はらり、と。掌に舞い降りた薄紅を見つめる娘の瞳は、穏やかな寂寥を湛えていた。
「───もう、桜の季節なんだね」
呟いて彼女は頭上を振り仰ぐ。満開とも呼べるほどの見事な桜の樹、その下に佇む姿は桜の化身でもあるかのようだった。あえかな仄白さが夜風に舞い散るのを、ただじっと見つめる大きな瞳。
「見納めだな」
淡い朱に色づく唇からこぼれる声は、どこか痛みを秘めて。
細い指先がたぐり寄せる、真白の鱗。
「……何度、繰り返せばいいんだろう?」
彼女がその鱗に願えば、彼女はこの春を越えて冬の川辺へ戻る。この春を無かったものにして、彼女の中にだけ眠る想い出にする。それがつらくないと言ったら嘘だ。築き上げたものが一瞬で壊れる───在ったという証すら残さず、誰も気づかない。積み重なった記憶と絆は彼女だけのもので、この世界で知り合った仲間たちから消え失せる。彼らにとって彼女は、なかば迷信と化した伝承の名を語るだけの存在になる。
それでもまだ、救えていないひとがいる。
だからここで立ち止まる訳には、いかない。
彼女はゆっくりと瞳を閉じ、指先に力を込めた。硬質の冷たさを持つ筈の鱗が、ほんのりと熱を帯びていく。閉じた視界にさえ白く広がる神秘のひかりが、あと少しすれば彼女を包み、この時空から連れ去っていく。
その刹那だった。
「望美」
呼ばれた名に、響いたその声に。
娘───望美はびくりと肩を震わせた。
「どうしたんだ、こんな夜更けに」
そう言いながら近づいてくる男から、望美は逃げ出したかった。たった今、目の前のこのひととの絆を捨てて、運命を紡ぎ直そうとしていたのだから。
けれど望美の身体は棒を呑んだように立ちすくみ、身じろぎさえ叶わない。そうするうちにその男は望美のすぐ傍らに立ち、そっと彼女の肩に手を添えてきた。
「…………」
「冷えている。お前、どれだけここにいたんだ」
咎めよりも案じる色を強く含む声音。柔らかに肩を包む掌。
このひとがそんなふうにもできるなんて、望美は今までちっとも気づかなかった。口を開けばいつもいつも喧嘩ばかり、気も融通もきかなくて、配慮のない物言いと力加減のできない無骨さで。その彼が、こんなにも壊れ物をくるむように自分を扱うなんて。
そんな彼も、これが最後。
(【春宵恋唄】序章より)