明鏡止水

 

「この海も山も滝も恵みも、みんなお前のものだよ、オレの花嫁」

 その言葉にも望美はただ笑うだけだった。ヒノエの一番好きな笑顔で。
 差し出された手を躊躇いなく取り、異界の神子は熊野の地へ、それを統べる若き主のもとへと舞い降りた。もとから多種多様の神々を祀る熊野、別当に求められるのは力量だけでなく祭祀の要。神子と呼ばれた女性を迎える以上の僥倖はない。
 それだからヒノエが望美を熊野へと連れ帰った時、清盛との闘いに同行しなかった者たちは『さすが頭領、神子を嫁御にするとは』という程度の認識しかしなかった。

「頭領にとっちゃあ、そこそこ若くてまあまあの顔なら、誰でもいいんだもんなあ」

 下世話な言われようは確かに今までの態度に原因があったので、ヒノエとしても苦笑するしかない。熊野の者も、望美がどんな女かは、おいおい分かっていくだろう。
 神子だから、ではない。彼女だから望んだ、それだけの価値がある女なのだ、と。

 しかし意外なのは望美だった。
 難詰の一度や二度は覚悟していたのに、水軍衆の噂話を耳にしても、ヒノエに対する態度がまったく変わらない。色恋にはさほどこなれていないだろう少女が見せる、不自然なまでの落ち着きが、ヒノエには違和感の拭えないものだった。

「───ね、望美。これからしばらく空けるけど、留守を頼めるかい」

 告げても少女の表情は変わらない。

「あ、うん。今度はどこまで?」

「宋まで。遠いし長い、だからお前にしっかり留守を守ってほしいんだよ」

 寂しがるような仕草の一つも見せてくれるかと思ったのに、望美は欠片もそんな素振りを見せずに頷いた。
 泣いて縋られても鬱陶しいが、こうもあっさりだと、それはそれで拍子抜けだ。

「分かった。いつ、出発なの?」

 そんな内心を悟られるのも癪だから、ヒノエも頭領としての表情で、返す。

「───明後日」

 望美がすっと居住まいを正した。両手をつき、深々と頭を下げる。

「……いってらっしゃいませ、湛三さま」

「…………」

 いけない、と思った時には。

「望美はさ」

 言葉がもう、こぼれ落ちてしまっていた。

「なんでオレの傍に、来てくれる気になったんだい?」

 

 

 望美が顔を上げた。きょとん、と自分を見上げる瞳に、ヒノエは軽く舌打ちした。
 彼女に対してではなく、自分に対しての苛立ち。

「嫁に来てくれと言ったのは、確かにオレだよ。でもお前も、断らなかった」

「うん。ヒノエくんのこと、好きだから」

「それならさ、どうしてお前はそんな、能面みたいな笑顔でオレを送り出せるんだい?」

 熊野へ迎えてからというもの、ヒノエの好きな笑顔を、望美は浮かべなくなった。
 代わりにその愛らしい顔をいろどるのは、落ち着きに整えられた微笑み。それも決して美しくない訳ではなかったが、ヒノエが常に見たいと、傍に置いておきたいと思ったものではない。何を言っても何をしても、望美はただ、人形のように完璧な笑顔を見せるだけだ。

 澄み切って落ち着いた、揺らめかない、こころ。
 それは何よりも躍動を愛する天の朱雀の卦を持つ者にとって、至上のものではない。

 望美がぱちくりとまたたいた。

「……だってさ、私が行かないでって言ったら、ヒノエくんは行かないの?」

「そりゃあ無理だけど」

「だったら言う必要、ないじゃない。ヒノエくんが困るだけなんだもん」

 望美にとっては今更な話だった。
 ヒノエがどれだけ熊野を大事に考えているのか、知っている。そのために為すべきことが山のようにあることも、それに時間を割かれることも。熊野へいざなわれた時から、それは知っていた。全部理解した上で、此処に居るのだ。

 ふと、笑う。
 『仕事と私とどっちが大事なの』───それはいつの世も、女性の決まり文句だ。

 そんな無意味なことを訊いて、困らせることは、したくなかった。まったく感じない訳ではなかったけれど、次元の違う話なのだから仕方が無い。望美だって、ヒノエと逆鱗を天秤にかけろと言われても、選ぶことなどできっこない。
 きっと、そういうことなのだ。

「……ヒノエくん、甘えてほしいの?」

 訊ねてみると、紅い瞳がふっと苦笑した。
 その気取らない反応に、望美の肩もふっと力が抜けた。
 それでようやく、いつの間にか自分でも気づかないほどがちがちに気張っていたことを、望美は知った。『熊野別当の奥方』としての振る舞いに失敗すれば、それはそのままヒノエの傷になる。そう思って鎧っていた心が、いつの間にかヒノエとの間にまで壁を作ってしまっていた。

「私、甘えていいのかな?」

「お前の我侭を何でも叶えるために、オレは生きてるつもりだけど」

 年齢に似合わず重いものを背負ってしまった、若夫婦。
 久方ぶりに真っ直ぐ瞳を見交わして、そうしてぷっと吹き出した。

 

 

「好きって言ってくれるの、嬉しいよ?」

 望美が笑った。
 ヒノエの一番好きな、はっとするほど鮮やかな笑顔で。

「金銀宝石より豪華な着物より、そっちのほうがずっと、嬉しいの」

「───欲がないね、オレの神子姫は」

「そうかな。熊野より好きになってほしいんだもん、これ以上の我侭なんてないよ」

 ヒノエも笑った。
 久方ぶりの、望美の一番好きな、不敵な笑顔で。

「なんだ、そんなのとっくに叶えてしまってるさ」

「嘘。ヒノエくんがどんなに熊野を大事に考えてるか、私、知ってるもん」

「そうだね、熊野は大事だよ、別当はオレだから。責任があると思ってる」

 少しだけ不満そうに頬をふくらませた望美に、ヒノエは堪らず吹き出す。
 つん、と指先で軽くつつくと、新緑の瞳を覗き込んだ。

「でもね、お前のことは、責任なんかじゃない」

「…………」

「誰よりもお前が好きだよ。だから帰さなかった。攫ってきた」

「……ほんと、に?」

「神かけて」

 新緑が揺らめいて、またたいた。戸惑ったような色さえ浮かべて、投げかけられた言葉の真偽を測ろうとしているように、ヒノエには見えた。
 鏡のように静かな神子のこころは、自分の言葉ひとつで柔らかに揺らぐ。静寂を湛えていた水面が、美しい波紋を描き出す。
 それは海にも見えた。冬のあいだ静まり返っていた海が、ゆるんだ息吹と共に細波を産み、白砂の浜に寄せては返す。魚が跳ね、貝が湧き、恵みを産む。異国へとつながる海は補陀落へもつづいて、彼岸の慈悲と此岸の富を運んでくる、神籠もる狭間の地の海。

 そうだ。そのほうが、ずっといい。
 つくりものめいた美しさより、生きている美しさを見せてよ。

「───お前は可愛いね、ほんとうに。片時も離したくないよ」

 ねえ、いとしいいとしい、オレの花嫁。
 好きだよ。
 お前だから、好きだよ。

 

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**ひとこと**
50000Hit申告の浜島 あきよさまへのプレゼントSS、リク内容【ヒノエ無印ED後でヘタレ気味ヒノエ】。
リクいただいた時はホント、目が点になりました。べべべ別当でヘタレ気味でスカ…!?
ヒノエは常にスマートでかっこつけ君な印象があったので、まず固定観念を捨てるとこから始めました(笑)。
ヘタレの定義が正確に分かってないです。お待たせした挙句こんなんで申し訳ありません〜(^^;)。

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