も頭が回っていなかった。 「万が一のこともある。僕は名古屋まで行ってそこから海外に避難しようかと思ってます」 「海外、に?」  吉水の決断の速さに万里香は舌を巻いた。 「封鎖地区の中を見た僕たちだからこそ、zataのヤバさは分かっているはずじゃないですか?」 「……」 「車は手配しました。名古屋までは連れて行けますけど、どうしますか?」  しばらく考えて万里香は決断した。 「一緒に連れて行って下さい」    22  万里香は吉水の手配した自動走行車に乗り込み、二人で名古屋へ向かっていた。 「結構時間かかりましたね」  目的地を「あんぜん君」に告げた後は何もやることのない吉水は、運転席で不機嫌そうにつぶやいた。  同じように都内から脱出しようとする車の混雑で、一般道から高速に乗ったのは警視庁を出てから一時間半がたっていた。 「みんな、どこへ逃げるんでしょう?」  万里香は不安を押し殺せずそう尋ねた。 「さあ、僕らと同じように海外を目指すか、あるいは最近できた広域避難シェルターへ行く人も多いでしょうね。でも、一番多いのはまずは身近な家族の所なんじゃないですか」  確かに、既に万里香は両親にメッセージを送っていたが、両親は北海道でむしろ彼らの方が安全なのは間違いなかった。 「吉水さんのところは――」  そう問いかけたとき、これまで第一報とほとんど変わらぬ情報ばかりだったラジオが、ようやく新しい情報を伝え始め、二人は口をつぐんだ。 《ただいま入った情報によりますと、アメリカ政府は、在日米軍基地の民間人をすべて一時的に帰国させる準備を進めていることを発表したそうです。これらの措置は――》 「ど、どうするの?」  万里香は不安を抑えられずそう尋ねた。 「取りあえずチケットは香港行のを二枚押さえてあります。後のことは向こうについてから考えましょう。あ、お金は払ってくださいよ。ご存知とは思いますが、私も懐は寂しいもので」 「それは、当然……」  万里香としては米国の措置を非難する気にはなれなかった。自国民を守ろうとする当然の処置だろう。だが、それはつまり、日本ではzataをどうしようもないと米国が見限ったということを暗示しているようにも思えたが、怖くて口に出せなかった。  携帯端末で情報収集を続けると、万里香は別の驚きのニュースを見つけた。 「……九州のzataの群れ、封鎖地区から出て来たやつ、数は十万以上、本州に上陸したそうです」 「十万、ですか……え、関門海峡通しちゃったんですか。橋落とせばすむことでしょうに。自衛隊もやるならしっかりやってくれないとなあ」  吉水はそう愚痴をこぼしたが、万里香は何も答えられなかった。 「全くこれだから宮仕えの人たちは……で、彼らどこまで来ると思います?」  ふいに振られた質問に万里香はすぐに答えた。 「多分、大阪」  かつて耕平から聞いた話では、彼らはより多くの人間を仲間にすることを本能的に求めている。それなら九州のzataは大阪まで来るだろうし、千葉のzataは東京へやって来るだろうと思えた。  その解答に吉水も同意した。 「ですよね。つまり、僕らが名古屋から出国するぐらいまでは、彼らと遭遇する可能性は低いということになります」  勿論、千葉に現れたzataのように、突発的に万里香達の進行途上でzataが発生する可能性もゼロではなかった。 「飛行機は何時の便なんですか?」 「二十時三十分」  今十四時なので、時間的余裕は十分にあった。  その時、あんぜん君がいきなり警告メッセージを発した。 《後方にイレギュラー移動体を確認。当該物体は自動運転システムを無視しています。当車両の安全レベルを一段階引き上げ、時速二十キロメートル減速します》  とち狂ったドライバーが自動運転レベルをオフにして、速度無視で追い上げてきているのかと万里香は思った。後方で首都東京が蹂躙されているのだ。確かにそうしたい気持ちは分からなでもない。だが、そのせいでもらい事故は勘弁である。  後ろを振り返ると、後続車両も同じようにスピードを落とし、車間距離を開けて安全を確保しようとしているようだった。だが、別の車両の人間が窓から身を乗り出して、後方を注視しているのを見て、嫌な予感がした。 「まずい、かも」  そんな言葉を発した瞬間、後続車の隙間から真黒なzataが一体走ってきた。 「――出た」 「な、何がだよ?」  慌てて吉水も後ろを振り返る。  その時、後ろの車を追い越したzataの体の一部が剥がれ落ちたらしく、それは追い越した車にぶつかり、不運な車はスピンして壁に衝突した。 「きゃ!」 「ま、マジか! いや、撮らなきゃ、これは撮らないと……」  吉水は職業病を発動させ、自分の携帯端末をいそいそとカメラモードにセットし始めた。  そんなことをしているうちに、黒いzataは万里香達の車を猛スピードで追い抜いて行った。  そして、今度は前方であの剥落が起こった。黒い物体が回転しながら弧を描いて車に向かってくる。車内には耳をつく緊急音が鳴り響き、あんぜん君は人に優しくはないが必要な回避行動をとり、車体を完全停止させた。  停まった車の中で心臓をばくばくさせながら、万里香は自分が無事なことを確かめた。  大丈夫、生きている。自動走行車に乗ってこんな思いをしたのは初めてのことだった。  自動運転システムはさすがで、後方の車も同じように停車しており、玉突き事故を起こすようなことにはなっていなかった。 「大丈夫ですか?」  吉水に声を掛けられ、万里香は再び前方に視線を向けた。 「ええ、でも、今の……」  あのzataはもしかしたら。そんな気がした。  そして、あろうことか、数十メートル前方に、今しがたのzataが車道の中央に倒れているのが目に入った。  それと同時に万里香は車のドアを開けて駆け出していた。吉水の制止の言葉など耳に届いていなかった。  高速道路のアスファルトの上にうつ伏せに倒れた黒いzataは、あの時の「彼」と同じようにも見えたし、また、まったく違うようにも見えた。  体を震わせながら、ゆっくり起き上がろうとするそのzataに対し、万里香はためらいながら声をかけた。 「……わたしのこと、分かる?」  一瞬、zataの動きが止まり、上体をひねると錆びついた機械がたてるような音がした。  直感で万里香は悟った。彼だ、と。 「ど、どうして、こんなところにいるの?」  それはしばらくの間、万里香を見据えた後、ゆっくりと立ち上がると、言葉を発した。 「こっちにも、いろいろ、ある」 「そ、そうだよね、そりゃあるよね」  久しぶりに見る彼の姿はあの時と同じであると同時に、確かに変わってもいた。彼の体表を覆っていた装甲のようなパーツのいくつかははがれ落ちていて、随分すっきりしたような印象があった。そう言えば、先程、そのもげたパーツが飛んできて危うく死ぬところだったのだと思い出した。 「体、どうしたの?」 「ん?」 「だって、その、いろいろ、はがれて、スリムになったというか……」 「そうか?」  彼の体調がおかしいのは傍目にも明らかだった。もっともzataの体調なんて分かる者がいるのかどうか怪しいのだが、彼が鈍感なのは確かなようだった。 「どうしてこんなとこに? 九州にいたんじゃなかったの? どこへ行くつもりなの?」  万里香は続けざまに質問を口にした。 「あんたには関係ない」  彼はそう言い切った。彼の態度も前とは明らかに違っているように思えた。 「関係ないって――」 「俺はもう人間を助けない」  彼のその言葉は万里香をどきりとさせた。あの時、あれだけ人を助けようとしていた彼の言葉とは思えなかった。  必至の思いで言葉を絞り出す。 「それ、どういうこと? zataの仲間が増えたら、もう私たちなんてどうでもいいってこと?」  彼は答えない。 「わたし、今忌避薬使ってないわよ。分かるでしょ。私にかみついたりするわけ? できるんでしょ?」  やはり彼は応えず、万里香に背を向け、再び走り出そうとした。  その時、後ろから吉水の気の抜けた声がした。 「どうもどうも、その節はお世話になりました」  すぐ後ろまで車を進めて来た彼は、窓から顔を出してそう言った。  彼も振り返ったが、無言だった。  だが、吉水は気にせずに言葉を続けた。 「彼女のことはちゃんと助けましたよ。あなたに言われた通りにね」  万里香は二人の顔を交互に見たが、二人とも何の反応も示さなかった。  彼は吉水に向かって尋ねた。 「九州の仲間が封鎖地区を破ったはずだ。彼らは今どうなっている?」  彼の質問に吉水は何やら考え込んだ。  万里香がうなずくと、吉水は彼の問いに答え始めた。 「お仲間さんなら随分派手にやっているみたいですよ。ええと、今、先頭が岩国辺りで東の方にばく進中。先頭集団だけで、その数三万とか。笑っちゃいますね」  彼の軽口は無言の視線で返された。 「……いや、笑っちゃうってことは、ないですね」  万里香は再び質問を口にした。 「どうして、あなたは西へ向かってるの? 東京から来たんでしょ。東京にもたくさん仲間がいるのに。人間を助けないなら、一体これからどうするつもりなの?」  万里香自身もあふれ出る疑問をそのまま口にしただけだった。  だが、彼はやはりそれに答えず、二人に再び背を向けた。  そして、つぶやくように言った。 「俺は、仲間のもとに行く」  そして、目の前で再び恐ろしい加速で走り出した彼を見て、改めて万里香は驚きを覚えた。確かに彼らは人間とは違う。だが、彼に敵意はなく、意思疎通ができる相手なのもまた事実だった。  万里香は再び車に乗り込むと、吉水に言った。 「出して、早く」 「え?」 「彼を追いかけて」 「はあ?」  吉水の反応を受けて、万里香は自分の言っている意味にようやく気が付いた。 「いや、だから、私たちだって名古屋へ行かなきゃならないでしょ。のんびりしてる暇はないでしょ」 「……」 「それに、彼には人を襲うつもりはないんだから、後をついていったって安全よ」  完全に納得したようには見えなかったが、それでも吉水は車をスタートさせた。  車は前方の彼を視界に収めながら西進を続けていた。彼のスピードは時速八十キロ程度。高速道路の法定スピードより少し遅いが、システム上の異物である彼が、現在は後続の車列のスピードを決めていた。おそらく数台後ろの車は列の先頭をzataが走っているとは知らないであろう。  万里香はしばらく車内で言葉を交わさなかった。何をどう言葉にすればよいか、自分の中で整理がつかなかった。  浜名湖が見えた辺りで吉水がつぶやいた。 「こんなに大手を振ってzataが高速を走っていても、警察も自衛隊も何にもしないんですねえ」 「……」 「まあ、今頃東京はもっと大参事だろうし、西日本には三万の群れ、九州には十万以上、こんなところの一人きりのzataにかまってる暇はないのかもしれませんけどね」 「……」  今や、日本の勢力図の主軸は人からzataに移ろうとしているようにも思えた。 「実は私ね、家族がいましてね」  吉水は突然自分のことを話し始めた。 「妻と十七の娘です。これまでは仕事で全然かまってやれなくて、いやいや、かまわないどころか、外で愛人作って楽しくやってたりしましてね」  意外な告白に万里香は驚かされた。 「それでこの前、娘が外国の大学に行きたいとか言い始めたらしくて、嫁さんが言うわけですよ。娘が留学する費用、まとめて八百万持ってこいって。いきなりでしょ。まあ、家に寄り付かない父親なんて金を入れるぐらいしか使い道ないんでしょうけど、それでもそんな金どこにあるっていうんですよ、ねえ」  同意を求められても万里香に返答できるはずもない。 「でも、私も何とかしてやりたいって思ったわけですよ。妻はともかく、娘のことはかわいいですからね。何としても金を作ってやろうと思いました」 「それで、あの封鎖地区のロケですか?」 「その通り。大田名さんが声かけてきてすぐイエスの返事をしましたよ。命の危険があることは分かってました。でも、それでも父親らしいことをしてやりたかった。でも、結果はねえ。局からもらえたのは必要な額の十分の一にも満たずですよ。それを伝えたら、妻から離婚届けを突き付けられましてね。どのみち、そうするつもりだったんでしょうねえ。もう娘にも会ってくれるなと。一方的ですよね。当然拒否すると、二人とも家出て行きましたよ。悲しくなりましたね。で、娘に直接連絡して会おうとしたら、娘にも拒否されました。あの時は不覚にも涙が出ましたよ。一晩泣きつくして、まあ、すっきりしました。自分、家庭を持つタイプじゃなかったんでしょうね。向かないことをやるもんじゃない。恥ずかしながらこの年になってようやく分かりましたよ。まあ、そういうわけでこの日本にも何の未練もなくなったってわけです」  いきなり家庭の重い話を聞かされて万里香としては頭を押さえつけられた感じだった。何もコメントすることもないし、できるとも思わなかった。  だが、相手はそれを望んでいたわけではないらしく、すぐに本題に回帰した。 「で、どうします? 彼は仲間と合流するんでしょ。今、西のお仲間は岡山あたり。相変わらずこっちへ向かって来てる。彼と合流するのは大阪ですかねえ」 「だから、何です?」  万里香は苛立ちを覚えながら言葉を返した。 「だから、このまま中部空港へ行っちゃっていいのかっていう確認ですよ」 「それは……」 「空港へ行くには、この先、名古屋南インターで高速降りなきゃいけないんだけど、それでいいんですよね」 「……」  万里香はすぐに言葉を返せなかった。  冷静に考えれば、答えは一つしかない。日本中に安全と言える場所がないのであれば、一刻も早く海外に一時避難するべきである。そのためには今は中部空港を目指すべきだった。  だが、万里香の頭の中にはもう一つの選択肢が先ほどから浮かんでは消えを何度も繰り返していた。  彼の後をついて行って一体どうしようというのか。何をするべきかも分からない。何をしたいわけでもない。そもそも、彼が仲間と合流してしまえば、彼自身は人を襲わなくても、彼の仲間はそうではない。万里香の身の安全はゼロに等しかった。彼と同じようなzataになる、そのようなことを望んでいるわけでは決してないし、そんなことになるぐらいなら、その前に自決する。そうも思う。  なのに、このまま彼を見捨てて海外に逃げることが自分の取る道だとはどうしても思えなかった。  その時、吉水が前席から携帯端末を差し出してきた。 「見ます、九州でのビデオ?」 「え」 「ニュースで見てくれたんでしょ、あの屋上のやつ。その続き。ほとんど映像はなくて、音だけですけど」  万里香は言われるがまま、端末を受け取り、その映像を再生した。 〈脱出するぞ、ついて来い〉  それは彼の声で始まった。映像はぶれて何を撮っているのかよく分からない。 〈わたしは、もう駄目です。代わりに、このカメラを――〉 〈ふざけるな!〉  画面が大きくぶれてそして、落下?  疾走する足音。校庭の外へ出て車の前で止まった。 〈この車を使え〉 〈いやいや、これ個人所有のやつでしょ。勝手には動かせられませんよ〉 〈キーはある。持ち主からもらった〉 〈もらった、ですか?〉 〈その代わり、彼女を連れてゆけ?〉  画面に意識を失った万里香の姿が映った。衣服が赤い血で染まっている。自分の重症度が一目で分かった。 〈いや、だけど、彼女はもう……〉 〈連れて行け〉  彼の強い口調に吉水は反論できないようだった。 〈あ、あんたはどうするんです?〉 〈ここでやつらを足止めする〉 〈あの人数を?〉 〈文句があるのか〉 〈つ、連れて行くだけでいいんですね? 助かるかどうかは保証できませんよ。十中八九助からないと思いますけどね〉 〈おまえが、そのカメラ撮影にかまけていればそうかもしれんな〉 〈わ、分かりましたよ〉 〈行け、早く〉  あの時の映像は万里香の鼓動を早めた。  そして、車は分岐点の直前にまでやって来た。こんな映像を今自分に見せる吉水がうらめしく思えた。  再び吉水が訊いて来た。 「で、どうします?」  万里香は意を決した。 「どこでもいいので下ろして下さい。他の車を探しますから」  自分でも馬鹿だとは思っている。だが、不思議と納得はいった。どうせ海外に逃げたって、海外にzataが拡大しない保証はない。絶対に助かる場所なんてどこにもないのだ。それならば心の赴くままに行動すべきだ。  そんな万里香に、吉水はこともなげに言った。 「よかったよかった。じゃあ、このままってことですね」 「え?」 「今もドライブレコーダの撮影データを自分のクラウドに送ってるんですよ。彼の走っている姿をね。こんな地獄の黙示録みたいな状況ですけど、彼にフォーカスを当てれば何かすごいものが撮れるような気がするんですよ。そして、彼を撮るには、あなたがいた方が何かと都合がいいらしい」 「吉水さん……」 「我ながら最悪ですよ。好奇心は猫をも殺すってやつですかねえ」  車は名古屋南インターを駆け抜け、東名高速をそのまま西へと向かった。    23  自衛隊BL第一中隊所属第一小隊第二分隊の七人は高機動車で関門海峡を渡りつつあった。初期分隊人員の十人から三人を欠いたのは、分隊長の加藤にとって屈辱であり、加藤は外を見て、今日八度目の歯ぎしりをした。  関門橋はzataから避難する民間人のため、いつにないラッシュ状態だった。交通システムは人口知能による管理がなされているため、昔の完全渋滞のようなことにはなっていないが、それでも安全上速度は随分と落とされていた。この大規模避難も自分たちの無力さがもたらしたものだと思うと、どんな顔をして部隊を指揮してよいか分からなくなりそうだった。  七時間前、それまで無風状態が長らく続いていた封鎖線に突如、zataの大群が襲い掛かって来た。大火力の火砲と爆撃で、直接の効果は視認できないまでも、封鎖線への圧力は感じられず、足止めには十分な効果を発揮しているように思われた。延期を繰返されていた殲滅戦に近いものを行うことができて、隊員たちの士気もあがり、負ける要素はどこにも感じ取れなかった。  だが、程なく後方の熊本市警から緊急応援要請が入った。熊本市内で多数のzata発生と。それはBL部隊に大きな動揺をもたらしたが、動揺しているだけにはいかなかった。それに応じて、前線から二割の部隊が応援に向かうことになった。それでも前線の守りは十分に思えた。  けれど、その三十分後、後方に設置されていた指揮所が少数のzataにより襲撃を受け、壊滅状態となった。頭をつぶされた組織はもろい。封鎖線へ開始されたzataの本格攻勢により、封鎖線は大した抵抗もできず突破された。これまでにないzataの組織的戦術により自衛隊は敗北を喫したのだった。  その際、第二分隊の三人は行方不明となった。生きていてくれと強く念じ続けてはいたが、それが無理な願いであろうことは加藤にも分かっていた。 「向こう側の状況は?」  そう尋ねると、後方から通信士の佐山伍長が即座に答えた。 「山口から既に五百人の部隊が集結しているそうです。関門海峡を渡り切った壇ノ浦PA付近での殲滅戦が想定されているとのことです」  同じく後部に座っている串辺軍曹が苦言をもらす。 「しかし、なぜ関門橋の手前でやらんのでしょうね。そうすれば、万が一の場合、関門橋を落とせるでしょうに」  高橋上等兵もそれに乗っかる。 「そうっすよね、そうすれば奴ら九州に袋詰めっすよ。封鎖地区のエリアが少し広がっただけですもんね」  部下の勝手な放言を加藤は正した。 「時間がない。関門橋手前で部隊をそろえるのにどれだけ時間がかかる。九州側の戦力はほとんど封鎖線に集中させていたんだ。どうやっても間に合わん」  その説明で部下たちは何とか納得したようだった。 「まあ、あいつらを一網打尽にできるのであれば、場所はどこであろうとかまわんのですがね」  串辺が重々しくそう言った。彼もまた、行方不明の二人のことを心に思い描いているだろうことは想像に難くなかった。  ただ、と加藤は思う。本当に重爆撃攻勢でzataを殲滅できるのだろうか。できるなら問題はない。後世、自衛隊でありながら、自国民を大量殺戮した汚名を受けるのは耐えもしよう。その代りに他の大勢の国民を守ることになるのだから、後悔はない。だが、殲滅できなかったとしたら。本州に再度封鎖線を築くことは可能なのか。それは有効なのか。今回のように裏を取られたりすることはないのか。何しろ封鎖地区が広がれば広がるほど彼らの数は増えてゆくのだ。それを考えると、関門橋を落としてzataを九州に封じ込めるプランは魅力的に思えてならなかった。  その時、佐山が受け取った通信内容を伝えた。 「命令変更です。壇ノ浦での殲滅戦は、遅滞防御に切り替えられたとのことです」 「何」  後部座席で不満の声が上がる。  あわてて佐山は付け加えた。 「それともう一つ、五分後、田本首相から自衛隊員へのお話があるそうです。作戦行動に支障がない限りは全員傾聴するようにとのことです」  それには加藤も驚いた。作戦中に首相から話があるとは。確かに文民統制をとる日本では、自衛隊の最高指揮官は内閣総理大臣である。だが、作戦中に、しかも、末端の隊員にまで聞かせる話があるというのだろうか。  車内の全員が息をつめ、五分間を待った。 「始まります」  佐山がそう言い、通信機の音量を最大にした。 《自衛隊員の諸君、作戦行動中に誠に申し訳ないと思っている。だが、この一時の間、私の話を聞いてほしい。現在、自衛隊は九州でのzata患者の封鎖線突破により、対処を迫られている。これは全日本国民の安全にとって切実危急なる重大任務である。だが、考えてほしい。zata患者はいかに有害であろうと、彼らもまた日本国民なのである》 「おいおい、いまさらですか」  高橋上等兵がもらしたのを串辺がみぞおちを小突いて黙らせた。 《彼らにも親兄弟子供がいる。彼ら自身の非によりzataになったわけでもない。にも関わらず、私は内閣総理大臣として、日本の安全に責任を持つ者として、zata患者への武力使用を容認した。今なおそのことを後悔するものではない。殲滅戦そのものは、米軍供与の特殊弾薬の配備が遅れ、実行も延期を重ねていたが、それもようやく実行命令発令の手前寸前だった。だが、今回、大量のzata患者が九州から本州を目指しているという状況において、私は本州での殲滅戦を却下した。これについて疑問と不満を持っている隊員たちも多いと思う。それについて説明をしたい。国家安全保障会議が得た情報によれば、zata患者の脅威は時限的である。即ち、zata患者の暴力的、拡張的性格を有する時間は永遠ではないということだ。その時間を過ぎれば、脅威は脅威でなくなる。そして、その時間は限りなく迫っているという――そのために、隊員の皆には時間を稼いでもらいたい。zataによる被害を可能な限り防ぎつつ、zataに対する攻撃を可能な限り抑えてもらいたい。このお願いが非常に困難なものであることは重々承知している。それでも、なお私は自衛隊最高指揮官として、国民の安全を守る者として、皆に以上のことを命令しなければならない。諸君の健闘を祈る》    24  何時間走っただろうか。人間ならマラソンの四十二.一九五キロがいいところだろうが、耕平が既に二百五十キロ以上を走破していることは間違いなかった。ここまで周囲の景色には何の注意も払わなかったが、つい先には頭上の電光掲示板に「NAGOYA」の文字が見えた。耕平が仲間に近づいていることは確かだった。  だが、目標に向かう一歩は容易な一歩ではなかった。アスファルトの路面を一歩一歩踏みしめるごとに耕平はzataとしての自分の重さを自覚する。一体、今の己の体重がどれほどあるのか。体重計にのってみれば恐ろしいことになるに違いない。そして、その大質量の体を自らの力で猛スピードで移動させるのはやはりエネルギーを大量に消費するのだと得心した。しばらく前から感じている体の疲れがそうだ。スピードも随分落ちているような気がする。それに、体の一部がはがれ始めているのもきっとそのせいなのだろう。初めての経験ではあったが、何十センチもある装甲のような皮膚がぼろりと落ちるとぎょっとする。新陳代謝の一言では済まされない。  だが、それすらも前進を止める理由にはならなかった。名古屋に近づくにつれ、次第に前方から近づいてくる仲間たちの存在が感じられるようになった。彼女たちが言っていた通りだ。一瞬、自分のzataの力が復活したのかと思ったが、おそらくはそれだけ大勢のzataが前方にいるということなのだろう。耕平のzataの能力の低下より、数の影響が上回っているということなのだ。彼らは耕平のいる方角へ、西へと向かって進んでいる。おそらくは西の大都市圏である大阪を目指している。このままいけば、彼らが耕平と出くわすのも時間の問題だった。  今、人は刻一刻と終わりの始まりを迎えているのかもしれない。日本はzataであふれかえり、そうなれば世界がそうなるのも時間の問題だ。  今さら、人間に戻ることに何の未練もなかった。この病を発症した時から、人は耕平を拒絶したのだ。中にはそうでない人間もいたが、あくまでそれは少数だった。人は自分と異質なものを排除する。その線引きは虚ろで確たるものではない。だが、そうは言っても、そのラインの外に一度出てしまえば、戻って来ることは不可能と言っても良い。否、戻って来られないからこそ、線引きによって分かたれるのだ。  だが、それがどうしたというのだ。思い返してみれば、これまで生きてきて人間であったことに何か良いことがあっただろうか。幼い頃からこれまでずっと満たされたことはなかった。周囲には耕平に直接関係するにせよしないにせよ、常に何かしらの争いがあった。両親はなぜか親戚筋と仲が悪く、交流もほとんどなかった。家庭自体は決して貧乏ではなかったが、通った公立学校はお世辞にも青春を謳歌するような場所ではなかった。どの学年、どのクラスでもいじめが蔓延し、誰かが誰かを攻撃していた。学力にも運動能力にも性格にも取り立てて特徴のなかった耕平は、必死に捕食対象となることから逃げ続け、かろうじてそれに成功した。  大学は希望するところに行けたけれど、卒業後、研究室に残ると、父親が急に痴呆になった。母はその介護で神経をすりつぶし、たまに耕平が家に帰ってもきつい性格になっていた。耕平自身はと言えば、研究は出向の対象とされ、直接の専門分野ではないところで、仮面をつけて専門家のふりをすることを強いられた。プライベートでは彼女ができても長続きせず、四度目の交際でようやく結婚にこぎつけ、幸せな家庭を築けると思った矢先に破談を申し渡された。  そして、zataになってからは、耕平自身が迫害され、また人の醜い面を見せつけられた。耕平の行動は何の意味もなかった。  何だ、何もいいことなどなかったではないか。思わず笑い出しそうになる。  だが、ひとたび冷静になって考えると、それをすべて人間の性質に帰するのは誤りのような気もした。耕平が思うに、人間が文明を築き、このような高度で複雑な社会を作ってしまったことに問題があるのではないのか。人はこのような社会にもともと適応できないのだ。  そう考えれば、このzataでのありようがやけに居心地がいいのも得心がいく。仲間とつながり、何も余計なことをしない。考えない。シンプルで単純な生き方。それを選べばあの人のわずらわしさから解放されるのだ。  もう、十分だ。  名古屋の四日市JCTの表示で耕平は行き先を確認しようと立ち止まった。後方の自動走行車は速度を落として、耕平をよけて走りすぎてゆく。一台だけ停まって様子を見ているのは彼女たちだろうが、もはや気にしようとも思わない。東京に置いて来た仲間たちが順調にその数を増やしているようなのはいいとして、それよりも、前方の仲間たちが意外な動きをしているのが気になった。  てっきり彼らは大阪で仲間を増やしまくると思っていたのだが、どうやらそうはせず、今度はそのまま北東の方向に向かっているようだった。つまり、京都。あるいはもっと先のここ名古屋、あるいは東京まで進もうとしているのかもしれない。  予想外のことに耕平は一瞬うろたえたが、落ち着いて考えてみれば、やることは変わらないことに気が付いた。一刻も早く群れに合流して、彼女に会うのだ。  耕平は再び西へと走り始めた。  だが、進むに連れ、頭に伝わってくる仲間の気持ちが何かしらの異常事態の発生を告げていた。  急げ走れ急げ駆けろ    すべてが終わる前に      走れ急げ駆けろ前へ        最後の鐘が鳴る前に      集まれ集合、我らが仲間    今このときが生まれた理由  集え集え集え    急げ急げ急げ      我らは一にして眠りを目指す  彼らが何を叫んでいるかは耕平には理解できなかった。ひょっとしたら自衛隊に攻撃を受けている可能性もある。だが、人を仲間にするのとは別に、彼らの行動原理に何かが加わったのは明らかだった。  耕平自身には、そのような衝動は生じていなかったが、とにもかくにも、彼らと合流しなければという思いが強まった。  耕平はばらばらになりそうな我が身にさらに力を込めて、アスファルトを駆けた。    25  大阪に入ったあたりから万里香は不安を覚え始めた。 「これ、もう少し離れた方がよくない?」 「どこへどう離れるって?」  吉水はため息交じりにそう答えた。  それも当然のことで、彼らの乗る自動運転車はいつの間にか周りをzataランナーたちに囲まれてしまっていた。万里香達に興味を示すzataがいないのだけが唯一の幸運で、他はどっちを向いても絶望しかなかった。 「いや、こんな映像はなかなか撮れるものじゃないとは思うけどねえ……」  車体はごつごつと周囲のzataにぶつかり、あんぜん君はもはや用をなしていなかった。手動運転で強引にこの流れから脱しようと試みてみたものの、車の軽さと馬力のなさがあいまってzataたちに押し戻されてしまいどうにもならなかった。 「結局は、彼らにもまれてついていくしかないのね」 「肝心の彼も見失っちまったしねえ。こりゃ、本当にそろそろ覚悟を決めておいた方がいいかもしれないですねえ」  彼の言葉に万里香は唾をのんだ。  彼を追うと決めたとき、このような事態を全く想定していなかったかといえばうそになる。だが、彼女が思い描いていたのは、もう少しだけ安全圏からの傍観者としてのそれだった。  最悪、このままzataの群れに押しつぶされるというエンドルートもあるかと思うと、胃の辺りがきゅっと締まるような痛みがした。  その時、後方のバックミラーにzataの群れの中に他の車がちらりと見えた。 「吉水さん、後ろ、車!」 「何言ってるんですか」 「車、いました」 「いるわけないでしょう、こんなzataの群れに巻き込まれたがる物好きなんて、私たち以外にこの世にいませんよ」  その時、後方から拡声器の粗い声がした。 〈前方の車、人が乗っていたら、合図を下さい。救助に向かいます〉  その声は万里香だけに聞こえた幻ではなかったらしく、吉水も慌てて後ろを振り向いた。 「なんだ、警察か?」  万里香が目を凝らすと、zataの群れを挟んで、三十メートルほど後方に、地味な色をした大きめのジープが走っているようだった。 「自衛隊か」  吉水がつぶやいた。 「どうします、吉水さん? 合図をよこせって」 「どうもこうも、向こうはおそらくこの車に人が乗っているかどうか確認したいんだろう」  いくら周りのzataが万里香達に興味を見せていないとはいえ、窓から身を乗り出すようなことは恐ろしくてできなかった。 「仕方ない。もう一度、チャレンジだな」  吉水はそう言って、自動運転車のハンドルを握ると、車を左右に激しくゆすり始めた。流れから脱出できないまでも、人が運転していることを後方の車に伝えるためだった。  後方からの反応はすぐだった。 〈了解しました。今から救助に向かいます〉  その言葉を聞いて万里香はほっと胸をなでおろした。吉水の顔にも安堵の色が見えた。  二人して後方を注視していると、ジープはまるで砕氷船のようにzataの群れをかき分け、万里香達の車に近づいて来た。 「さすが、自衛隊の車は頑丈だねえ」  吉水がほれぼれするようにつぶやいた。 「でも、救助ってどうやって助けてくれるんでしょう?」  万里香は自分が口にしたその問いにどう考えてもあまり嬉しくない予想図しか思い描けないことに気が付いた。  ジープは万里香達の車の後部バンパーに軽く接触し、再び拡声器を使用した。 〈車伝いにこちらへ乗り込んで下さい。サポートします〉  どうやら横づけまではしてくれないらしい。  万里香は吉水と顔を見合わせた。お互いの微妙な表情をしばらく見た後、それ以外に選択肢がないことを自分に納得させた。  後部ウィンドウは非常時に備えて開閉も着脱も可能だった。恐ろしいのは開けた途端、回りのzataが急に万里香達に興味を示すことだが、後方の自衛隊の援護もあるということで、あとは祈るしかなかった。 「先に行きな」  吉水がレディファーストの姿勢を見せたことに万里香は罪悪感を感じた。この車を手配したのは吉水であり、自分は彼のプランに好意で乗っけてもらっているだけなのだ。  迷っていると吉水はさらに言った。 「どっちが安全かなんてわかりゃしないだろ。あんたがzataに大人気ってこともありえるんだからな」  嫌な未来予想図だったが、万里香に踏ん切りをつけさせる彼なりの好意だと思うことにした。 「……先に行きます。ありがとうございます」  後部ウィンドウが開いて、外気が流れ込んでくる。しばらく様子を見たが、zataたちは全く気にしたふうもなく、ストイックなマラソンランナーのようにひたすら走り続けていた。  後方の自衛隊車はフロントウィンドウを開放し、そこから隊員がボンネットの上に乗り出していた。 「お願いします!」  万里香は姿勢を低くし、相手に叫んだ。 「どうぞ。安心して来てください!」  相手の声が返って来る。  まったくこんな映画のワンシーンのようなことを体験するとは。だが、九州でのことを思えば、大したことでないような気もした。  思わず笑みがこぼれる。  ゆっくり慎重に行こうと思っていた前算段はどこかに消えてしまい、瞬間、万里香は思い切りボンネット上に構える隊員の胸目がけて飛び込んでいた。  相手はさすがに一瞬のうちに体の位置を入れ替え、万里香を助手席に押し込んだ。  心臓がばくばくしていた。が、ちらりと前方を向いた時、見えてしまった。吉水がこちらに携帯端末のカメラを向けていたことを。そういう人だったと万里香は別に怒るわけでもなく、車内の隊員によって助手席から後部に移された。  吉水の移動も何とか終わり、車内はほっとした雰囲気に包まれていた。  車内は思ったより広かったが、搭乗者も多かった。自衛隊隊員は運転手も含めて七人。万里香達を加えて九人になった。後部座席は左右に向かい合うように八人が座れるようになっていて、万里香達が乗ってもまだ余裕があった。 「君たちはどうしてあんなところに?」  隊長らしき男が助手席からそう尋ねて来た。  万里香が答えあぐねていると、代わりに吉水がそれに答えた。 「名古屋から逃げるつもりだったんですけど、高速を間違えてしまって、大阪に来たらこれですよ。zataの群れに取り囲まれてどうしようもなくなってたところでして、いやいや本当に助かりました」  男は言った。 「私はこの分隊を指揮している加藤です。自分たちはzataを並行追走していたところ、民間車輌をzataの群れの中に見つけたため、救助のためにかけつけた次第です。いや、無事でよかった」  彼らの犯した危険のことを考えると、知り合いのzataを追って来たなどとは口が裂けても言えそうになかった。 「今からここを脱出します。少々乱暴な運転になると思いますので、しっかりつかまって――」  彼がそう言い終える前に車が下の方で変な音をたて大きく揺れた。  運転手が短く「あ」と声を上げたのが、この上なく不吉なサインに思えた。 「どうした?」  運転手はハンドルを回したりいろいろ試した後、短く言った。 「……壊れました」 「何がどう壊れた? はっきり言わんか!?」 「当車は操作不能となりました」 「――修理はできんのか?」 「この状況では不可能と思われます」 「……」  冗談のような状況だった。つまり万里香たちが行ったことは小さい棺桶から大きな棺桶に移っただけのことだった。  さすがに隊員たちも言葉がなく呆然としていた。  それでも隊長は一息のんで万里香達に説明をした。 「まことに申し訳ない。我々は最善をつくすつもりだが、あなたたちを無事に助け出すことのできる可能性は極めて低くなった」  そんな時、吉水が口を開いた。 「まあ、そんなこともありますよ。あとは運を天に任せるとしましょう」    26  耕平は、京都と大阪の間でついに仲間の群れに出くわした。恐ろしいほどの数。大通り一体を埋め尽くすzatazatazata。歩道も車道も関係ない。耕平の視界には仲間しか映らなかった。それぞれが自由に高速道路を、一般道を、鉄道路線を、農地のただなかを思うがままに一心不乱に駆け続けていた。それは大昔の民族大移動を彷彿とさせた。  おそらく耕平が接触したのは、群れの中ほどか、後方。だが、まだまだ後ろからあきれるほど大勢の仲間が途切れることなく続いているので、それを判別することは実際には不可能だった。  耕平は今さらながら一瞬躊躇した。その流れに身を任せることに。この中に入ればもう引き返せなくなるような気がしたからだ。  だが、それもすぐに考え直す。一体どこに引き返す場所があるというのか。耕平にはzataとして生きる道しかなく、もはやそれ以外のあり方を選択しようという気もなかった。  そして、耕平はその巨大な群れに身を投げ入れた。  zata、zata、zata。これまでに見たこともない大勢の仲間に囲まれながら耕平は走り続けた。周りを見回したが、見知った顔はなく、皆、何かにとりつかれたように一心不乱に走っていた。思念を凝らしてみても、ここでは総体としてのノイズが大きく聞こえるだけで、個々の思念を聞き取ることなど耕平にはできそうになかった。  彼らが何を目的として、どこを目指しているのか分からないまま、耕平もランナーの一人として、走ることに専心することにした。  そして、それが正解であったとすぐに実感する。同じように走っていることで自分が群れの一部であることが感じられた。全体の中の一部分。そうであることに今までになく心が安らいだ。  時折、走っている道路の真ん中に不自然に立っている石柱が現れた。不審に思いながらもその黒い石柱をよけながら、耕平は仲間とともに先を急いだ。  群れは京都の手前で大きく東に進路を変えた。耕平たちも高速道路から降りて、街中を進む。一体、群れはどこへ行こうとしているのか。この先頭に彼女がいることは確信していたが、いつまでたっても彼女にたどり着けないことに耕平は若干苛立ちを感じ始めていた。  無駄だと知りつつ、思念を凝らして彼女の名を呼んでみた。  だが、案の定、それは大音量のノイズに飲み込まれるだけだった。  耕平はスピードの落ちて来た周囲の群れをかき分け、さらに前を目指した。  眼前に巨大な湖が見えてきたのと同時に、耕平は何か事態が変わったことに気が付いた。  これまで前方から流れてきていた思念が急にかき消されたのだ。まるで、霧に巻かれたかのように、突然に。あの大きな意志の力が掻き消えた様は耕平に言いようのない恐怖をもたらした。周りを見渡しても、他の仲間たちは何も感じていないように見えた。  何があった? 彼女の身に何が起こったのか。耕平は琵琶湖の岸辺を仲間を追い抜きながらひたすら走り続けた。  高層建築など見当たらない九州と変わらないのんびりとした風景だった。ただそれとはそぐわないものもあった。ところどころ遠目に自衛隊の戦車が群れと並走して走っていた。  だが、耕平にはそれは脅威として映らなかった。この数の仲間を前に、通常火力で一体何ができるというのだ。もし本気でやるつもりなら日本全土を焼き払うだけの核兵器でも持って来てもらわねば。話はそれからだ。  耕平は視線を前方に戻して再び走ることに集中した。  だがすぐに、耕平は眼前に現れた光景に息をのむことになった。  遠く前方に見えるのは、巨大な黒い山。琵琶湖のほとりにそんなものがあっただろうか。耕平は東海道新幹線にも何度か乗っていたが、こんな異様なものを見た記憶はなかった。だが、記憶をたどると、どこかで似たようなものを見た記憶があった。そうだ。昔、研修でオーストラリアに行ったときに見たエアーズロックだ。アボリジニの聖地にもなっている巨大な赤色の一枚岩。高さは確か三百メートルほどだったか。それに似ていると言えば、似ている。だが、目の前のそれはそれよりもずっと大きく見えた。  耕平は呆然と立ち尽くして、しばらくそれを眺めていた。だが、結局それが何なのか、耕平には分からなかった。  群れの仲間たちは燃え尽きる直前のランナーのようにほとんど小走りするほどの速さでその山を目指していた。  耕平はなかなか足を再び動かすことができなかった。あの山に近づいてはいけない。耕平の中の何かがそう訴えていた。  だが、あそこに彼女がいることはもはや間違いがないように思えた。それならば、耕平は何としてもそこへ行くしかなかった。  農地の中に自然の理を無視して突然屹立する大山。それが何なのかは、すぐ傍までやって来てようやく分かった。  山肌には一本の木などない。火山の溶岩が冷え固まったようなそれは、多くのzataたちが山の斜面で両手を広げ抱え込むようにして成したものだった。彼らは次第に溶けて山の一部へと同化する。山の下層部が膨れ上がると、次の者はさらにその上に上り、斜面の途中で山への同化を行っていた。  その過程を至る所で無数に繰り返し、山はゆっくりと、だが確実に巨大化を進めていた。  一体、どれだけの数の仲間によってこの山は成っているのだろう。耕平は想像もできない数とそのあまりの巨大さに圧倒された。  それを眺めていると、耕平は不思議な引力に囚われた。  あの山の一部になりたい。なぜそう思うかは分からなかったが、本能のようなものがそう訴えかけていた。恐ろしくもあり、魅惑的でもあるその誘惑を耕平はしばらく理性で反芻し、そして、考えるのをやめ、自己の衝動に身を任せることにした。  他の仲間たちに交じり、山へ近づいた。すると、仲間たちがどんどんと山に五体投地を行うなか、一人のzataが地面にうずくまっていた。  耕平が近づくと、彼は顔を上げた。その特徴は耕平が見知ったものだった。 「カゲオ?」  思わず耕平は口に出した。 「無事だったのか。みんなはどうした? イチバンは、エラソウは? ジロリはどこに行ったんだ?」  だが、やはり言葉は返ってこなかった。  カゲオは首を少し傾け、人差し指で山の頂上を示した。 「上? 上にいるのか?」  耕平は頂上を再び見やった。他にも斜面を登るzataはいるが、頂上へ行くほどその数は少なくなっている。そのどこかに彼らはいるのだろうか。 「よし、一緒に行こう」  そう誘ってみたが、カゲオは腰を上げなかった。 「……おまえはここに残るのか?」  そう問うと、彼は腰を上げ、山の斜面に体を預けた。しばらくすると、彼の体は溶け始め、コールタールのようになると、それは山の斜面の一部となった。  そこで彼とは別れた。  耕平は体に残った最後の力を振り絞り、山の斜面をよじ登った。仲間の体から成るごつごつとした岩肌を、何かに導かれるように上へ上へと耕平はひたすら登り続けた。  山の斜面はところどころ同化が不完全で、乾いていない場所があった。じゅくじゅくとした治りかけの傷口のようなその部分に足を踏みつけると仲間の悲鳴が聞こえるような気がした。だが、足がはまり込んで抜けなくなるようなことはなく、耕平は上り続けることができた。  どれだけの時間がたっただろう。耕平は頂上にたどり着いた。  力を使い果たした耕平が頂上に立つと、そこには直径百メートルほどの穴が開いていた。正確に言えば、カルデラ状の火山のようにすり鉢のように中心部がくぼんでいる。  耕平は今度は、なだらかな斜面を窪みの中心に向かって降り始めた。  最終地点だ。何の裏付けもなく耕平はそう思った。あそこに彼女がいるのだとそう感じられた。  カルデラの底はまだ乾ききってない状態だった。ぶよぶよと不安定な足元のすぐ下に彼女がいるように思えた。  耕平はそこでゆっくりと大の字でうつ伏せになった。地面に一体化していくような、それでいて拒まれているような不思議なもどかしさがあった。  耕平は無言で彼女に語り掛けた。 《そこにいるのか、ジロリ。いるんだろ。いるなら返事をしてくれ》  理解不能なざらついた意識のようなものがばらばらとあられの様に返って来て、思わず思考を閉じそうになった。だが、それが次第に先細り、小さく消え入ったあと、彼女の言葉が、あった。 (やっぱり来たのね) 《ジロリ!》 (来ると思っていたわ) 《これは一体何なんだ?》 (一体何なのかしらね) 《君にも分からないのか》 (はっきりとは) 《そんな》 (でも分かっていることはある。私たちはこれから永い長い眠りにつくの) 《眠り?》 (大勢の仲間たちと一緒になってここで山になって眠るの) 《どうしてそんなことを》 (……おそらく、いずれ来る氷河期を越えるために。そして、氷河期の後でもう一度この地球上で我が世の春を迎えるために) 《……》 (そのために私たちは眠りに入るのよ) 《それなら僕も一緒にここで眠ろう》 (残念よ。とても残念だけどそれは無理のようだわ)  彼女の拒絶の言葉に耕平は驚いた。 《どうして!?》  彼女に会いにここまでやってきて、なぜそのような言葉を聞かねばならないのだ。ただそばで仲間たちとともに一緒に眠りたいと言っているだけなのに。 (だって、あなたは不完全だから。私たちにはなり切れなかったから) 《そんなことは――》 (あなたは仲間たちと会話も満足にできなかった。いつまでもヒトの思考を捨てられなかった。肉体も一旦は変態したけれど、それもまた、一時的なものとして終わろうとしている。それはあなたが一番よく分かっているはずよ)  彼女の言うことは耕平に思い当たることばかりだった。  だが、それでも彼女の宣告はあまりにも無情すぎた。 《君たちがいなくなった世界で、俺にどうしろっていうんだ》 (あなたには感謝している。あなたのおかげで私はこの世界から去ることができる。あなたを不完全なzataにしてしまったことは残念だったけれど、今となってはどうしようもない。できればあなたと一緒に新しい世界を見たかったけど。残念だわ) 《そんなこと言わないでくれ。僕も一緒に連れて行ってくれ》 (もう私を解放して。わたしはこれから永い夢を見て、仲間たちと未来へ旅立つの。こんな醜い世界とはお別れするの。何も考えずに眠らせて。あるべきものがあるべきようにある世界へ向かうために) 《待ってくれ!》 (ごめ なさい、さ うな ) 《!!!》    27  運転不能となった自衛隊の高機動車は、周囲のzataとともに流されるようにどこへともなく進み続けていた。  万里香は正面に腰かけた自衛隊員が執拗に自分を見るのに無意識に視線をそらしたが、突然声を掛けられどきりとした。 「……あんた、ひょっとして、九州の封鎖地区駐屯所に来てた忌避薬の人じゃないの?」  車内の運転手以外の視線が一斉に彼女に張り付き、各自の記憶と照合される。  その結果が出る前に万里香は白状した。 「はい、そうです。もしかして、皆さん、あの駐屯所の方ですか?」  すると、その隊員は大声で怒鳴り出した。 「方ですかじゃないだろ。何であんたがこんなところにいるんだよ! 勝手に出て行って、あの後、あんたの捜索に駆り出されて大変だったんだからな!」 「やめろ」  隊長の加藤が口をはさんでくれたおかげで胸倉をつかまれずにすんだが、万里香としてはうしろめたいところを指摘され、ばつの悪さはぬぐえなかった。 「その節は、申し訳ありませんでした。あの時は、忌避薬の実証を急がなければと焦っていて……」  加藤が全員をにらみながら、万里香に質問する。 「あの後、すぐ封鎖地区から出られたんですね。何事もなくてよかった」  一瞬、口をつぐんでいようかという思いが万里香の頭の中をよぎった。だが、自衛隊員の一人を死なせてしまったことは消し去ることはできない。万里香はすべてを彼らに白状した。バイクで送ってくれた自衛隊員がzataに襲われ亡くなったこと。その後、言葉を理解するzataに助けられたこと。吉水らテレビクルーと合流し、テレビの番組撮影中に犠牲者が出たこと。自衛隊の救助計画にすがったが、zataの襲撃により、救助してもらえず、先のzataにより命を救われたこと。  話を聞いていた隊員たちは信じられないものを見るような目で万里香を見ていた。確かに自分たちが経験してきたことはそれだけのものだったのだと万里香は改めて実感した。  その中で加藤が言った。 「亡くなった自衛隊員は私たちの分隊ではないが、彼の死は明らかに彼の判断ミスによるものです。彼はあなたを連れてすぐに引き返すべきだった。なぜあなたと一緒に封鎖地区の奥深くに入ったか理解できません」 「それは、わたしが……」 「救助の中断については、止むをえないことだとは思われますが、同じ自衛隊の一員として謝罪させていただきます。誠に申し訳ありませんでした」  助手席で加藤が小さく頭を下げると、後部席の五人も一斉に頭を下げた。 「い、いや、やめて下さい。悪いのは勝手に封鎖地区に入ったわたしたちの方なんですから」  だが、彼らが頭を下げているのは、元からその地区に住んでいて逃げ遅れた人々に対するものなのだということに気づき、万里香は自分も静かに頭を下げ返した。 「ま、ま、辛気臭いのはこのへんにしときましょうよ」  吉水が場を和ませるように軽口を叩いた。 「それより、アレですよ、アレ。私、さっきから気になって仕方がなかったんですけど、一体何なんですかね?」  彼が指さす方向を見ると、遠方に巨大な黒い山が見えた。そして、その山に向かってzataたちが黒い列をなしている。  急に隊員たちの動きが慌ただしくなる。 「何だ、あれは?」 「地図を確認しろ」 「……ありません。あんなもの地図にはのっていません」 「先行隊からの連絡はないのか」 「今のところ何も」 「何だか、嫌な予感がしますねえ」  吉水はそうつぶやいた。  確かに車はzataたちの列から離れることができず、そのzataたちはあの不気味な山を目指しているらしい。あそこに集って一体何をしようとしているのか。万里香は胸の鼓動が早くなった気がした。  その間にも隊員たちは情報の連絡や伝達に忙しそうだった。 「本部からの通信あり。東京の東陽町一帯でも巨大な山が出現したとのことです。詳細は不明。西部方面は引き続き、民間人の避難とzataの監視を継続せよとのことです」  実際はそのどちらもが可能とも不可能ともいえる状態なのを内心で笑ったのは万里香だけではなかったはずだった。  吉水が相変わらずの調子で言った。 「結構結構、これまで誰も見たことがないものを見られるんですからね。それも自衛隊の皆さんが護衛についているとなれば鬼に金棒ですよ」  黒い山に近づくにつれ、周囲のzataが増えて来た。それは車体が軋む音で知れた。彼らの走る速さは随分と遅くなっていて、今では自転車ほどの速さもなかったが、車は相変わらず濁流にのまれた木の葉のように押し流され続けていた。  先ほどの万里香達の移動の経験から、zataたちが人を襲う可能性は低いのではないかと思われた。だが、問題は今や彼らの数だった。今このzataの群れの中に放り出されれば圧死は免れないように思えた。  それを踏まえて加藤は皆に方針を告げた。  車がどこかで止まることがあった場合、車の上で、zataが通り過ぎるまで待機すること。そして、万が一の場合に備え、万里香たちにも拳銃が渡された。  だが、その方針はあっと言う間に覆されることとなった。  件の黒い山のふもとに到着すると、高機動車は斜面にぶつかり、横なりになって停止した。zataたちは山の斜面へ向かって我が身を放り投げており、車は後ろからくるzataたちにとってただの障害物らしく、考えなしに後ろからぶつかってくるzataたちの圧力により押しつぶされそうだった。 「退避だ!」  車の上も安全な場所にならず、一同は車から這い出ると、山の斜面を駆け上った。  zataたちは山裾部分を太らせながら中腹にもやって来る。幸い、予想通り、万里香達には目もくれず、ひたすら山への合一を目指していた。 「大丈夫ですか、吉水さん?」  後ろで息を切らしている吉水に万里香は声をかけた。 「や、正直、年寄りには、こたえるな」  だが、その周囲は銃を構えた隊員たちによって守られている。まだ一発も発砲はなされていなかったが、その脱出チームは万里香と吉水を中心にして移動していた。  これ以上、彼らの手を煩わすわけにはいかないと万里香は吉水の手を引こうとしたが、笑顔で拒否された。 「大丈夫。まだまだ行けるさ」  仕方なく、万里香は自分の足に力を入れた。  しばらく進んで山頂が見えてきたその時だった。下から悲鳴が聞こえた。振り向くと、最後尾にいた隊員がしゃがみこんでいた。 「どうした!?」 「足が、足が――」  言葉は不明瞭だったが、彼の足が斜面にずぼりとはまっているようだった。確かに、斜面の途中には固まっていないところがあり、そこを踏み込んだらしい。  両翼の隊員が慌てて駆けつけ、彼を引っ張り出そうとしたが、なかなかうまくいかなかった。 「下、気をつけろ!」  加藤の注意もむなしく、その場にとどまっていた三人は下から来るzataと鉢合わせになった。  zataは彼らに噛みつくようなことはなかった。だが、その進路を妨害した罪により、腕の一振りで、彼らの首を等しく切り離した。  斜面を転がり落ちる三つの塊に背筋が凍った。 「上へ進め!」  即座に下される加藤の命令に救いを感じながら万里香も視線を上へ向けた。彼らに追いつかれたら終わり。きわめて簡単なルールだった。 登れ。登れ。上へ。登れ。早く。一歩でも。登れ。登れ。登れ。  ふと振り返ると、すこし離れた距離を吉水が顔面汗ぐっしょりにしてついて来ていた。その後ろにzataは、いない。  吉水は息を切らせながら言った。 「あいつは、斜面に、なったぜ」  彼の片手には携帯端末が逃げられていた。この期に及んでまだ撮影をあきらめないとは。万里香は苦笑しながら、再び上を向いた。  そして、頂上に着いた。  無事たどり着いたのは、万里香に吉水、それに自衛隊の四人。  斜面を見下ろすと、大勢のzataが斜面にあふれていたが、中腹より上にいるものは数少なく、山は富士山のようななだらかな円錐形にその形を変えつつあるようだった。  自衛隊の隊員たちはじっと斜面を見据え、視線を離さなかった。途中で犠牲になった仲間たちを思っているだろうことは万里香にも想像がついた。  その中で加藤だけが辺りを見回し、つぶやいた。 「まずいな」 「どうしたんです、隊長さん?」  吉水がしんどうそうな顔で尋ねる。 「この地形です。周辺部は立っているのがやっと。盆地の部分も極めて小さい。もし、ここまで登って来るzataがあった場合、逃げる場所がありません」 「あ〜、確かに。逃げ込んだ場所は、袋小路ってわけですな」 「随分落ち着いているようですね」 「そんなことは……いや、助けてもらった方にこう言うのもなんですが、諦観ってやつなんですかね。もう今さらってのが正直なところで」 「……それでもできる限り守りますよ」  彼らの会話を耳の片隅で捕えながら、万里香は盆地の底を見つめていた。そう広くないその場所にやたら白っぽいzataが大の字に寝ている姿があった。それはなぜかひどく万里香の気を引いた。  考える間もなく、万里香は斜面を駆け下りていた。 「おい、どうした?」 「岸さん?」  万里香には直感があった。あそこにいるのは、あの全然色が違うzataは、彼なのではないか、と。  大きめの居間程度の広さしかないカルデラの底にたどりついて、その中央でうつ伏せになっているzataを万里香はまじまじと見た。  色は他の黒いzataとは違い、グレーがかっている。軽石のようなそれだ。大きさも幾分小さいように見えた。九州で見た時とも、途中の高速で見た時の姿とも全く違う。それでも、万里香の直感は予想を変えなかった。 「坂口さん」  返事はない。だが、彼は死んだようには見えなかった。 「坂口さん」  もう一度名を呼ぶ。  遅れてやって来た吉水が万里香の肩をつつき、小声で尋ねる。 「誰?」 「彼ですよ」 「彼って……クロタさんじゃなかったっけ」 「それは番組用の仮名です」 「ああ」  万里香は再び彼に向き直る。 「坂口さん、聞こえますか。坂口さんでしょ。無視しないで下さい、起きて下さいよ」  隣から吉水が再び口を挟む。 「坂口さん、失礼ですが、承諾なしで撮らせていただいてますよ。交渉は起きてからさせていただきますね」  彼の言葉を無視して万里香は声をかけ続けた。 「坂口さん、こんなところで寝てどうするつもりなんですか、坂口さん――」  突然、寝ていたzataが腰を浮かせ膝を立てた。 「!」  立ち上がった彼に万里香は躊躇なく駆け寄った。 「坂口さん!」  彼は万里香にまったく興味を示さなかったが、万里香はかまわなかった。 「これって、一体何がどうなってるんですか。ここにzataがたくさん集まって来て、山になって、どういうことなんですか、どうして坂口さんはここで寝ていたんですか」  万里香の相次ぐ質問を無視して、彼はゆっくりと周囲を見渡した。  それに応じて隊員たちは銃を構え、緊迫した空気が流れた。  彼はゆっくりと言葉を口にした。 「おまえたちはここで何をしている?」  逆に返された質問に万里香は違和感を感じた。  吉水がそれに対して不満を口にする。 「何してるも何も、あなたを追っかけて来たんですよ。彼女がきかなかったんですからね。それに、この山登るのすごく大変だったし。それを何をしている、はないでしょう」 「……俺のことが、分かったのか?」 「彼女には分かったみたいですね」  万里香は何だかバツが悪くてうつむいた。  目の前にある彼の体は前のような漆黒の溶岩ではなく、それが体のあちこちではがれ、むき出しになった白味を帯びた地肌がひどく痛々しく見えた。  彼は今しがた倒れていたその場所を見やり、再び顔を上げた。  そして、ゆっくりとカルデラの斜面を登ってゆく。 「ど、どこへ行く?」  加藤の詰問にも答えず、仕方なく一同はそろって彼の後をついてゆく。 「また、登るんですか、勘弁してくださいよ」  吉水がぼやいているが、取り合う者は誰もいなかった。  彼は火口の縁に立つと、周囲を見回した。万里香も黙って彼に倣った。  眼下には琵琶湖が悠然と広がっており、山の裾野は黒い蟻のようなzataがまだまだ無数に取り囲んでいた。京都の方からいつ果てるともなく集まって来ている。  なぜzataたちがこんな山の形になって眠りにつこうとしているのか、万里香には見当もつかなかった。だが、隣に立つ彼がそうなるのは嫌だという思いはあった。  彼が隣でぼそりとつぶやいた。 「どうして眠りについてしまうんだ?」 「え」 「どうせなら、人間たちをみなzataにしてしまえば、この世界で生きていけるのに……」  世界の簒奪者のようなことをさらりとつぶやく彼にそれでも万里香は怒りを覚えることができなかった。 「違うよ、坂口さん、あなたも人間だよ」  万里香がそう言うと、彼は彼女を鋭い目でにらみつけて言った。 「ふざけるな。俺はzataだ。人間なんかじゃない。あんな愚かで醜い人間なんて誰が好きでなっているものか。そもそも人間が俺を否定した。俺もそれを否定した。だから、俺はzataだ、人とは違う、zataだ」  彼が自分の言葉にここまで力をこめたのは初めてのような気がした。それは恐ろしくもあったが、万里香は勇気を振り絞り、彼に問い返した。 「じゃあ、どうして、坂口さんは他のzataと一緒にこの山の一部にならなかったの」  その問いに彼はわずかによろめいたように見えた。  そして、彼は上体を小さくゆらしながら、ひとりごとのように小声でつぶやいた。 「そうだ、俺は拒まれた。彼女に拒まれた。俺は不完全だった。zataであってzataではない。俺は彼らと一緒に行けなかった……」  吉水が息を切らせながら会話に分け入って来た。 「俺はあんたに一つ言ってやりたかったことがある。せっかくだから言わせてもらうぜ。あんたは偉そうに人間がどうのこうの言ってたがな、一体あんたは何様だ。zataだってちょっと病気にかかった人間だろ。人のことをどうこう言うんなら、自分も人間の一人だって頭に叩き込んでからものを言いやがれ。大体、自分だけ特別な場所においといて――いや……以上だ」  言っていて途中でばつが悪くなったらしく、吉水はそっぽを向いた。  彼は自分の両手を見てつぶやいた。 「俺は、人間か?」  手の平もかつての黒い鱗のような皮膚は剥げ落ち、灰色の肌が見えていた。  彼の問いに万里香は反射的に答えた。 「坂口さんは人間ですよ。前はzataだったかもしれませんけど、それでも人間には変わりありませんでした。それに今は、その体、治ってきてるじゃありませんか、自然治癒なんじゃないですか。坂口さんは貴重な症例なんですよ、きっと」 「俺が、人間……」 「そうですよ、坂口さんは――」  そう言う万里香の両肩は突然、彼の両腕につかまれた。人のような手ではあったが、人外の力はまだ残っているようだった。 「俺があんたに噛みついて、あんたをzataにしたとして、あんたはまだそう言い張れるのか」  彼がそんなことを言い出すとは全くの予想外だった。しかし、 「――」  万里香が声を飲むのと同時に隊員たちが再び銃を構え直した。 「坂口とやらに問う!」  加藤の厳しい声が山頂に響く。 「おまえはzataか、人間か? おまえが決めろ」  他の隊員がそれに続く。 「前みたいに不死身だと思わんことだ。その薄っぺらな体でこのMk17に耐えられると思うのか」 「お前がzataなら思う存分弾をくれてやる」 「や、やめて下さい!」  万里香は自分の立場も理解せず、そう叫んだ。そんなことはダメだ。何があっても彼は万里香を噛んだりはしない。そんな確信があった。  いや、それはただの願望だったのかもしれない。彼の顔が万里香の顔に近づいて来て、万里香の脳裏に不安がよぎる。確かに自分たちが彼にしてきたことを思えば、理解できないことではないが。そのまま彼の顔は万里香の首筋にうずめられる。 「やめろ!」  だが、万里香の首筋には何の痛みもやって来なかった。代わりに感じたのは、あたたかな水滴のそれだった。  安堵と羞恥の気持ちで揺れ動きながら、万里香は小さく息を吐いた。 「大丈夫ですよ」  万里香は彼に聞こえるだけの声でそう言った。  何も言葉にしなくても彼の気持ちが分かるような気がした。zataの仲間にも置いていかれ、一度捨てた人間にも戻り切れず、行き場のない彼の存在が目の前で震えていた。  ここぞとばかり吉水がフラッシュをたきまくる。まぶしさに顔をしかめると、急に彼が吉水の端末に手を伸ばし、それを取り上げた。 「ちょ、何するんです! やめろ!」  彼の抗議も無視して、彼の手の中で機械が壊れる音がした。 「あああ!」  吉水の悲痛な叫びがこだまする。  いい気味だ。万里香は少しだけそう思った。何でもかんでも記録される筋合いはない。記録されなくてもいいものはあるはずだ。  彼は手の中で砕いたそれを山頂からまきはなった。  彼の手を見ると、グレーの肌に、赤い血が流れていた。  万里香は彼から解放された。  そして、彼は自衛隊の面々に向かって答えを口にした。 「人としての言葉なら聞いてもらえるのか?」  少し考えて加藤がうなずく。 「善処する」  彼の低い声が響く。 「もうzataたちは何もしない。山になり、長い眠りにつくだけだ。だから、彼らには手を出すな」  それが今の彼の願いのようだった。  加藤はしばらく考えて言った。 「確約はできない。だが、上にはそう伝えよう」  万里香は彼の血の出た手を強く握りしめた。  そして、彼がつぶやくのを聞いた。 「もっと夢を見ていたかった……」  夢。zataであることが夢というのだろうか。zataであることを経験していない万里香には彼がzataの何に魅かれたのかは理解できない。だが、そのzataはもうこの世からいなくなる。そして、夢はいつか、醒める。  万里香は言った。 「寝てみる夢なんて何も面白くないわよ、きっと」  彼が少しだけ力を入れて手を握り返してくるのが分かった。それだけで彼女はここまで来たことが報われた気がしたのだった。                            完