ずるいひと

 

 わたしのすきなひとは、とてもずるいひとです。





「あー……」

 思わずこぼれた溜め息は、音を伴ってやや間抜けに響いた。
 望美は恨めしく空を見上げた。座り込んだその場所は大層居心地が悪く、当然ながらそこに甘んじていたい訳ではなかった。けれど自分ではどうすることもできなかったので、己の愚かさを悔やみながら助けを待つしか方法がない。
 この、じめじめとした穴の底で。

「……てか、その前に大騒ぎとお説教だよねえ……」

 行軍のさなかでなかったのは不幸中の幸いだが、またじきに出陣が迫っていることを、望美は知っている。
 誰に訊いたのでもない、知っているのだ───『事実』として。

 懐に秘めた、一枚の鱗の力で。

 そもそもどうしてこんな事態になったのかと言えば、雨の中を歩いていたのだ。
 行き先などある訳ではなく、ただ山道を彷徨い歩いているうちに、雨が降ってきたのだった。そんな当てずっぽうな行動であるからには、同行者などいるはずもない。もやのようにけぶる霧雨は、それでも確実に少女の髪を衣を濡らし、佩いた剣からは白露が流れた。

 帰らなければ、とは分かるのだが、そういう気にもならなかった。
 帰ったところで何になる。この先の運命を変える手がかりも、まだ掴めていないのに。

 望美は立ち止まり、静かに空を見上げた。絶え間なく霧雨を舞い散らせる曇天は分厚い鉛色を見せているだけで、降り止む気配もなく、ただ緩慢に体温を奪っていく。
 無為なことをしているのは分かっていた。心配をかけるだけだと。
 けれどどう言えばいいのだろう、どうすればいいのだろう、運命を変えるために。誰ひとり欠けることなく生き残るためには、どうしたら。

 空を見たまま、足を踏み出した。

「───っ……!?」

 それだから望美はまったく気づかなかった。足元に張った木の根に。
 山道を進むには不用意極まりない歩き方だったと、思い出した時にはもう遅い。斜面は幸いそれほどきつくもなかったが、一度崩れた体勢には、転がり落ちるに十分すぎるほどだった。

「あ、わ、わわっ!!」

 下はどうなっているだろう、岩盤だったら叩きつけられて骨折のひとつも覚悟しておかなければならない。よりによって福原行きを控えたこんな時に。軽傷ならともかく、足や利き手をやられでもしたら、従軍など絶対に許してもらえないだろう。ああ、逆鱗って、跳んだら怪我は治ってるんだろうか。
 そんな考えが一瞬のうちに望美の脳裏を過ぎったが、彼女の懸念が現実になる前に、更に予想外の事態が起きた。

「───ひゃっ!」

 斜めに落ちていたのが、不意に身体がふっと浮いて、そして垂直に落ちた。
 投げ出された先が崖なのか、と総毛だったが、すぐに望美の背は地についた。柔らかいとは言い難かったが、決して堅くもない、落ち葉の褥に。

「…………っ」

 しばらくは声も出ず、望美は呆然とその穴の中に転がっていた。天然のものか猟師が掘ったものかは判然としなかったが、問題なのはただ一つ、『自力で這い上がるのが困難なほどの深さ』であることだった。

「……うそぉ」

 明け方に黙って抜け出してきた。行き先など誰にも告げていない。
 帰りたくても容易に帰れない状況に陥ってしまった自分。
 望美はもそもそと起き上がり、自分が置かれている状況を整理してみて、今更のように真っ青になったのだった。

 それでも一応、自力で這い上がろうと努力はしてみた。穴の側面には僅かに草が生えていたし、足場と呼ぶには心もとないにしても多少の石も露出していた。
 しかしながら、霧雨に濡れていることが、非常に厄介だったのだ。
 二度まで滑り落ち、三度目には足がかりにしていた石がぼろりと土から剥がれ落ちた。湿った朽葉の匂いにむせそうになりながら、望美は周囲を見回してみたが、代わりに足をかけられそうな石はもうなかった。

「…………」

 ああもう。何やってるんだ、私。
 なんだか自分がこの世で一番間抜けな生きものに思えてきて、望美は自己嫌悪に溜め息をついた。誰かを救うどころの騒ぎではない、まず自分の面倒すら満足に見られていないのでは、たとえ大怪我をしなくて済んだとしても噴飯ものだった。
 泥まみれになり、手には草を握りこんだせいで切り傷ができて、多少血も出ている。あちこち擦りむいていて打ち身もしたし、細かい怪我を数え上げればキリがない。

 だから。

「───望美!?」

 ぽかりと切り取られた空の淵から見知った説教魔の顔が覗いた時。
 望美は有り難さを感じるより先に、『見るなこの野郎』と些か乙女らしくないことを考えた。





「よくここが分かりましたね、九郎さん」

「何を呑気なことを言ってる! 白龍も正確な場所までは分からんと言うし、皆が総出で捜していたんだぞ!!」

「あー……それはどうも、大変なご迷惑を」

 座り込んで膝を抱え顔を埋め、望美は大層気の無い返事をした。
 もともと顰められていた九郎の眉根が、一層きつく寄る。

「そう思うならさっさと上がれ!」

「んーと。上がれないんで、罰ゲームにしばらく放置しといてください」

 何が助けるだ。心配をかけて、迷惑をかけて。挙句に手を煩わせて。
 こんな自分が恥ずかしくて堪らない。穴があったら入りたいと言うが、今はちょうど実際に穴の中に入っているのだから、頭が冷えるまでこうしているのもいいかもしれない。居場所と安否さえ分かっていれば、仲間たちも不必要な心労を抱え込まなくて済むだろう。

 そんな自暴自棄な思考に陥っている望美を見て、九郎はひとつ舌打ちをする。
 そして。

「……分かった」

 言うが早いか、望美の脇に小さな風が起こった。
 微かに甘い香の薫りが、少女の鼻腔に忍び込んだ。

「───九郎さん?」

 望美のすぐ隣に、九郎は躊躇いもなく飛び降りていた。広くもない穴の底で、泥に汚れた望美の身体にぞんざいに腕を回す。情緒の欠片もないその触れかたは、けれど雨に冷えきった少女には、ひどくあたたかいものだった。

「動かんつもりなら、担いででも連れ帰る。説教はその後だ」

「え、わ、」

 いきなり視界が高くなる。
 抱え上げられて、望美は思わず声を上げたが、真の驚きはその後だった。

 たん、と。

 少女とは言え人ひとりを抱えたまま、九郎は軽々と跳んだ。
 望美が散々挑戦しても這い上がれないほどの深さの穴を跳躍し、穴の淵に降り立つ。息ひとつ乱していないし、特に力んだ様子もなかった。抱えられていたのだから、望美にはそれがはっきりと分かる。

「え……ええぇ!? 嘘っ……え、なにしたんですか、今!?」

「何って、跳んだだけだ」

 むっつりと不機嫌に答えると、九郎はそのまま───望美を抱えたままで歩き出した。

「……あの。足は多分怪我してないんで、歩けますよ」

「多分とはなんだ。いいから大人しくしてろ」

「でも……」

 言いかけて望美も黙り込む。
 ぴりぴりとした尖った気配が、九郎から伝わってきていた。それは出立が間近くなればいつものことで、それが彼の責務であり彼自身がそれを誇りに思っているとは言え、望美はそれを見るのが哀しかった。
 本当は、お日様のように笑っているのが似合う人なのに。
 こんなにあったかい人なのに、戦はそれを押し殺させてしまう。

 ぽつりと、九郎が呟いた。

「───お前一人で、悩むな」

「え……?」

 自分の物思いに耽っていた望美は、九郎を見上げた。
 彼は彼女を見てはいなかった。霧雨の先を見据えているような瞳をしていた。

「何を悩んでいるのかは知らん。言いたくなければ、それでもいい。だが」

 一言一言が、からだに染み渡ってゆくようだった。

「お前は一人じゃない。心配くらいさせろ」

「九郎さん……」

 甘やかすような言葉はずるい、と望美は思う。
 九郎はいつだってそうだ。肝心な時に、結局はいつも───やさしい。
 だから、甘えたくなってしまう。そんな自分が望美は許せなくて、それでも振り払えるほど強くもなれなくて。だからいつも望美は、九郎といると、泣きたくなる。
 泣きたくなるほどに、心が震える。

「……なんで九郎さんには分かっちゃうのかなぁ……」

 霧雨の存在を、今日初めて有り難いと思った。
 少しだけ滲んだ涙も誤魔化してくれるから。

 小さな溜め息をこぼした望美を抱え直し、九郎は微かに笑った。

「───許婚、だからな」





 わたしのすきなひとは、とてもずるいひとです。
 とてもとてもずるいくらい───まっすぐな、やさしいひとです。

 

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**ひとこと**
60000Hit御礼の九望SSです。事前アンケート1位台詞【許婚、だからな】。
甘くしようと思えばいくらでも甘くできる台詞なのに、やっぱりうちの九望では大人しく甘くはなりませんでした(笑)。
取りあえず『状況を見ずに一人歩き』は白龍の神子様の伝統必殺技なので、山歩きしてもらいました。
ついでにドジっ子らしい一面を出すべく穴に落ちてもらいました。おむすびころりん。

現在はフリー配布は終了しております。