| 自室に届けられていた夏物の衣を見て、ああ今日は更衣かと思い出した。 殿上貴族でなし、衣装に凝る必要もないしそんな趣味もないから、更衣といってもいつも、邸の者が整えてくれた必要最低限の衣類のみである。衣装に凝るくらいなら武具甲冑に凝ったほうがよい――と己などは思うが、世間的にはそうではないらしい。 荘園や知行国、恩顧を欲しがる者たちから上がってくる布や衣の類は少なくもないから、邸の者たちに下げ渡す。するとこの時期はあちこちでそれらが広げられ、検分したり仕立てにいそしんだりする女たちの姿がよくあった。 そんな中でふと目に付いたのはなんの悪戯だったのだろうか。 普段ならば目にもとまらないような、たとえとまったとしても大して気にもしないような、衣の入った唐櫃。 染めも華やかな夏物の薄絹が、開いた蓋から無造作に零れていた。 雅事には詳しくないが、いかにも夏らしく、爽やかな襲の色目が目を引いた。 「おや、撫子の襲ですね」 後ろから聞こえた声の主など、見なくてもわかる。 「なでしこ」 「ええ、ほら、そこに咲いている」 庭ではそう言えば、鮮やかな葉の草色に映えた薄紅色の可愛らしい花弁が見頃であったことを思い出した。 「とても似合いそうですねえ」 あからさまに含みのある声とその意味に気づかない振りをして、無理にそれから視線を引き剥がした。この男を相手になんのことだ、などとうっかり言って真っ向勝負を挑むなど、自殺行為に等しいのだ。 「――それより、」 無理に話題を変えたことに何か特別言うわけでもなく、彼は素直に、無理に持ちかけた感のある話題に乗った。――少し大げさに片眉を上げ、面白そうな笑顔を解かないのがひどく、癪に障ったが。
一斤染は、ごくごく薄い、紅の色だ。 そんな出来事が頭にあったのは確かだ。
そんな状態が幾日か続いたある日。 「――っ………」 後頭部と背中をしたたか打ち付けて呻き声を上げる。身じろごうとしても何故か呪縛をかけられたように身じろげず、辺りを確
認しようと火花の散る瞳を微かに開けた。 「――――の、」 一気に干上がった咽喉は、意味のある言葉を発するには程遠かった。
「………九郎さん」 柔らかな声が直接、胸から響くように伝わる。 「……あのね、あのね、」 引き剥がすのを忘れた腕が、無意識にそっと肩を撫でた。 「ありがとう、ございました。とってもとってもね、嬉しかったんです」
―――それは一輪の、撫子の花。
咲きまじる花は何れとわかねども なほ常夏にしくものぞなき
了
(これより先は追加駄文) その唐櫃は些かも変わらぬ風情でその局にでんと居座っていた。
これがこの局に置かれてから、優に半月が過ぎようとしていた。周囲の装いは淡やかな色に変わり、反物だとて仕立て終わろうという時間。だというのにこの中の撫子は、いまだ花を咲かせずに眠っている。 「……冬まで寝せておくつもりなんでしょうかね」 戦のことであれば即断できる癖に、それ以外のことはてんで駄目。 「仕方ないですねえ。せっかくの常夏なのだから」 薬師はにっこりと微笑み、唐櫃に手をかけてひょいと持ち上げた。優男に見えるが、腕力はけしてその辺の将兵に劣らないのだ。
了 |
**ひとこと**
神谷さまからご厚意で書いていただきましたテキストを、許可を得てかっさらってきました。
「黒幕は弁慶」とのことだったので、僭越ながら黒幕描写を私がくっつけました(笑)。
九郎はきっと放っといたら夏物の衣を冬に渡すとか、結局渡せなくてウン十年分溜め込むとか、素でやりそうです。
神谷さま、大変可愛らしい九望を、どうもありがとうございました!