目が合った瞬間に拙いと思ったのだが、既に遅かった。
 足腰を萎えさせる訳にはいかないと、平泉の地理を散策しながら覚えることが九郎の日課だった。御館秀衡が作ったと教えを受けた金鶏山は、その謂われの通り小ぶりなものだったから、今の九郎の足では物足りない。それでも遠出の前と戻った後と、何となくその山に立ち寄って平泉の街を眺め下ろすのが好きだった。鞍馬の山中とは随分と趣が異なるが、こんもりとした木々が生い茂る山からの景色もまた見事なものだと思う。
 木立を抜ける風とは違う音が耳に届いたのはその時だった。
「───ん……?」
 枝や葉擦れの音ではなかった。水音でもない。そういった山全体から生まれる音ではなく、かと言って人の気配でもない。聞き違いかと九郎が首をひとつ振った瞬間、またしてもその音が聞こえた。同時に響く、かさりと下生えを掻き分ける音。
 ぱちり、と互いの目が合った。
「あ……」
 思わず声を洩らした九郎の足元に、それは毬の転がるように駆け寄ってきた。まだうまく歩けないのか足取りは覚束なく、ぽてりとした四肢は体格と比較してやけに太い。全体を隙間なく覆った短い金茶色の毛並みは、今の時節が秋ならば枯草に紛れてしまいそうに思われた。

 ───くぅん。

 それが、黒光りする鼻を鳴らして声をあげた。先ほど聞きつけたのはこの音かと九郎は納得する。屈み込んで膝をつくと、小さな鼻が必死にひくひくと動いた。何かを嗅ぎ取ったのか前脚を九郎の膝にかけ、伸びあがって衣の合わせに頭を突っ込もうとする。
「あっ、こら。よせ」
 よじ登られる感触はあまりに他愛ない重みで、それがいとけなく感じられた。だから咄嗟に制止の声を上げたものの、実際には手を添えて、転がり落ちそうな小さなそれを抱き上げていた。
 ───くうん、きゅうん。
 九郎の手の中に収まったいのち───犬の仔は、絶えず鳴き声をあげていた。もぞもぞと四肢を突っ張ってしきりに降りたがるので手を離してやる。すると仔犬はまたしても九郎の胸元に入り込もうと奮闘を始めた。
「なんだ、お前、腹が減っているのか?」
 胸元には遠出の途中で育ちざかりの小腹を満たそうと、握り飯を入れていた。恐らくはその匂いが、仔でありながらも鋭敏なけものの嗅覚に訴えているのだろう。

 

(【ぬくもり】昔日より)

ウィンドウ閉じる