薫り

 

 見られているような気がする。気がする、ではなくて、望美にとってその感覚は、もう確信と言ってよかった。
 見知らぬ相手であれば、不審者として仲間に相談する。それ以外であれば、直接本人に話を降ってみる。こちらを見ているということは、何かしらの用事があるということなのだろうから。
 けれど相手がごく特定の人物になると、途端に望美の中の弱気が顔を出す。

「…………」

 ちり、と首筋が焦げる。背中が何倍も敏感になる。
 まただ。ここ最近ずっと、そのひとはそうやって、日に何度となく望美を見つめる。
 どうにも居た堪れないほどの羞恥に襲われ、望美は慌てて、傍らの朔に話しかけた。内容などどうでもいい、女の親友同士であれば、他愛も無い話題は、取り立てて探そうとしなくても次々と湧いて出る。

「ねえ朔、そろそろ部屋に戻らない? なんかちょっと寒くなってきちゃった」

「ああ、それがいいわね。あなた、このところ具合が良くないことも多いのだし、無理をしないほうがいいわ」

「え……別にそんな大げさな。大丈夫だよ〜」

「駄目よ。あなたが勝手に一人で抜け出さないよう、私が傍についているから」

「わーん朔ちゃんひどーい! それじゃ私がいつも勝手に抜け出してるみたいじゃ」

「あら、違うの? 時々どなたにも言伝て無しで、ふらっといなくなってしまうじゃないの」

「あ、あ、あ……朔、今の結構本気で傷ついた……」

「うふふ。暇ならば草紙を貸してあげましょうか?」

「字が読めないからいいよ。朔は何してる?」

「久しぶりにゆっくりと写経でもしようかと思っているのだけれど」

「あ、いいね! 墨の匂いって落ち着くよね、朔の字って綺麗だし」

 小気味よい会話を交わしているうちに、視線はふっと途切れた。どうやら望美一人ならばともかく、朔と共にいるところにまで堂々と踏み込んでくるような真似は、相手にもできなかったらしい。
 望美はそこまで考えて、ほうっと息を吐いた。この状況を作り出したのは自分なのに、それが残念だとかほんの少し考えている自分自身が、訳が分からない。

「……望美、顔が少し赤いわよ。本当に、具合が悪いのではない?」

「へ、平気だよ。そんなに心配なら、あとでちゃんと、弁慶さんに看てもらうから」

「ええ、そうしてちょうだい」

 ゆっくりと回廊の角を曲がった瞬間、ちらりと相手の姿が見えた。
 ここ最近というもの、望美をひたすら見つめている相手───九郎の、姿勢のよい後姿が、望美の目に焼きついた。

 

 

「寒いと言っていたのは大丈夫?」

「───あ、うん」

 筆を滑らせながらの朔の問いに、望美は曖昧に頷いた。もともと口実でしかない発言だったのに、余計な心配をかけてしまっているのが僅かに心苦しい。
 何をするでもなく房に敷かれた毛皮の上で、ごろごろと転がっている望美を見て、朔は静かに微笑んだ。

「……九郎殿、どうされたのかしらね」

「!!」

 がばっと起き上がった白龍の神子に構わず、黒龍の神子は写経を続ける。

「な、なんで朔が知ってるの!?」

「だってここしばらく、あなたたちの喧嘩を一度も目にしていないものだから」

「…………」

 望美の親友はとても優しくて女らしくて淑やかで控えめで芯が強くて、そして時折、その舌鋒が非常に鋭くなる。以前それをほぼ一手に引き受けていたのは彼女の兄だったが、要するに気心の知れた相手に対して発揮されるものらしい。そして今は望美も十分に、その範疇に含まれていた。
 望美が絶句していると、朔はくすりと笑い声を立てて手を止める。

「あなたらしくないのね。いつもなら自分から動くのに」

「……だって……」

 あんなふうに見つめられたことなど、一度もない。九郎の視線を感じ取るたび、見えない蜘蛛の糸が自分自身に絡まっていくようだ。その理由も意味も、望美には分からない。訊ねることが、こわい。
 なにかが壊れてしまいそうで。

「あなたがそれでいいのなら、私ももう言わないわ。余計なことを言って、ごめんなさい」

 朔はそう言ってくれたのだが、その言葉がかえって、望美の背を押した。
 自分一人で分からないことを悩んでいても仕方ない。九郎にきちんと訊くべきだ、と。

 

 

「……今は戦に関する書簡がある。少し待っていられるか」

 久方ぶりに顔を合わせた九郎の言葉がそれだった。もう夕餉も終わった刻限なのに、相変わらず執務を自分から背負い込んでいるらしい。
 ともかく九郎が仕事中だと言うのなら、望美にそれを邪魔する気は毛頭ない。

「あ、じゃあ、明日でいいです。おやすみなさい」

 九郎の瞳がふっと揺れた。
 立ち上がろうとした望美の腕を掴み、引き留める。

「……いいから。ここで待っていてくれ」

「…………?」

 疑問を覚えつつも、望美は強いられるままに、九郎の房に腰を落ち着けた。
 待っていろと言うくらいだから、執務は残り少ないか、適当なところで切り上げるのだろうと思った。しかし望美のその予測に反して、九郎はいつまで経ってもこちらに背を向けたまま、手を止める様子がない。暇で暇で仕方ない。

 やわらかな衣擦れの音に、九郎はそっと背後を窺った。待ちくたびれたのか、毛皮に突っ伏して眠ってしまった望美の姿を目にして、こころがひとつ、波立つ。

「…………」

 まとっていた衣を脱ぎ落とし、かけてやる。
 その衣は普段よりもひときわ強く、己の香を焚きしめてあった。
 九郎のたった一つの、賭け。

「……朝まで、眠れ」

 その身にその薫りが移るまで。
 その身を一晩腕に抱いたかのように、残り香が彼女にやどるまで。

 九郎は物音を立てないよう立ち上がり、今まで取り組んでいた執務の書簡───かに見えるただの書き損じを、そっと燭にくべて燃やした。念のため望美にもう何枚か布を落としてやると、やや離れた壁際に背を預け、瞳を閉じた。
 ほんとうに腕に抱くのは、それを望むだけの理由を告げるのは、今であってはいけない。鎌倉の軍勢からこの平泉を無事に護り通し、平穏を取り戻す。それを為し終えててこそ、この比売神のこころを請うだけの意気地を、己に見出すことができる。

 ───どうかそれまで、誰のものにもならないでくれ。

 

 

 翌日、奥州の武士たちの口は、ある一つの噂で持ちきりだった。
 曰く、白龍の神子殿が御曹司の房から出てこられたそうだ。曰く、後朝の衣までお持ちだったそうだ。曰く、お傍に寄るだけで御曹司の薫りが残るほどに、深いご寵愛を受けられたらしい。

「───お前にしては回りくどい方法を取ったものだ」

「なんのことだ」

 常にも増して機嫌の悪そうな泰衡に、九郎は白を切った。
 これほど噂になってしまえば、そう易々と望美をもらい受ける者が名乗り出る筈もない。それは九郎を───御館の客分である御曹司を、敵に回すことになるからだ。
 泰衡はひとつ息を吐き、御所の執務所に置かれた書簡の山を指し示した。

「神子の加護の風評、お前が独占したのなら、その分の働きをしてもらう」

「ああ、分かっている」

 

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**ひとこと**
60000Hit申告のミナミさまへのプレゼントSS、リク内容【くろうとのぞみと、やすひらさん。】の続き 。
拍手ネタの続きをリクエストいただいたのは初めてでした(笑)。続きモノにする気はなかったのでびっくり。
放っとくとどこまでも話が広がってしまい、コンパクトにまとめるまで何度か書き直し、そしてコンパクトになりすぎた(^^;)!
結局はっきりとは言わないまんまの御曹司…ちょっとズルいけど、まあたまにはこんなのもアリかと。

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