前略、時空の彼方より

 

 少女はゆっくりと、山羊の白い毛並みを撫ぜた。
 干草を束ねて毛の生え揃った皮膚をこすり、湿ったものは取り替えて、少しでもその山羊が安堵して過ごせるように気を配る。その山羊は今の彼女にとって、とても特別な物思いを与えてくれる存在だった。
 山羊のほうもそんな少女の心が分かっているかのように、取り立てて追い出そうとはしなかった。他の者ではこうはいかず、気が立っていることの多いその山羊に好きこのんで近づいていくのは、お節介なほど心配症なところのある彼女だけだった。

「……どんな気持ちなのか聞ければいいのに」

 望美は山羊の背中に顔を埋め、呟いた。足を折って座り込んでいる山羊のほうは、気にも留めずに干草を食んでいる。普段ならその腹のあたりに寄りかかるのが好きだったが、今はそんな触れかたはできない。
 そこにはもうすぐ外の世界を知ろうとしている、命がいるのだから。

「あなた、お母さんになるのよ。―――ねえ、今、どんな気持ち?」

 ぴくり、と耳を動かしただけで、山羊は相変わらずのんびりと口を動かしていた。
 どれだけ訊ねても、この山羊から答えが返ってくる訳はない。それが分かっているからこそ、望美もその問いかけを口にすることができた。
 家族が増えるってどんな気持ちなんだろう。嬉しくて待ち遠しくて、いっぱいいっぱい、愛してあげるのだ、と、言葉を持たない動物たちもそう思っているのだろうか。

 じゃあ、その家族が、急にいなくなってしまったら?

「……お母さん」

 望美の小さな声が届くのは、ぴくりぴくりと動く山羊の耳だけだった。

「お母さん、お父さん……」

 首にきゅうっとしがみつけば、山羊はさすがに厭そうに首を振った。しかし望美が離れないと分かると、あっさりと諦めて、口の中に加えていた干草を再度噛み始める。
 ひっそりと紡いだ言葉が、あの懐かしい、遙か彼方の世界まで届くことはないけれど。

「私ね、今すごく、幸せなんだよ」

 面と向かって伝えられないのが、とてももどかしいけれど。
 私はここであのひとと生きていくんだと決めたこと、何も伝えられないままなのは、すごく哀しいことだけれど。
 ……思い返す面影が段々と薄れていく、それはとても寂しいことだけれど。

 それでも。

「……絶対、絶対、後悔なんてしない。今までだってしたことないし、これからもずっと」

 親離れがほんの少し早く、完全なものになってしまっただけ。
 私のこの手は、お母さんとお父さんの手を離して、あのひとの手を取っただけなの。私よりもずっと前に、お母さんとお父さんがそうしたように。

「だから……」

 どうか、心配しないで。
 どうか、泣かないで。
 あなたたちの娘は、元気で幸せにやっているから。

 その呟きは声にはならなかった。
 ただ、蹲ったままの山羊が、もう一度だけぴくりと耳を動かした。





 山羊たちの小屋から出れば、夕暮れも近い。
 その中に佇むその人の髪が、夕焼けの色と相まって輝くようだった。

「望美」

 差し伸べられる手が嬉しかった。
 だから望美は笑って、その手に遠慮なく甘える。
 縋りついてきた彼女を支えていた男は、しばらく躊躇したように唇を開いては閉じていたが、やがて意を決したように言葉を選び始めた。

「……望美」

「はい?」

「その───そう、気にしていた山羊は、そろそろか?」

 九郎の胸元に顔を埋めて隠したまま、望美はくすくすと笑う。
 訊きたいことはそれじゃないくせに。私をまた落ち込ませるとでも思ってるんでしょう。
 不器用なひと。

「まだですよ。私があの子のそばにいたいだけ。子山羊、かわいいんだろうなあ」

「……ああ、そうだな。だが生まれたての仔といっても、獣の生命力は強靭だぞ。何しろ、生れ落ちてすぐに自らの足で立ち上がるからな」

 九郎はそこまで言って、またふいと口を噤んだ。
 望美がその表情を覗き込もうとすると、夕日を映した鳶色の瞳が僅かに揺れる。

「……お前は」

 どんな言葉をその後に続けようとしているのか、分かった望美はぱっと手を伸ばした。
 少し荒れてかさついた唇に指を当てれば、む、と唸ったような声が洩れて、吐息のぬくもりに包み込まれた。

「忘れないよ。逢いたいっても思う。けど、後悔なんて一つもしてないんだから」

 遙かに遠い世界の大事なひとたち。
 隔てられているのが時間だろうが空間だろうが、逢いたいと思った時に逢えないのは同じことだ。
 それでも───悔やむことだけはしないと、互いが言い切れるのを、知っている。

 望美の言葉に、九郎は決まり悪げにその細い手首を掴んだ。

「……そうじゃ、ない」

「へ?」

「お前は、その……すぐに赤子を欲しいのかと」

「…………は!?」

 この脈絡でそっちに行くのかこの男は。
 しんみりした気分をぶち壊された望美が照れ隠しに声を荒げるより一瞬早く、九郎の腕が強く少女を引き寄せて包み込んだ。

「───もう少しだけ」

「……九郎さん?」

「いずれは、と思っている。だがもう少しだけ……俺だけのお前で、いてくれないか」

 夕暮れは闇へと取って代わられていき、もう互いの表情の輪郭もぼやけてくる。
 それでも互いに色づいた頬をしているのだろう───と望美は思い、そのまま九郎の胸に頭をもたせかけた。

「───私はいつだって、九郎さんだけのものですよ」





 ね。お母さん、お父さん。
 私はとても、幸せだよ。このひとと一緒にいる限り、いつまでも。
 どうかこの気持ちが───時空の果てからでも、伝わりますように。

 

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**ひとこと**
100000Hit御礼の九望SSです。事前アンケート1位舞台【春のモンゴル】。十六夜ED後。
春に限定しなくても別によかったんですが、他選択肢が全部季節つきだったので、過ごしやすそうな春をセレクト。
草原だからむしろ雨季と乾季と氷って感じに三分割されてそうだ。高温多湿に慣れた日本人には異質な環境だよな〜。
それでもゲットした男とならどこででもたくましく生きていけそうなパワフル神子(笑)。

現在はフリー配布は終了しております。