花影

 

『源氏の名代には許婚がいるそうな』

 そんな噂が京の民の間にまで駆け巡ったのは、春も盛りの頃だった。それでも渦中に置かれた当事者の片割れである望美は、それについてさして深くも考えず、至って呑気に過ごしていた。どうせ芝居なのだから、と事あるごとに口にした。九郎も、自分も。
 けれど、それも昔の話。

「はぁ……」

 勝手知ったる京邸の庭を眺めて、望美は大きな溜め息をついた。
 ぼーっと見上げた秋の空は高く澄んでいて、それと引き換え自分の心はまったくと言っていいほどに晴れない。それもこれも全部、あの鈍感のせいかと思うと腹が立つ。

「う〜」

 噂というのは尾ひれがついて広まるものである。そんなことは知っている。
 けれどそれにしても、久々に舞い戻ってきた京での『九郎の許婚』の噂は尋常ならざる内容にまで飛躍しすぎていた。曰く、天女のように美しい姫であるとか、並み居る雲上の御身を感服せしめる舞手であるとか、一目見たら生涯忘れられぬほどに強い印象を残す者であるとか。
 面映く聞いていられるうちはまだ良かったが、ここまで壮絶な内容の話が聞こえてくると、望美は一つの疑惑を抱いた。

 ───つまり、九郎の許婚と噂になっている女性が、ちゃんと別に居るのではないかと。

「……どう考えても違うもんねぇ……」

 俗に言う『体育座り』で抱え込んだ自分の膝を見つめながら、こぼれるのは自嘲の言葉。
 自分の顔についてなど深く考えたことはないけれど、少なくとも人目を引くような整った顔立ちだとか印象的だとか、そんな形容とは無縁だということくらい分かる。確かに舞ならば多少は教えてもらって嗜んでいるが、自分よりもっと上手く舞える女性など、それこそ掃いて捨てるほどいるだろう。
 何より望美に決定的な打撃を与えたのは、漏れ聞こえてきた『許婚』の名だった。
 静様とおっしゃるそうだよ、と、物売りの女性は教えてくれた。

「……しずか、さんかぁ」

 つい先日に知ったばかりの名前を口にする。きりりと胸が痛んで、望美はぽすっと膝頭に顔を埋めた。
 静、という名を聞いて、望美よりも驚いた顔をしていたのは譲だった。

『こっちでも静御前がいるのか……?』

『譲くん、その静さんて人が誰だか、知ってるの?』

 譲の目が一瞬見開かれ、すぐ後には苦笑が取って代わる。先輩は義経すら知りませんでしたもんね、と笑い混じりに返され、以前の無知を蒸し返されて望美は思わずふくれた。

『ああ、すみません。静御前というのはですね───』

 そうして、今に至る。

 

 

 聞かなきゃ良かった。知らなきゃ良かった。
 質問したのは自分なのにも関わらず、望美はそう思った。

 静御前。
 稀代の白拍子と謳われ、源義経の最愛の人とも伝えられる、女性。
 それは確かに、耳にした噂の『九郎の許婚』にもぴったり当てはまる存在で、数々の戦で華々しい活躍を見せる九郎に相応しいと思う。普段はつい忘れているが、九郎はあれでも身分というものがあって、多少(いや、かなり)デリカシーに欠ける部分があるが優しい部分もちゃんとある人で、やっぱりそういう大人の美人な女性が似合うんだろうな、と思う。

 思うが、それと自分の心が納得できるかどうかは、別の話だった。

「───ふんだ」

 望美が自分でも何に対してなのか分からない小さな悪態をついた、その瞬間。

「望美、ここにいたのか」

 間の悪いことに、少女を思い悩ませる最大の原因が房の向こうに顔を出し、呑気に(少なくとも望美にはそう見えた)声をかけてきた。

「お前、最近鍛練を怠けていないか? 手合わせもしていない気がするぞ」

「鍛練はちゃんとしてますよ……手合わせだって、先生に付き合ってもらってますから」

 だから心配しないでさっさと行ってくれ、と言外に匂わせているのに、九郎ときたらそれに気づきもしないほどに鈍感だ。これでよく噂のような女性を捕まえられたものだ、と望美は妙に感心すらしていた。
 九郎はむっと眉根を寄せて望美を見据えた。

「些細なことで先生のお手をあまり煩わせるな。ご迷惑だろう」

 真っ先に頼るのなら自分にしてほしい。
 そうと素直に言えないから、九郎としてはこんな物言いになるしかない。そしてそれに望美がつっかかって言い合いになる───というのがいつものやり取りだったが、今回は少女のほうがふいと視線を逸らした。

「分かりました。しばらく一人で鍛練します」

「……そういうことを言ってるんじゃない」

「スランプなんです。調子が悪いんです。だからしばらく放っといてください」

 望美は剣の話をしていたつもりだったのだが、九郎はそうは取らなかった。
 慌てたように房に踏み入り望美の前に膝をつくと、細い肩をがっしと掴む。その腕に込められた力の強さに、そっぽを向いていた少女は驚いて顔を正面に戻した。

「具合が優れないのか!? 馬鹿、それならそうと何故早く言わない!!」

「だ、大丈夫ですよ! 調子が悪いっていうのは、その、剣の腕前のことで……」

「それなら尚更だろうが!! 怨霊相手に不覚を取ったらどうするつもりだっ」

 段々と望美のほうも混乱してくる。掴まれた肩は痛いし、目の前で真剣に自分の心配をしている九郎を見ているのは、嬉しいのか哀しいのか自分でも分からない。どうせ九郎は素敵な許婚の女性のもので、望美の中にある気持ちは届かないのに。

 なんで私ばっかりこんなにぐるぐる悩んで落ち込んでるんだろう。
 そう思った瞬間に、望美の堰は切れていた。

「九郎さんが私の心配なんてしなくたっていいでしょ、静さんがいるくせに!!」

 

 

 望美の剣幕と言葉の内容に、九郎は瞳を見開いた。
 叫んでしまってから、望美もはっと気がつく。これでは嫉妬をぶつけているだけだ。鈍感な九郎のことだから気づくとも思えないけれど、それでも全身から冷や汗がどっと出る。

「───聞いた、のか」

 ばつの悪そうな九郎の声に、望美はぐっと唇を咬みしめた。
 ほんとうは否定してほしかった。そんな者など知らない、と言ってほしかったのだ。けれど静という女性の存在を九郎が否定しなかった以上、噂は本当のことだと悟ってしまった。

 深く俯いてしまった望美を見つつ、九郎はどう続けたものかと首を捻る。
 その頬がうっすらと紅いのは、差し込む夕焼けのせいだけではない。

「……まったく、口さがない者たちの噂など、いちいち本気にするものじゃないぞ」

「なにがですか。火のないところに煙は立たないって言うでしょう」

「まあ、な。それにしても院も大概、厄介なことばかりなさってくださる」

 九郎の話の飛躍に、望美はついていけない。
 かっとなって九郎を睨みつけると、今度は向こうが視線を微妙に逸らした。

「誤魔化さないでよ! なんで関係ない話がぽんぽん出てくるんですかっ!?」

「関係ないって、お前、今自分で言ったんじゃないか」

「私が言ったのは静さんて人のことだよ!! 九郎さんの許婚の綺麗な白拍子っ!!」

 

「だからその静というのはお前の呼び名だろ!?」

 

 九郎の襟首を捕まえて半ば締め上げていた望美は、固まった。

「……はぇ?」

「院がお前の舞をご覧になって、そうお名づけになったんだ。知らなかったのか?」

「へ───な、なんで? なんでそんな名前が」

「並み居る者の言霊を奪い、楽など要らぬほどに見事な舞手ゆえ……と仰っていたぞ」

「だって私の名前、ちゃんと法皇様に言いませんでしたっけ?」

「言っとらん。だからあちらが好きに名を賜ったんだろう」

「…………」

 静、という呼び名が示す、女性。
 望美の全身から力が抜け、その場にへなへなと崩れ落ちた。
 今ならきっと恥ずかしさで死ねる、と思った。自分だけで勝手に勘違いして落ち込んでいたこともそうだが、あの煌びやかな美辞麗句がすべて自分へのものだったのかと今更理解すると、まさしく顔から火が出そうなほど恥ずかしい。

「望美?」

「───見ないでください。今すっごい、馬鹿だなぁって自分で思ってるとこです」

 なんだそんなことか、とっくに知ってる、と九郎は笑って。
 少女の華奢な身体をふわりと引き寄せ、その背を軽く撫ぜた。

 

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**ひとこと**
30000Hit申告のmanaさまへのプレゼントSS、リク内容【静御前の存在に思い悩む望美でラストは甘く】。
反則スレスレのオチで申し訳ありません。早とちりと勘違いで無駄に悩む神子(そう言えばゲームでもやってた)。
九郎がかっこよく決めるとのリク内容には沿えませんでした(爽やかに断言)。ダメだこのCPは両方ボケだ!
ちなみにタイトルの『花』は女性の暗示のつもりでした。九郎に見え隠れする女性の影、みたいな。

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