第10章 割れた黒卵



 ヨクトに遅れること一時、道化は息を切らしたルチルの手を引きながら螺旋階段を駆けのぼっていた。
「しっかりしろ、もうすぐだ、もうすぐ地上だぞ」
 ルチルは涙と汗と鼻水でまみれた顔で道化の顔を見上げた。
「先に行っていいわよ」
 道化は彼女の言葉に耳を貸さず、強引に彼女の手を引いた。
「痛い、痛いわよ」
「うるさい。道化は行くぞ、だからおまえもついてこい」
「何よ、あなたがあんなこと言わなければ……!」
 泣き崩れるルチルを道化はありったけの力で背中にしょった。
「ヨクトなんて糞くらえ。一旦退場した奴に舞台に上る資格はないのさ。墓場で自分の骨の数でも数えてやがれ」

 ヨクトはアースィとともに城の三階の王の間にかけ込むと、急いで扉に鍵をかけた。そして、その段になって初めて、外に逃げなかったことを後悔した。
「他の者はどうした?」
 アースィが緊張した声で言った。
「皆、荷物をまとめて出ていったようです。あなたのような異形の王に従い、西の大国との戦を戦う気にはならぬのでしょう」
「……おまえは、なぜ残っていた?」
 アースィは息を整え、ヨクトを見返した。
「フォルティーズの軍に対する手段を、魔女に願ってしまったのですか?」
「……」
 ヨクトはうつむいて苦笑した。
「何がおかしいのです」
 むきになってアースィはつめよった。
「いや、肝心の願いは、何もできなかったと思ってな」
 アースィの顔がぱっと明るくなった。
「思いとどまっていただけたのですね。兄にこのことを知らせます。何としてでも兵を引き上げるよう説得してみま……」
 はやる気持ちを抑えられず、言葉の途中で部屋を立ち去ろうとする彼女の腕をヨクトは再び引っ張った。
「何を!?」
「やめておけ」
「どうしてですか、ひょっとしたらまだ……」
「もう、そこまで来ている」
「いえ、さきの早馬では兄の軍はメルクール候領を落としたばかり。この城まではまだしばらく……」
 そう言いかけたとき、扉を荒々しく打つ音が響き、アースィは思わず身を縮めた。
「魔女だ」
 アースィは表情を消してヨクトの顔を見つめた。ヨクトはすぐに自分の言葉を訂正した。
「いや、かつて魔女だったものだ」
 アースィは振り返ると、猫のような素早さで扉に近づき、その隙間をのぞき込んだ。それと同時に扉は大きく波打ち、彼女は後ろによろけた。ヨクトは彼女を素早く両腕で受け止めた。
「俺はしくじったらしい」
 ヨクトの言葉を聞いている風もなく、彼女は今度は窓際に駆け寄った。そして、窓の外をのぞいて愕然とした。
 城と城壁の間は既に、得体の知れない蠢く黒い影で覆い尽くされていた。そして、それはゆっくりとではあるが、城壁の外に向かって広がってゆこうとしていた。
「あれは……一体」
 かすれた声でアースィはつぶやいた。
 ヨクトは苦渋の声でそれに答えた。
「あれが、我がブローシュダークの頼るところの、魔女だ」
「このままでは、この国は魔女に呑み込まれてしまいます。何か方法はないのですか」
 気力を振り絞る彼女の言葉に対し、ヨクトは薄ら笑いを浮かべた。
「仕える者とていない国だ。どうとでもなるがいい」
「ヨクト様!」
「魔女あってのブローシュダーク。魔女がこの有様では滅びるのも当然だろう」
「それでも、あなたはこの国の王ではないのですか」
 アースィの叱責にヨクトの顔から狂気が薄らいだ。
「王か、あれほど望んでいた王なのだな、俺は……」
「ヨクト、様?」
「……魔女の前に出て、願いをかければ、あるいはな。だが、その扉を開けたら、一瞬で魔女に呑み込まれよう」
 絶望的な状況にアースィの体から力が抜けた。
「どうにも、ならないのですね……」
 ヨクトは拳で石の壁を打ち付けた。鈍い音が部屋に響き渡る。
「あのいまいましい道化のせいだ。それにあの女。拾ってやった恩を忘れ、勝手なことばかりしおって。……これからだったのだ。ヨタを追い落とし、うるさい司祭は切って捨てた。あとは俺一人が魔女の力を御し、ブローシュダークの名を大陸中に知らしめるつもりだったのだ。それを……」
 アースィは悲しげな目で骨の男を見やった。
「なぜ、力を望むのですか」
「力を求めて、なぜ悪い! そこに力があるのだ。力を使わぬことこそ、罪ではないのか!」
「力を使わずとも、ブローシュダークは平和だったではありませんか」
「今、そなたの国が何をしている!」
 いまいましげなヨクトの声にアースィは顔を伏せた。
「勿論、兄の行い全てを肯定するわけではありません、ですが……」
 ヨクトは椅子にどさりと腰を下ろした。
 窓から見える晴れ渡った空とは裏腹に、部屋の外からはまるで嵐のように扉のきしむ音が聞こえてくる。
「俺の母は、俺たち双子を産んだときに死んだ。国王である父は、魔女の力を使えば、母を生き返らせることができたものを、そうはしなかった」
「当たり前ではないですか。人が死ぬたびにそんなことをしていたら、この世の理はなくなってしまいます」
 ヨクトは凍るような視線でアースィを見つめた。
「最愛の人間を亡くして、力を目の前にした時、本当にそう言えるか」
 ヨクトの瞳に映った怒りの色はアースィに反論を許さなかった。
「あとになって知った。実は、父も誘惑にのったのだ。魔女に母の復活を願ったのだ。だが、俺たちは母の顔を見た記憶はない。なぜだか、分かるか? それがどういうことなのか。そのあとすぐ……父は、母の死を願ったのだ」
 扉を叩く音が次第に強くなってきた。
「それが正しい力の使い方か? 何が正しいか誰が決める。神か。……ならば、なぜ、魔女は存在するのだ?」
 ヨクトは椅子を回して彼女に背を向けた。
 窓からは、黒い影が城壁に取り付き、波のようにうねっているのが見て取れた。
 この国も終わりだ、ヨクトはそう実感した。
 やりたいことはいくらでもあった。魔女の力を使えば、無限の可能性が開けるはずだった。しかし、そのすべては夢と消えた。
 彼の肩に後ろから細い二本の腕が抱きついた。
「……怖くはないのか、この体が」
「あなたの声を聞いていますから」
 ヨクトは顔を傾け、頬を彼女の手にそっと押しつけた。
「人の鼓動をきくのは、久しぶりだ。本当に、久しぶりだ」




 道化に引きずられるようにベルクフリートに踏み入ったルチルは、乱雑に倒れている椅子にけつまずいた。
 床に倒れると、こらえていた涙が再び目からこぼれた。
 途中までルチルをかついでいた道化もほとんど体力の限界だった。
「馬鹿野郎! 泣いている暇なんて!」
 道化は彼女に手をさしのべながら、耳障りな音の迫ってくる、自分たちが駆けてきた方に目をやった。すると、すごい勢いで廊下の奥から黒い塊が部屋に噴き出してきた。
「!」
 道化は一番近くにあった扉にルチルを連れ込み、慌てて扉を閉めた。
「危機一髪……」
 道化はそこが宝物庫に続く廊下で、出口は入ってきた扉しかないことに思い至った。
 道化はうつむいてすすり泣いているルチルの手を引き、廊下を進んで奥の宝物庫に入った。円形の塔の一階であるこの部屋の扉は厚い鉄でできており、ちょっとやそっとのことではびくともしないように思われた。
 だが、部屋に整然と積み上げられた箱の向こうから一筋の光を認めると、道化はあわてて壁にかけより、明かりとりの拳ほどの小さな窓に空の麻袋を栓代わりに押し込んだ。
「これで、しばらくは大丈夫だ……」
 道化はうなだれているルチルの肩にこわごわと手を置いた。だが、ルチルは何の反応も示さず、じっと床を見つめていた。
 かける言葉を見つけられず、仕方なく道化も近くの木箱に腰をかけた。
「……俺が悪いんだ。無限の願いをかけられるようにするなんて……魔女が増えるのは想像ついてた。けど、それもあの部屋を一杯にするくらいだと思ったんだよ。それであの部屋がつぶれてしまえば言うことなし、そうでなくても、ヨタ様が王位に戻って、魔女の力をうまく使ってくれると思ったんだ、だから……」
 道化の頭に以前の聡明なヨクトの姿が浮かんだ。
「こんなことになるなんて思わなかった。まさか、こんなことに……ちょっとした賢者を気取ったつもりが、やっぱり、道化は道化さ……」
 道化の独り言は虚しく部屋に響いた。麻袋の隙間からも差し込んでくる細い光の筋に白い埃が無心に舞っていた。
「いずれ、誰かがやったことだわ」
 ルチルがつぶやいた。
 道化は恐る恐る彼女の顔を見やった。
「あなたがやらなくても、他の誰かが、いつかやるわ」
「ルチル……」
 彼女の顔はその美しさとは不釣り合いな程に表情が消えていた。彼女の顔はそこにはなかった。
「そして、自分の欲深さを呪うのよ」
 ルチルは道化の仮面にぴたりと手を当てた。
「あたしは、ヨクト様の復活と、誰にも負けない顔を。あなたは、ヨタ様の再起とその仮面、それに、このあたしね……」
 道化はしどろもどろになって弁解した。
「ち、違うんだ、あれは、あんたは、あんな奴のいいなりになってちゃいけないんだ。あいつはあんたのことなんか何とも思っちゃいない。あきらめなきゃだめなんだ。この道化のことなんかどうでもいい、あんたは俺のものじゃないし、誰のものでもない。あんたは自由なんだよ」
「あたし、馬鹿だったわ」
 遠い目をしてルチルはつぶやいた。
「思いつかなかったのよ。あの人の心を魔女に望めばよかったのに」
 道化は魔女と対面した自分を思いだした。
 ルチルの心を望んでいたら……
 道化は両の瞳でまっすぐに彼女を見つめた。
「そんなことないさ。だって、失望しかないって、分かってるはずだろ」
 道化の仮面は、以前とは違い微妙な表情をたたえていた。
 ルチルはそれが仮面だとはどうしても見えなかった。これまで光のなかった道化の右の瞳は、確かな力を持って自分に向けられていた。
「……あたしたち、どうなるの」
 柔らかな笑みを浮かべて道化は言った。
「退屈しないことは請け合うさ、何しろ、ブローシュダーク一の道化がいるんだから」




 ヨクトは頬にアースィの温もりを感じながら、どこかで自分を呼ぶ声を聞いた。空耳かとも思ったが、彼女の宙を泳ぐ視線がそうでないことを告げていた。
 二人は窓をのぞき込み声の主を探した。
「あそこに!」
 アースィが丘の中腹辺りを指さした時、ヨクトの目はとうにその人物を捜し当てていた。
 いつの間にか姿を消していたヨタが丘の中腹に立ち、こちらを見据えていた。
 だが、ヨタの近くにも魔女は迫ってきていた。思わず顔を背けようとするヨクトをアースィは両手で押しとどめた。
「……まだ、間に合うわ」
 ヨクトは腰の剣を握りしめた。何をすればいいのかは分かっていた。だが、自分を納得させることはできそうになかった。
 これをヨタに渡す? あの兄に。勇気のない、臆病な、人の目しか気にすることのない、ヨタに渡せというのか。
 その時、何かが破裂するような音が後ろで響いた。振り返ると、扉が割れて魔女の分身が黒い雪崩のように部屋に侵入してきていた。
 そして、ヨクトは魔女と自分の間にアースィが手を広げて立ちはだかるのを見た。何の役にもたちはしないのに。馬鹿な女だ。俺のためか。ヨタのためか。それとも、自分の国のため。いや、何も考えていないに違いない。俺は守られようとしているんだ。この女に……守られる
 時間の止まったような思考の後、ヨクトは咄嗟に腰の剣を鞘ごとひきちぎり手にとっていた。
 そして、外のヨタに向かって大声で叫んだ。
「受け取れ、ヨタ!」
 大きく振りかぶって槍のように投げられた剣は、窓を突き破り、空を切って、丘の中腹のヨタの足下に突き刺さった。
 アースィの悲鳴が聞こえた。ヨクトは振り向きざまに彼女を体全体で抱きかかえた。魔女の影が覆い被さってきたが、不思議と吐き気はなかった。彼の頭の中では彼女がある人物の面影と重なっていた。
 なるほど、これも、そんなに、悪く……ない
 そう思いながらヨクトは自分の意識が薄れてゆくのを感じていた。
 黒い闇にのまれ、そこにあるすべてのものが凝縮した。人も、物も、魔女さえも。黒卵城の中にいたもので、時が止まったことに気がついた者は誰もいなかった。




 ブローシュダークはヨタ王の力により魔女の力をすべて無に帰すことに成功する。
 魔女の時よ、永遠に止まれ
 最後の願いは、聖剣を折り、そして、かなえられた。ブローシュダークは魔女という楔からようやく解き放たれたのだった。
 カスパール候領を目指していたフォルティーズ軍は急な吹雪のため、本国への撤退を余儀なくされた。だが、その後半年を待たずして、ブローシュダークは南方蛮族の侵入を受け、二百五十年続いた歴史に幕を下ろすことになる。
 しかし、黒卵城は、城壁もなく、塔も部屋もなく、ただ一つの巨大な石の塊と化して、その内部に誰の侵入も許すことなく、今でも丘の頂上にひっそりとそびえ立っている。そして、「割れた卵」という別名がその地に住まう者の間で語り継がれているが、その由来を知る者は今では誰もいない。





END




表紙へ