逆鱗

 

 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
 驕れる者も久しからず 只春の夜の夢の如し
 猛き者も終には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ

 

 

「望美! 開けて、お願い……っ」

 朔の声すら空しく弾き返して、その扉は厳然と、白龍の神子と彼らを隔てていた。
 朔だけではない。龍神も八葉も口々に開けるよう促し続けているのに、それに返る声は一度たりともなかった。

「退け、朔殿」

 このままでは埒が明かない。この扉を開ける気が、あの少女にはない。
 そう悟った九郎は抜刀し、構えた。崩れた壁を打ち壊せるなら、扉ごとき何ほどのこともないはず。たとえ一太刀で目的を果たせずとも、幾度も浴びせればこじ開けられるだろう。
 だがそれを、師の声が止めた。

「九郎、無駄だ」

「ですが、先生!」

 振り向いて師の姿を視界に納め、九郎はたじろいだ。
 こんな顔をした師を見たことがない。こんな、悲愴という言葉すら生ぬるいような、痛みを湛えた表情を、見たことなど一度もない。それがこの状況の意味を指し示しているようで、背を走る悪寒が勢いを増す。

「この扉はすなわち、神子自身の心。神子が望まねば、開くことはない」

 ───無理にこじ開けようとすれば、神子が壊れる。

 動けなくなった九郎の脇で、白龍が不意にがくりと崩れ落ちた。

「…………神子───」

 銀糸のような髪が惜しげもなく地を這った。それに隠された神の表情は窺い知れなかったが、震え掠れた呻き声は、神子とつながっている神が何を悟ったのかを悟らせるのに十分すぎるほどだった。
 為すすべもなくそれを見ていた者たちの耳朶に、きぃ、と微かな音が届いた。

「あ……」

 誰ともなしに声を上げた。
 ただ、呆然と見つめていた。

 あれほど頑なに閉ざされていた扉が、軋みの音を立てながら開いていくのを。

「神子……神子、神子…………っ」

 駆けつけねばならない。扉が開いたのだ、あの無茶な神子を救い出さねばならない。
 そう分かっているのに、九郎の足は動かなかった。
 惨い光景など幾度も目にしてきた。数え切れないほどの敵と斬り結び、血飛沫を浴びて、四肢や首を斬り落としてきた。それが戦乱を生き抜く武士の習いであり、いまさら怖気づくようなものではない。
 それなのに。そのはずであるのに。

 今、この扉の向こうに在る現実を目にすることが、どうしてこれほど恐ろしいのか。

 

 

 瞳を閉じた少女は、白い肌をしていた。
 こんなに肌の白い奴だっただろうか───と九郎は思い、ややあって、気づいた。

 そうか、こんなに血が流れ出てしまっているからか。

 とても真っ直ぐで風にもさらさらと音を立てていたはずの髪は、赤黒いものでべっとりと汚れていた。自分の髪とは随分違うものだなと思い、時にはつい見惚れていたその紫紺は、今はもう、もとの色すら見分けがたいほどに血で濡れていた。
 言い合う時には喧しいほどの声を紡ぎ出していたはずの唇は、ゆるく開いていた。そこに飛んだ緋色をせめて拭ってやろうと、指を伸ばす。初めて触れた其処は、とてもやわらかくて、そして、まだあたたかかった。けれどこのぬくもりも、じきに消えてしまうのだろう。
 表情に苦悶の色はなかった。むしろ満ち足りたような微笑みにすら、見えた。

 

 

 壁が、床が、鳴動していた。ひび割れた隙間から石片がぱらぱらと降り注いだ。
 迷宮は崩れ去ろうとしていた。封じていたものと封じられていたものを同時に喪い、存在する因果を失って、塞き止められていた五行は荒れ狂いながら、激流となって狭間の幻を消し去ろうとしていた。
 揺れ始めた瞬間から咄嗟に腰を浮かせた周囲の中で、ただ一人九郎だけが、いつまでも望美の顔を覗き込んでいた。

「九郎! 崩れます、引き上げないと!!」

 弁慶がいくら叫んでも、九郎はじっと動かなかった。聴こえていないかのようだった。
 いや、実際に聴こえていないのだろう。根が単純で情に篤いあの男は、ひとつのことを考え始めると、そればかりで手一杯になり、他のことが考えられなくなる。それを弁慶は長い付き合いの中でよく知っていたが、それでもぎりぎりまでは踏みとどまろうと思っていた。

 柱が折れ、地響きを立てて崩れてきた。
 直撃を避けようと咄嗟に飛び退れば、弁慶の視界から九郎の姿と、彼に見守られている望美の姿は見えなくなっていた。

「───っ……」

 唇を噛み、俯いた躊躇は、時間にすればわずか一瞬。けれど、その一瞬には膨大な感情と愛惜が込められていた。
 その一瞬が過ぎた時、弁慶には既に迷いはなかった。そのまま踵を返し、宙に浮かぶ大階段を駆け下り始める。最後に見た友の姿と神子の姿を、この命が尽きるまで忘れることはないだろう、と思いながら。

 

 

「……望美」

 唇に這わせた指を引き、そっと名を呼んで、己のそれを重ねた。
 その途端、ああやはり彼女は生きていないのだ、と思った。
 きつく錆びた鉄のような血の味が口内に広がる。こうして同意もなしにいきなり唇を奪っているのに、怒りも動揺も、僅かな反応すらしない。指で触れていた時にはまだあたたかいと思っていたはずなのに、重ねてみれば、それはもう自分よりも冷たかった。

 何故だろう。仲間の死など、何度も見てきたはずなのに。

「望美……望美」

 教えてくれ。俺の、神子。
 何故俺は、お前が常世へと逝ってしまったことが、これほどつらいのだろう。
 生ある者はいずれ死ぬ、それが誰にも等しく訪れるさだめ。誰であってもそれは同じだ、永久のいのちなどある訳もない。分かっている、覚悟など疾うにしてきた。

 なのに。

「何故───独りで、お前は」

 俺たちはお前にとってそれほど、頼るに足りぬ者であったのか。独りですべてを抱え込んで、お前は天へと還ってしまった。
 お前が傷つかなくても済むような、そんな平穏をもたらせればいいと、ずっと願ってきた。
 なのにお前は、俺の望まぬ形でそれを手に入れてしまったんだな。お前はもう、悲しみも苦しみも感じることはなく、そして喜びも楽しさも感じることはない。この瞳が煌くことも、この唇が俺の言葉に言い返すことも、この顔が笑みにほころぶことも、もうない。

 望美。
 望美。

「…………」

 その場から立ち去ろうという気は、男には更々なかった。
 だってそうすれば、彼女は独りになってしまう。独りぼっちに、なってしまう。
 無謀なまでに勇敢で優しかった神子に、どこまでも付き従う八葉が、せめて一人だけでも居たっていいではないか。

「───望美……」

 飽くことなく少女の名を呼び続ける男の背に、柱がぐらりと傾いできた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

い  き  て  、  わ  た  し  の  み  こ  。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……おや、君がうたた寝なんて、珍しいですね」

 軍師の声に、ふと九郎の意識は覚醒した。
 曖昧な夢の中を漂っていた名残が、明け方の霧のように晴れていく。もっとも周囲はまさに本物の霧が立ち込めていて、それは意識の霧とは違い容易に晴れそうになかった。
 眠りに落ちる前に、目覚めた頃には晴れていればよい、と考えたことを思い出した。宇治川は渡るのにさほど難儀な川ではなかったが、平地に較べれば行軍に支障をきたすのは仕方が無い。

「まだ消えないか。見通しが悪いのは厄介だな」

「そうですね。まあそれはあちらも同じことですし、条件は五分でしょう」

 陣幕に入ってきた弁慶が、ばさりと図面を広げた。そこには周囲の地形、烏に集めさせた情報から割り出した敵の情報、そしてこちらの軍勢の配置が簡単に記されている。

「───同族を討つことになるとはな」

 憮然とした九郎の声に、弁慶は僅かに苦笑した。

「では、木曾殿に情けをかけますか? 鎌倉殿のご意向に背いて」

「馬鹿を言え」

 それきり九郎は余計なことを言わず、図面に目を落としては兵の配置を述べ始める。弁慶はそれに軍師としての意見を挟みつつ、指示を頭の中に叩き込んでいく。

「では、そのように伝えます。出立は一刻後でいいですか?」

「ああ。───弁慶」

「はい?」

 出て行きかけたところを呼ばれ、弁慶は足を止めて振り返った。
 見遣った九郎は何かを言いかけ、しかしまた口を閉じることを幾度か繰り返したのち、気まずそうにそっぽを向いた。

「……その。今回の軍に、女兵はいたか?」

 問われた意味を一瞬図りかねて、切れ者の軍師もさすがに困惑した。

「女兵……ですか?」

 九郎は何とも言えないような表情をしていた。
 情けないような、どこか不安がっているような、ひどく覚束ない瞳をしていた。

「どうしてまた。木曾殿ならいざ知らず、君には同伴している愛妾などいないでしょうに」

「───っそ、そういう意味ではないっ!! そうではなくっ」

 そこまで激発して一息に言うも、またしても九郎は黙り込んでしまった。
 辛抱強く───実際には興味を覚えたので───続きを待っていた弁慶の耳に、決まり悪く唸るような声が届いたのは、しばらく後のことだった。

 ───なにか、とても大事なものを、忘れているような気がするんだ。

 九郎がそう呟き、無意識にだろうが、左の上腕を押さえるような仕草を見せた。
 怪我でもしていたのだろうか、と考えた瞬間に右手の甲が疼き、弁慶は九郎の仕草を追及するきっかけを逃してしまっていた。

 

 

 しゃらそうじゅの はなのいろ  ただ はるのよの ゆめの ごとし。

 

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**ひとこと**
35000Hit申告の八巻さまへのプレゼントSS、リク内容【戦場で悲恋】。迷宮通常ルートバッドEDを九望っぽく。
もう完全に趣味に走りまくりの内容でして、リクエストをいただいた瞬間にこれしか考えられませんでした。
分かりづらいですが、迷宮で神子が死んだ後、白龍が喉の逆鱗(=自分の命)と引き換えに時間を戻します。宇治川まで。
神子と八葉ではなくなった歴史の流れと、喪失感と、その理由の忘却。悲恋と言うより不毛(^^;)。

八巻さま以外の方のお持ち帰り・転載を禁じます。