仔犬と仔猫

 

 ちょん、と鼻先をくっつける。
 もう少しで唇が触れ合いそうな、けれどその手前の仕草。近すぎると、意外にも視線は合わないものだと知った。
 ふわりと額を寄せれば、互いの髪がこちらに触れるやわらかな感触。
 とてもあたたかいそれは、日向のような心地がした。

 するりと首筋に這った少女の髪が薫る甘さに、眩暈をひとつ。





「九郎さんのにおい〜」

 うふふ、と笑う望美は酔っぱらいのように機嫌がいい。
 もっとも彼女が酒に手を出した挙句に酔ったところなど、九郎は見たことがないのだが。こちらの世界では齢二十を過ぎるまで飲酒は禁止されているのだと聞いた。更に、九郎は規律に厳しいほうである。決まりは従うためにあり、法は守るべきものである。こちらの世界で酒に関する法がそう定められているのなら、望美にみすみす破らせる九郎ではない。
 それにしても、と九郎は内心で嘆息する。

「どうしたんだ急に」

 彼女のお気に入りなはずのマグカップは、中身を半分ほど残したままで、ローテーブルの上に放置されている。向かいに置いてある自分の茶碗は、望美に先ほど取り上げられたものだ。なんだと訊ねる前に、ぴたりと脇に張りついてきたぬくもり。

「なんでもないですー。ちょっと、甘えたくなっただけ」

 くふくふ、と幼子のような笑い声をたてて、望美はこちらの首筋に顔を埋めている。
 本当に楽しそうな様子だから、九郎も引き剥がすことはしない。
 誰の目も届かない二人きりの空間で、そんな真似をする必要はどこにもない。

「……お前は動物の仔か」

「人間だって動物ですよー」

 ふと、ぬくもりが動いて、離れていった。
 すうと冷えた空気が肩から首を撫で、そう寒い時節でもないのに何故か侘しい心地を持て余してしまう。
 ───彼女が身を寄せてくるまでは、それが当たり前だったのに。

「動物ならねえ、九郎さんは……うーん、やっぱり犬」

「は?」

 深い翠の瞳が悪戯げな光を帯びて、九郎を覗き込む。
 ああ、こういうのもいいな、と九郎は思う。
 この瞳を見るのが好きだ。間近で映りこむ自分の顔を眺めるのが好きだ。この上なく美しい月の双眸に射竦められるなら、桂など折らずに囚われたままでいたい。

「むくむくの仔犬とか。元気いっぱいで人懐っこいくせに、ちょっと寂しんぼなの」

「…………」

「それでね、飼い主には絶対服従。わーぴったりじゃないですか」

 続ける望美の髪をするりと梳いて、指先に絡めた一房を九郎は食んだ。

「それならばお前は猫のようだな」

「猫、ですか? 私が?」

「気分がころころ変わる。怒ったかと思えば、もう笑っている」

 ちいさくて、やわらかくて、あたたかくて、しなやかで。
 壊れそうなほど頼りないのに、意外にも鋭い爪を隠し持っていて。
 触れようとしても、意に副わないときはすんなりと逃げおおせてしまう。
 懐きかけたばかりの仔猫と戯れているようだ、と九郎は思う。

 見下ろした彼女の瞳がきょとんと瞬いているのを見て、男の唇は、ふと笑みを刻んだ。





「…………っひゃ」

 す、と細い喉元に這った指先は、望美のおとがいから耳朶までをゆっくりとなぞった。
 濃密なひとときの前触れとも違うその触れかたに、望美は軽く背を粟立てながらも、ぷるぷると首を振る。

「くすぐった……! 急になんですか、もう」

「猫はこうすると喜ぶんだろう? 喉を鳴らすというじゃないか」

「私、本物の猫じゃな───っんん」

 抗議の途中で、耳朶へ置いた指が再び喉まで動いていく。
 首から上はすべて急所だと、あの世界の戦乱を駆け抜ける中で身に染みた。僅かに掠っただけでも命取りになりかねない、神経の極度に集中する部位。目をやられては敵が見えず、耳をやられては後方の音に気づけず、頭蓋に頚動脈に、致命的な負傷の候補はこと欠かない。
 それが、どうだろう。
 決して自分を傷つけないと知っている手であれば、他人に触れられることは少しも怖くなかった。くすぐったいような、それだけではないような。このひとの手そのものは節くれだってごつごつとしているのに、指の腹だけは少しやわらかいこと。こうして触れられるまで、知らなかった。

「んっ……ゃ、やだっ、ほんと、くすぐったい……っ」

 いやいやと首をちぢこめ左右に振って、厭だと精一杯の意思表示をする。
 九郎はそれを気に留めた風もなく、空いていた片手で望美の首の後ろをぐいと掴んだ。髪ごと鷲掴まれて頭をめいっぱい逸らさせられれば、指先が本物の猫にするように、顎の裏側をゆるゆると撫ぜていく。

「ほら、喉を鳴らしてる」

「───ば、かあっ」

 くすぐったさか、それとも別の感覚にか。
 涙目の少女にくつりと笑い、男は愛らしい罵倒を紡ぐ唇を塞いでしまった。

 啄ばみ、咬みあわせる。下唇、上唇、舌先を絡めて軽く歯を立てる。痛みと愉悦のぎりぎりの境目に、唾液がじわりと湧き出す。粘膜同士の擦れ合いは痛みを伴うから、潤し滑らかにするために濡れる。くちづけるという行為は、契りととてもよく似ている。
 触れ合わせて、つなげて、掻き回して。相手の感触にひたすら没頭する瞬間。

「…………っ───ふ、はぁ」

 洩れる僅かな吐息の音すら、残らず己の中に喰らって閉じ込めたい。
 仰向かされた少女の細い喉を、唾液がゆっくりとつたい落ちていく。





「仔犬は親愛の表現として、よくじゃれついては噛むものだぞ」

 胸にもたれかからせてやっても、ぼんやりと焦点の合わない瞳の望美に。
 九郎はしれっとした表情で、悪びれた様子もなくそう言った。

 

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**ひとこと**
神谷さまへのプレゼントSS、リク内容【九望髪鷲掴み濃厚ちゅー/ラブラブ大前提】。(原文ママ)
えーと…これ一体誰なんですか。(超真顔) どこの朱雀か龍神だこの男!
飲酒は20歳未満一律禁止だけど結婚は女子の場合16歳から制限つき解禁でよかったね九郎(爆)。
あ、ちなみに『月の桂を折る』は故事成語で、立身出世の意味です。まあこの人は源氏より神子を選ぶ人だから。

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