「……望美か!?」
 真っ直ぐによく通る声が呼びかけてくる。
 聞き覚えのある、声。途端に急いた足音が壁の切れ目から響いてくる。
 俯きがちの視線を床に落としていた望美は、思わず顔を上げた。途端、視界に翻る鮮烈な白。どこか薄暗い宮殿の中で、鳶色の髪は一層あたたかな色味を帯びて陽光のような印象を与える。
「九郎さん!?」
 見間違いようもなく、九郎そのひとだった。八葉の一人であり、望美が身を寄せた源氏の軍を率いる武将。
「無事か? どこか怪我などしていないだろうな」
 駆け寄ってきた九郎が両掌で望美の肩を掴む。あの闇に喰われた時のように消えゆくのを留めようとでもいうのか、その力は望美にとっては少し強かった。けれどそれが厭ではない。胸中に渦巻いていた不安を跡形もなく融かし、やわらかな安堵に変えてくれる。
「はい、私は平気です。九郎さんこそ大丈夫ですか」
「馬鹿者。兄弟子を見くびるな」
 望美の気遣いを素っ気なく斬って捨てる、そんなところが本当にいつものままの九郎らしい。普段だったらむっとして言い返しそうな口ぶりだが、今はそれが逆に嬉しかった。望美は少し笑う。
「お前までここにいるということは……やはりあれはただの夢ではなかったのか」
「そうみたいですね。他のみんなはどこにいるんだろう」
 呟いた望美は、はたと気づいて傍らの九郎を見上げた。その視線を受けた九郎がなんだと見返してくる。
「でも九郎さんは、なんで私のいる場所が分かったんですか?」
 たまたまごく近くにいて見つけた、という可能性もあるだろう。しかし九郎の足音には、声をかける前の段階から迷いがなかった。まるでそこに誰かがいるのを最初から知っていたかのように。
 じっと見つめる望美の瞳を、九郎はふいと顔を逸らして避けた。あれ、と望美が思う間もなく、薄っすらと赤みを帯びていく精悍な頬は気のせいではないだろう。
 この兄弟子は平時の接近戦に弱い。戦と剣の話題以外でこうして近寄って凝視すると、かなりの頻度で敵前逃亡をやらかす。それは実のところ相手が望美に限った上での話なのだが、もちろん望美はそんな九郎の事情までは知らない。
「……別に、理由などない。偶然だ。気配を読めば人がいるくらい分かる」
「でも九郎さん、私の顔を見る前に、いるのが私だって分かってたみたいじゃないですか。私、ほとんど声を上げてなかったのに」
「…………っ」
 九郎が息を詰めた。望美は彼の返事を待って口を噤む。
 沈黙によって満たされる静寂。しばらく後、それは何者かの靴音によって不意に破られた。

 

(【桃李園】喪失より)

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