撫子の君

 

 自室に届けられていた夏物の衣を見て、ああ今日は更衣かと思い出した。
 殿上貴族でなし、衣装に凝る必要もないしそんな趣味もないから、更衣といってもいつも、邸の者が整えてくれた必要最低限の衣類のみである。衣装に凝るくらいなら武具甲冑に凝ったほうがよい――と己などは思うが、世間的にはそうではないらしい。
 荘園や知行国、恩顧を欲しがる者たちから上がってくる布や衣の類は少なくもないから、邸の者たちに下げ渡す。するとこの時期はあちこちでそれらが広げられ、検分したり仕立てにいそしんだりする女たちの姿がよくあった。

 そんな中でふと目に付いたのはなんの悪戯だったのだろうか。
 普段ならば目にもとまらないような、たとえとまったとしても大して気にもしないような、衣の入った唐櫃。
 染めも華やかな夏物の薄絹が、開いた蓋から無造作に零れていた。
 雅事には詳しくないが、いかにも夏らしく、爽やかな襲の色目が目を引いた。

「おや、撫子の襲ですね」

 後ろから聞こえた声の主など、見なくてもわかる。
 僧籍のくせに、己などよりよほど雅事に長けていた。

「なでしこ」

「ええ、ほら、そこに咲いている」

 庭ではそう言えば、鮮やかな葉の草色に映えた薄紅色の可愛らしい花弁が見頃であったことを思い出した。

「とても似合いそうですねえ」

 あからさまに含みのある声とその意味に気づかない振りをして、無理にそれから視線を引き剥がした。この男を相手になんのことだ、などとうっかり言って真っ向勝負を挑むなど、自殺行為に等しいのだ。

「――それより、」

 無理に話題を変えたことに何か特別言うわけでもなく、彼は素直に、無理に持ちかけた感のある話題に乗った。――少し大げさに片眉を上げ、面白そうな笑顔を解かないのがひどく、癪に障ったが。

 

 

 一斤染は、ごくごく薄い、紅の色だ。
 庶民でも身につけることのできる、最下級の紅の色。それより濃い紅色は、禁色と言われ貴族や、一部の許された者しか身につ けることをができない。
 彼女がいつも身にまとう衣がそうした色であるということは知っていたが、気にしたことはなかった。彼女に高雅な雰囲気など 端から求めていなかったということもあるかもしれない。しかし安い色だと感じさせるような余地もなかった。霞むように薄い桜 の色にも似てたおやかであると同時に、身動きするたびに活発に翻る袖が、風に散り行く花びらのように華やかですらあった。
 その衣が、先の戦で血に染まったのを知っている。彼女にとっての初陣は、彼女に傷を負わせるほどのものではなかった。しかしやはり戦は戦。気づけば誰のものか、べっとりと染み付いていた血や泥の汚れに、顔を蒼くしなかったのは本人くらいのものだった。
 その後、しばらく見慣れぬ小袖姿になっていた望美に、誰かがその格好はどうしたのかと問いかけた声を、遠くから耳にしたことがあった。彼女は屈託なく笑って言った。「洗濯中で――朔のお下がりなの」と。

 そんな出来事が頭にあったのは確かだ。
 邸の者に下げ渡すのをやめた唐櫃は、九郎の自室にしばらくぽつんと置かれてあった。
 衣がなくては困るだろうし――源氏の庇護下にある者の面倒を見てやるのは名代としての義務だし――それに、あんな丈の短い袴を着るのはよせといつもいつも言っていることだし――うん、おかしくはない。おかしくはないのに――なぜこんなに妙に後ろめたいような、うろたえにも似た想いが湧いてくるのだろうか。

 

 

 そんな状態が幾日か続いたある日。
 唐櫃がなくなっていることに気づいた。
 いつなくなったのか、記憶がなかった。迷いに迷っているうちに忙しさに取り紛れ、少しだけ忘れていたことも確かだった。
 愕然としたと同時に、どこかほっとした想いも浮かんだことも否定はできなかった。

 しかし、本当にどうしたのか。主の部屋のものを、勝手に滅多な者が持っていくはずもない。むやみやたらに誰かに聞くのも躊躇われ、呆然と辺りを見回していた、その時。
 邸内を駆け抜けるけたたましい足音が、表から屋根を轟かすほどに響いてくるのを、耳にした。
 このような音が響くときは、戦の前か鎌倉からの急使が届いたときか、必ずどちらかに間違いはなく、瞬時に九郎の身体に緊張が走る。今は戦を終えたばかり、それでは鎌倉からの何か急な知らせか。
 眉宇をひそめて急使を迎えようと妻戸を開けた、その時。

 どん、という衝撃を胸に受けた。まさか邸内でそんな目にあうなどとは微塵も思っていなかった油断もあるが、咄嗟のことに受け止めきれず、足元を掬われてに身体が後方に大きく弧を描いた。
 ごん。と後頭部を床板に打ち付ける派手な音を自分の耳が聞く前に一瞬頭を過ぎったことは、まさか敵襲か、といささか見当外れのことだった。

「――っ………」

 後頭部と背中をしたたか打ち付けて呻き声を上げる。身じろごうとしても何故か呪縛をかけられたように身じろげず、辺りを確 認しようと火花の散る瞳を微かに開けた。
 ――そして、視界に飛び込んできた紫苑色の髪。……撫子色の、衣。

「――――の、」

 一気に干上がった咽喉は、意味のある言葉を発するには程遠かった。 
 なにをするんだ、とか、その衣をどこで、とか、とにかく離れろ、とか、慎みがない、とか、全部いっぺんに口から飛び出しそうになったが出てはこず、ただ頭がカッと熱くなった。
 胸にしがみつくように倒れこんでいる少女の表情は伺えず、どこに持っていったら良いかわからず行き場をなくした二本の腕が、彷徨うように空を掻いた。

 

「………九郎さん」

 柔らかな声が直接、胸から響くように伝わる。
 ようやく力づくで引き剥がすことを思いついて、腕を肩にかけたその時、あまりにも華奢で薄い感触にひどくびっくりした。

「……あのね、あのね、」

 引き剥がすのを忘れた腕が、無意識にそっと肩を撫でた。
 柔らかい絹の手触りと、それ越しに掌に伝わる柔らかで小さく、可憐な。
 しかし、暑さにも負けずに咲き続ける、靭く美しい常夏の。

「ありがとう、ございました。とってもとってもね、嬉しかったんです」

 

 ―――それは一輪の、撫子の花。

 

 

    咲きまじる花は何れとわかねども なほ常夏にしくものぞなき

 

 

(これより先は追加駄文)

 その唐櫃は些かも変わらぬ風情でその局にでんと居座っていた。

 これがこの局に置かれてから、優に半月が過ぎようとしていた。周囲の装いは淡やかな色に変わり、反物だとて仕立て終わろうという時間。だというのにこの中の撫子は、いまだ花を咲かせずに眠っている。
 主のいない局に入り込み、薬師は小首を傾げた。

「……冬まで寝せておくつもりなんでしょうかね」

 戦のことであれば即断できる癖に、それ以外のことはてんで駄目。
 その最たるもの───意中の女人に衣を贈る甲斐性など、あの朴念仁に期待するのは無謀というものだったか。
 まあ、思いついただけ、彼にしては上出来と言うべきなのかもしれない。

「仕方ないですねえ。せっかくの常夏なのだから」

 薬師はにっこりと微笑み、唐櫃に手をかけてひょいと持ち上げた。優男に見えるが、腕力はけしてその辺の将兵に劣らないのだ。
 そうしてその唐櫃は、局の主の許可を得ぬまま勝手に持ち去られた。

 一輪の撫子が、もうじき花ひらこうとしていた。

 

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**ひとこと**
神谷さまからご厚意で書いていただきましたテキストを、許可を得てかっさらってきました。
「黒幕は弁慶」とのことだったので、僭越ながら黒幕描写を私がくっつけました(笑)。
九郎はきっと放っといたら夏物の衣を冬に渡すとか、結局渡せなくてウン十年分溜め込むとか、素でやりそうです。
神谷さま、大変可愛らしい九望を、どうもありがとうございました!