「……九郎、さん」
「なんだ?」
 天井との間にある九郎の顔を、その瞳を真っ直ぐに見つめながら望美は声を上げた。
「私、まだ一度も、言ってもらってません」
「なにをだ」
 それらの意味が分からない訳ではない。迷いなくそれを口にする九郎の想いも。けれど望美が欲しかったのは、立場よりも呼び名よりも、もっと単純なものだけだ。確たる言葉でただの一度ももらっていない、とてもとても単純な。
「九郎さんはどうして、そんなふうに私を傍に置くんですか」
「何故って───お前、分からないのか」
「分かります。ちゃんと分かってます」
「ならば」
 今更、と恐らくは続けるつもりだったのだろう九郎の唇に、細い指先がついと触れた。
「でも、ちゃんと言って欲しい。分かってるけど、九郎さんの声で聴きたいんです。私の独りよがりじゃないんだって」
 見交わす瞳の真摯な色に、想いを読み取れぬほど愚かではない。
 けれど、一度だけでいいから。
「好きです。九郎さんが好きだから、私、帰ってきました」
 証が欲しい。
 自分だけではないのだと、信じさせて。
「……九郎さん、は?」
 九郎はじっと、身じろぎもせずに望美を見つめていた。
 やがて九郎の手が動き、唇に添えられたままだった望美の指先をそっと包み込んで退けた。そのままこちらの目じりに伸びた彼の指が撫ぜるように動いたことで、自分が涙を浮かべているのを望美は知った。
 互いの瞳がこれ以上ないほどに交わる。

 

(【蜜月】より)

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