| 何千年あったって 語りつくせるものではない おまえがわたしを抱き わたしがおまえを抱いた あの永遠のほんの一瞬間は 冬の光がさしていたある朝のこと パリのモンスーリ公園で パリで 地上で 天体の一つ 地球の上で (【庭】『パロール』 プレーヴェル/北川冬彦訳) 「抱きしめてください」 望美がそう言ったのは、まったく唐突なことだった。少なくとも、九郎にとっては。 帰還を明日に控えたその夜、寝つけずに訪れた濡れ縁で鉢合わせた際の、しばらくの沈黙を破っての言葉だった。 明日には彼らは───異世界から訪れた神子と二人の八葉は、故郷に還る。二日前に目の前の少女が自ら言い出したことで、引き留める親友や己の八葉たちの言葉も微笑んだままに謝絶していた。突如として訳の分からぬ役目を押しつけられながらも、それを立派に果たした望美なのだから、引き留めるだけの理由はなかった。 それに対して覚える感慨は、ただの感傷だった。共に過ごした時間はさほど長くはなかったけれど、何よりも密度の濃い一年余りをこの少女と駆け抜けた。己にとって世界の全てであった源氏に斬り捨てられたにも関わらず、今なお九郎がこうして生きているのは、間違いなく望美が傍にいたからだった。 感謝の念と一抹の寂寥こそあれ、それ以外の感情を挟む余地など、ない。 そう、思おうとしていた。 「望美?」 思わず咎めの意を含む声と共に脇を見下ろしたが、望美は浮かぶ月を眺めたままの姿勢で、九郎のほうを見てはいなかった。 戯れのつもりか、それとも本気なのか。 九郎には、分からない。 「……おい?」 再度声をかけると、ようやく少女が小さく笑ってこちらを向いた。 儚い笑みが一瞬泣いているように見えて、胸の奥がひとつ、音を立てて跳ねる。 「───ふふ。なんでもありませんよ、冗談です」 「…………」 「あ、もしかして、本気にしました?」 その瞬間、空気の色が変わった。 望美の悪戯っぽい瞳がしてやったりと煌き、九郎の頬に気色ばんだ朱がのぼる。 「っば、馬鹿っ! 年上をからかうなっ!!」 「やだ九郎さん、顔真っ赤〜」 「望美っ!!」 「きゃー九郎さんが怒った、暴力反対っ」 「誰がだっ人聞きの悪いことを……こら待て、望美っ!!」 濡れ縁をぱたぱたと逃げ出した望美は、折れ曲がった回廊の端で振り向いた。 たった今まではしゃいだ様子だったのがすとんと消えた、静かな静かな、その佇まい。 「……お休みなさい九郎さん」 今宵の望美はどこか妙だ、と九郎は思う。まあいつも妙なのだが、いつも以上に妙だ。いきなりとんでもない要求を口走るかと思えばそっぽを向き、騒がしく笑い転げたそのすぐ後には憂いを見せる。 それがどこからどんな理由で来る態度なのかが、分からない。 「───あ、ああ」 「また───あした、ね」 それだけを溜め息に乗せて、望美の気配は九郎の感じ取れる範囲から消えた。 明日。 明日には望美は、還る。 伸ばしかけた腕を引き、九郎はぐっと拳を作る。 「……そのために、あいつは戦ってきたんだ。何を今更、考えている?」 望美や朔が女の身で戦場に立つことを、九郎は決して快くは思っていなかった。それでも彼女たちにしか成せぬ働きがあり、それが源氏の勝利のために不可欠である以上、戦列から外す訳にはいかなかった。 源氏を追われても、それは変わらなかった。ひとたび生み出された怨霊は、もはや源平など無関係に彷徨い、生ある者を脅かす。この奥州の地にさえ怨霊がはびこり、朔が必死に仲間の傷口を浄化する傍らで、望美が剣を杖代わりに白龍に寄り添われて五行の乱れを正している姿を、何度も見てきた。 望美は言った。自分にも事情がある、帰るために戦うのだと。 ならば明日は彼女の満願の日だ。 それを祝いねぎらい行く末を案じる言葉だけが、明日に相応しい。 「…………」 九郎はどかりとその場に座し、拳を額に当てて強く瞳を閉じた。 心の奥底でざわめくものに、ずっと蓋をしてきた。今はそれどころではない、と。 平家との死闘、平泉への逃亡、鎌倉との決別の戦い。そんな状況の中で己にも理解できない内なる声になど向き合う暇はなく、ようやく少し落ち着いてきて、その声が呼ぶ少女はこれからいつでも目の前にいるのだと思っていた。だから焦る必要はないのだ、と。 その声が求めるものは、いつだってたったひとつだけだった。 自分でも薄々気づいてはいたが、それを認める気も告げる気も、なかった。 言っては、ならない。 それは彼女の願いをすべて奪ってしまうこと。 それだけは、できない。 「望美……」 拳を解き、両の手を見つめた。 抱擁を求めた望美に、応えてやらなかった、己の両の手。 「神子、もういい? 時空の扉を開くよ」 「うん。白龍、お願い」 口々に別れの言葉を告げていたのが治まったとき。 望美はやわらかく微笑みながら、神の言葉に頷いた。 奥底に押し殺したざわめきがその瞬間ひときわ高まり、九郎は僅かに眉をしかめた。割り切れない己が不甲斐なく、それ以上に遣る瀬無い何かが込み上げてきて、ひどく不快な心持ちがした。まるで己が己ではないような気すら、した。 もういっそさっさと帰ってくれ、と、捨て鉢なことを考えながら白龍を見た。目の前から消えてしまえば、これ以上悩まなくても済むだろう、と思った。 九郎の隣に佇んでいた龍神の祈りと共に、ふわりとした白いもやが渦を巻く不可思議な一郭が、無量光院の庭にあらわれた。 「神子。譲、将臣。ごめんなさい、そして本当に、私たちを救ってくれて、ありがとう」 「いーっていーって。今更済んじまったことなんだし、気にすんな」 「兄さんがそれを言うなよ。……でも白龍、本当にそうだから。もういいんだ」 有川兄弟の言葉に、幼馴染みの少女が笑った。 「うん……私こそ、白龍の神子でいられて、いっぱい大切なこと教えてもらった。ありがとう」 「神子……私の、神子……」 「ちょっ、白龍、苦しいよぉ」 白龍にむぎゅーっと抱きつかれて動けなくなった望美は、仕方ないなあといった表情でその背を撫ぜた。有川兄弟は先に白いもやの中に入り、苦笑と共にそれを見守っている。 ああ、望美を見るのもこれが最後なのだな、と九郎はぼんやり考えた。 やがて白龍が渋々腕を解き、解放された望美がもやへと足を踏み出す。 その足は九郎の前で立ち止まり、澄んだ大きな瞳が九郎を射た。 「───さようなら、九郎さん」 別れの言葉。 告げようと決めていたその言霊を、いざ望美の口から聞いた瞬間、その響きの残酷さに九郎は震えた。 何を考えるまでもなく、腕が動いた。 去ろうとするいとしいひとを、絡め引き寄せて閉じ込めるために。 望美は拒まなかった。ただ一瞬、びくりと華奢な身を震わせただけだった。 振りほどこうとしないその仕草に僅かに力を得て、一層腕に力を込めた。腕の檻の中にずっと閉じ込めて離さず、自分の傍に置いておきたいとすら思った。 「……ちょ、九郎さん!? 先輩、早くこっちへ!!」 今にも掴みかかりそうな譲の襟首を捕まえた将臣が、九郎を見てにやりと笑った。 「ギリギリセーフってとこか。お前、踏ん切りがおせえよ」 「何言って───離せよ兄さん、先輩が帰れないじゃないか!!」 「帰んねーだろ、ありゃどう見ても」 「なっ───」 「白龍、もういいぜ。やってくれ」 絶句した弟に構わず、兄はのんびりと神に声をかけた。 神はきょとんと首をかしげ、己の神子に問いかけた。 いまだ九郎の腕の中にきつく閉じ込められたままの、少女に。 「神子はそれでいいの?」 「───うん」 先輩、という悲鳴が終わらないうちに、二人の八葉だけを飲み込んでもやは消えた。 「望美」 腕の中の少女が、涙をこぼしながら笑った。 「はい、九郎さん」 そうして、細い腕で精一杯、九郎の逞しい背を抱き返してきた。
了 |
**ひとこと**
30000Hit御礼の九望SSです。事前アンケート1位【ハグくらい頑張れ】。(質問:九郎の押しはどこまで可?)
最初は無印帰還の予定だったんですが、元ネタの詩を読み返したら平泉帰還のほうがしっくりきたので変更。
鈍くてじれったくて最後は甘い。うむ、九望というCPの王道だ。王道すぎてつまらない(爆)。
アンケートにお答えくださった方々、及びご訪問いただいた方々に、改めて御礼申し上げます。ありがとうございました!
現在はフリー配布は終了しております。