晦日つごもり月を愛で

 

 彼女の顔が次第に浮かないものになっていく。
 それに気づいていた者が他にいたのかどうかは、分からない。けれど誰かがその小さな背を追う前に、自分こそが傍に居てやりたいと、そう思った。
 居てやりたい───違う。自分が、居たいのだ。

 彼女の、傍に。

 

 

「……あら、望美。もういいの?」

 あまり箸の進まないらしい望美を気遣って、朔がそう声をかけた。
 俯けていた顔をぱっと振り仰ぎ、望美はにこっと笑ってみせた。

「え、まだまだ余裕だよ。朔こそ、もっと食べなきゃもったいないよ。お椀貸して、年越し蕎麦取ってあげるから」

「───え、私は、もう……」

「いいからいいから!」

 椀に温かい蕎麦を盛って差し出せば、朔の困ったような微笑みが望美の視界いっぱいに飛び込んでくる。よく見慣れた、優しい親友の表情の一つ。

 ああ、この顔も、見納めなんだ。

 そう思う。ごく自然に、それを受け入れてしまっている。
 迷宮の怪異を解決し、五行が流れ始めれば───白龍の力は満ち、時空の扉が開く。そうすればあの異世界から来たひとたちは、還っていくのだ、彼らの世界に。

「…………」

 笑顔のままで、いられていると思う。
 少なくとも表情だけは。

「望美?」

 けれどこの親友には、きっとその強がりも通じないのだろう。

「ううん。私もお替りしたくなっちゃった」

 通じないけれど、彼女はきっと自分が相談しない限り、見て見ぬ振りをしてくれる。
 望美は自分のお椀を取ると、ゆっくりと蕎麦を盛り始めた。一口食べたそれは、美味しいはずだと思うのに、味などちっともしなかった。

 

 

 ふとした拍子に目で追っていた少女の姿が、人目を避けるようにリビングを出て行く。
 そのまま戻ってくればよし、戻ってこなければ探しに行く。九郎はそう決めていた。普段はあれほど無駄に明るいくせに、何かを抱え込んだ途端、その豊かな生気の発露は無残にも喪われてしまう。
 そんな望美を、九郎は見たくなかった。
 心弱くなった時に、何もしてやれず、ただ遠くから眺めることだけは、したくなかった。

 夜の海でその姿を見つけた瞬間。
 安堵以上に強かった、己の不甲斐無さへの憤り。

「酒を楽しむ顔をしていませんよ、九郎」

 くすりと笑った弁慶の指摘は、恐らく正しいのだろう。九郎自身もそう思う。
 気心の知れた者たちと交わす杯───のはずが、招かれた御座所の酒宴のように、ぴんと張って切れない緊張の糸が全身に張り巡らされているのが分かる。

「興じてはいないからな。つまらん訳でもないが」

「軍議の真っ最中のような顔ですね」

「そうか」

 命をかけて未来を掴み取る、そのための心構えを固める時間。
 それならば確かに、軍議の際と今の心境は、似ているのかもしれない。

 ぼんやりと考えながら新たな酒を注ごうとした九郎の手は、弁慶にぺしりと叩かれた。

「味わいもせずに鯨飲するなど、勿体無いでしょう。ただでさえ君はうわばみなんだから」

「…………」

 反論する気も、何故か起きない。飲みたくて飲んでいる訳でもなかった。
 九郎は左手首にはめた腕時計に視線を落とした。長い針の指している場所が明らかに、望美が出て行った時の位置から動いていた。それでも彼女は戻らない。

「……少し、出てくる」

 唐突な九郎の言葉にも、弁慶は驚いた様子はなかった。

「外は寒いですから、上着を羽織っていったほうがいいですよ」

「そうだな」

 リビングを出て行く九郎の背中に向けた弁慶の声は、彼には聴こえなかったようだった。

「───早くしないと、彼女が凍えてしまいますからね」

 

 

 部屋の外に一歩足を踏み出すだけでも、空気の温度がかなり違う。さすがに大つごもりから新年を迎えるこの時節では、平泉ほどではないが鎌倉も冷えるものだ。彼女が備えもなしに、ふらふらと出歩くのを放っておけるような気温ではない。
 望美がどこへ行ったのか、分かっている訳ではない。けれど彼女のことだ、自分一人になれる───戸外にいるのだろう。悩みを抱えて考え込む時の、望美のそんな癖。自分の身をわざわざ厳しい状況に置こうとするのだ、あの娘は。

 それくらい知っている。
 ずっと、傍にいたのだから。

 そんなことを考えながら玄関を出れば、案の定、庭に紫紺の影が見えた。
 夜闇と融けあいそうな色合いのはずなのに、優しい光を放つように浮かび上がる、その少女。大つごもりの晩に地上へ降りてきた満月の姿を、九郎はしばらく見つめていた。

 気が強く口の減らない娘。
 なまじの武士よりみごとな覚悟と腕前を持つ戦神子。
 意地を張るところがあって、素直でない時があって、弱みを人に見せることを嫌う。

 九郎の視線の先で俯く望美は、そんな今までの認識とはまったく違う生きものに見えた。
 それとも、そう見えるのは、自分自身の心が今までとは違っているからなのか。

「また、こんなところで考え事か?」

 びくりと跳ねた肩。振り向く瞳に残る雫の跡。

「抜け出すなら、一言そう誰かに言っておけ」

 ああ、違う。
 こんなことを、言いに来た訳じゃない。
 目の前で再び俯いたつむじを見下ろしながら、九郎は内心で己に舌打ちする。

「……心配させるな」

 そっと頭を撫でれば、望美は小さく鼻をすすった。
 それは寒いからではなくて、泣いていたからだ。どうせこの意地っ張りのことだ、別れを寂しく思っていても、決してそうと自ら口にはしないだろう。自分一人が堪えればいいのだと思っている。
 ───そんなところはよく似た思考の、妹弟子であった娘。

 もう、これで、さよならなんですね。
 頼りなく紡がれた少女の声は潤んでいた。

「…………」

 そんな声で別れの挨拶を聴かされて、九郎の喉奥にひっかかってはごねていた言葉が、するりと枷から抜け出した。
 無意識にその細い肩に触れ、こちらを向かせる。戸惑ったような望美の頬を濡らす涙にそっと指を這わせた。

「一つだけ、聴いてくれるか」

「……はい」

 仲間。白龍の神子と八葉。兄弟子と妹弟子。
 望美と自分の関係を言い表す言葉はざっと思い返すだけでも複数あったが、それだけでこの感情を説明することはできなかった。鈍く無骨な九郎であったから、それに気づいて認めるまでに、相当の時間を要した。
 けれど、結局、出てきた答えは───。

 

「……お前が好きだ。一人の女性として」

 

 この胸の中で常に輝く、磨き上げた真円のような、その月への想い。

 

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**ひとこと**
95000Hit申告のグインさまへのプレゼントSS、リク内容【迷宮ED告白シーンを九郎視点で】 。
肝心の九郎視点部分が後半にならないと出てこない(笑)。本当にもたもたと往生際の悪い九郎ですみません。
どうも私のイメージする九郎は「腹が決まるまでが激烈にスローペース」です。そのくせ決まれば後は直滑降(爆)。
そして相変わらずフォロー係の朔(対神子)と弁慶(対九郎)、ううぅまた使ってしまった…。精進精進。

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