夢の向こう側

 

 どうせ見るなら人間の顔を見たいものだ。
 目の前に積まれた書面の山を見ながら、九郎は内心でうんざりと嘆息した。

 

 

「それでこちらが終わったものですか?」

 この場合、九郎の中では人間外と判定されている軍師は、たまに顔を出しては書き付けの終わった書面を運んでいく。
 だがしかし、この有能をもって鳴る軍師殿は、九郎のもとへやって来るときも手ぶらということはまず有り得なかった。鎌倉からの書面、京の公家からの書面、密偵からの報告をまとめたものなど、平家討伐軍の大将を務める者が目を通さねばならない情報を、多種多様に渡って両腕にごっそり持参してくる。
 『賽の河原』という言葉が、ふと九郎の脳裏を掠めた。
 運んでくる男のかつての名も鬼若だったから、その奇譚に妙に合致しているだけに、あまり洒落になっていない。これだから京に長く腰を据えるのは好きになれないのだ。面倒この上ない公家連中との付き合いが増えるのだから。

 果たさねばならない己の義務だとは分かっている。
 けれどその自覚と、その義務に対する向き不向きは、別のものだ。

 その日何度目かにやってきた弁慶は、九郎の脇に押しやられた書面の量を見て、おや、と首を傾げた。

「……手を抜いてたんですか?」

「馬鹿を言え」

 心外なことを言われ、ただでさえよろしくない九郎の機嫌はますます悪化する。
 弁慶のほうでもそれはただの軽口で、しかし事実として明らかに、九郎の筆の進みは鈍くなってきている。

「少し休んだらどうです」

「いや、まだいい」

「きりがないでしょう。君がいくら根を詰めたところで、あと数日は終わりませんよ」

 九郎の筆がぴたりと止まった。
 ややあって再度動き出した筆は、どうにかその書面を最後まで仕上げると、かたりと硯の端に置かれた。

「―――櫛笥小路は」

「特に変わりありません。怪異を探りながらの怨霊退治です」

「そうか……」

 京に入ってからというもの、九郎は一度も櫛笥小路に足を運べていない。
 九郎でなければ果たせない執務が堀川には山とあり、しばらくはそちらにかかりきりになるだろうことは分かっていた。しかしまさか、ここまで詰めっぱなしで手間を取られるとは思っていなかった。一つ終わる間に二つも三つも書面が届く。

 九郎の中には常に焦燥がある。
 鎌倉名代としての己と、八葉としての己。

 この身が一つである以上、どちらか片方しか果たせない状況もある。しかし現状はあまりにも、八葉としての役目を蔑ろにしすぎではないか―――と思う。ただでさえあの神子は無茶をするのだから、目の届くところにいないと危なっかしくて仕方ない。神子の周囲に五行が揃わぬままでは、戦力としても危ういものがある。

「あいつが馬鹿なことをする前に、お前たちが止めろよ」

 白龍の神子を取り巻く者たちの中に、木気を帯びるのは青龍の加護を受けた者のみ。
 しかし相方の男は何故か神子に同行している訳ではなく、自分は自分で名代としての役目に時間を取られがち。いずれ二人まとめて青龍に裁きの鉄槌を喰らうのではないか、と九郎は思っている。
 弁慶はにこりと笑んでみせた。

「ああ、それなら心配は無用ですよ。将臣くんが今、同行してくれていますから」

「なに? いつの間に」

「君がこちらに詰めた翌日あたりでしょうか、六波羅のあたりで、望美さんが見つけてきたんです。さすがは幼馴染ですねえ」

「…………」

 九郎の眉根が微かに寄った。
 自分自身の感情を、うまく説明できる訳ではない。心配していた戦力に、将臣が加わっているのなら心強い。己が八葉としての役目を果たせていない事実は変わらないが、それを一刻も早く叶えるためにも、今こうして書面に取り組んでいる。為すべきことを為していない訳ではないのだから、これ以上を望むべくもない。

 それなのに、心のどこかに靄がかかったことを、九郎は感じる。

「……そうか」

 ようやくそれだけを言い、九郎は再度筆に手を伸ばした。
 その直前に弁慶の腕が、するりと硯を奪い取っていく。もう片手で懐を探り、小さな紙包みを取り出すと、間抜け顔を晒した御曹司の顔面めがけてぺしりと投げつけた。

「―――っ何をする!」

「いい加減にしないと、そろそろ頭痛が出ますよ」

 

 

 言葉にされれば自覚していなかった疲労が一気に襲ってくる。
 脇息にもたれてはみたものの、じきに慣れた痛みがこめかみの辺りで疼き始めた。

「……情けない」

 からだの何処かが痛むというだけなら、気力で何とかなる面もある。しかし痛む部位が頭である場合は、気力もへったくれもなかった。考え事をしようにもまとまらず、しまいには眩暈を起こしてしまう。不甲斐無さに落ち込んでみても、痛みが引いてくれる訳でもない。
 或いはそうやって悪い方向へと流れがちな思考こそが、頭痛を引き起こす原因の一つになっているのかもしれなかった。

 ああ、こうしている間にも、また新しい書面が来ているに違いない。
 早く終わらせてあちらに参りたいのに。
 ……何故俺はお前のそばに、いてやることができないんだろう。
 八葉、なのにな。

 ここにいるのは、好きではないんだ。
 お前がそばに、いないから。

 目を閉じてぼうっと霞んだ意識に浮かぶのは、取りとめも無い繰言ばかりだった。普段の己であれば、そんなことは絶対に考えないであろうことばかり。
 一眠りできれば回復するかもしれない、と考えるも、痛みのせいでなかなか寝つけない。

 ───どれだけ顔を、見ていないのだろう。

「……のぞみ……」

『はい?』

 幻聴まで聴こえてきた。いよいよ疲労も極まったらしい。
 九郎は己の執着に苦笑し、すっかり重くなった瞼をようよう持ち上げた。幻でもいいから、彼女の存在をより多く感じたかった。
 眩んだ視界に小さな影。顔は見えないけれど、気配で分かる。

 ───ああ、お前だ……。

『九郎さん、眠いんですか? じゃあお邪魔ですね、ごめんなさい』

 いいんだ。
 行かないでくれ。

『え、でも……なんか顔色も悪いし』

 平気だ。
 お前が、いてくれれば。

『……あ、熱がある。弁慶さんにお薬もらいました?』

 もう飲んだ。
 お前の掌は心地良いな。小さくて、やわらかくて。

『うわ、絶対変だ、九郎さん。ちゃんと横になって寝たほうがいいですよ……ひゃ!?』

 なら、いてくれ。お前がここに。
 それなら眠れそうな気が……するんだ。

 

 

「……えええぇーっと」

 望美は大層困惑していた。
 怪異の状況について報告に来ただけなのに、どうして自分は現在九郎に、抱き枕よろしく抱え込まれて横になっているのだろうか。本当なら張り倒してでも逃げ出すのだが、明らかに相手は具合が悪そうで、そこに暴力を振るうのはいくら望美といえども気が咎める。
 取り合えず刺激しないように抜け出そうと試みるが、回された腕の力は逆に強まるばかりで、かえってがっちりと拘束されてしまう。そうなると男の力には到底敵わない。

「……どうしよう」

 望美が途方に暮れたとき、黒衣の軍師がその場を訪れた。
 誤解を招きかねない九郎と望美の様子を目にしても、一向に驚いたふうもなく一礼する。

「───ああ、望美さん。こちらにいらしてたんですね」

「あ、弁慶さん、いいところに。これ、何とかしてください」

 これ、と九郎の腕を示すと、弁慶はやわりと微笑んだ。
 その、大変に胡散臭そうな、笑み。

「何ともなりませんねえ……すみませんが、起きるまで付き合ってやってくれませんか」

「見殺しですか!?」

「だって君も、嫌ではないのでしょうし」

「…………っ」

「では、お願いしますね」

 望美が体勢を立て直して反論する暇を与えず、弁慶はさっさと行ってしまった。それは優しさとかお節介というようなものではなく、厄介ごとには関わりたくないという部類のものだと望美は思っている。
 ともあれ救いの手を期待することは、どうもできないらしい。
 望美は溜め息をつき、寝息を立て始めた九郎の胸元に頭を摺り寄せた。

「……こういうことはちゃんと、正気の時にしてくださいよ」

 ───私だけどきどきしてるなんて、悔しいじゃない。

 

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**ひとこと**
85000Hit申告のキナコさまへのプレゼントSS、リク内容【望美禁断症状を起こす九郎 で九望、つつく弁慶】。
九郎が平時に忙しいのって京にいる時なんじゃないかなーと。鎌倉は兄上お膝元だから、名代の役目は少ないと思う。
寝ぼけて押し倒す…とこまではいきませんでした、所詮ヘタレだから(笑)! お昼寝レベル。
それでも目が覚めた時のリアクションは赤面死寸前になると思われます。

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