遙か3九望で【君を想う5つの情景】
シリーズタイトルは「必要なのはその景色の中にあなたがいること。」でした。
叩いてくださった皆様、本当にありがとうございました!
| 花散る水面 意識を満たす、やわらかなもの。 消え残る春霞の中に煌く水面、そこに浮かぶ薄紅の花弁。葉の見え始めた木々からひらりと旅立ち、その淡やかな色はどこまでも可憐に風に身を任せたあと、やがてそっと仲間のもとへたどり着く。あるいはそのまま吹き散らされ、あるいは鋭い刃に二つに断たれて、またふわりと浮かび上がる。 神泉苑の最後の桜。それに合わせて剣を振る音は、二つ、あった。 「打ち合わせる稽古だってできるのに、勿体なくないですか?」 ぽつんと片方がそんな不満を口にした。 もう片方は気にも留めず、一向に手を止めない。空気を切り裂く音が一つに減った。 「悪いがお前の体力に合わせていては、俺の鍛錬にならん」 ふくれる少女の見守る中で、また花びらが断たれていく。それは完成された一枚の絵のようだった。夢幻のような美しさの散りゆく桜、それを断つ九郎の見事な所作。違和感なく溶け合ったそれは他のどんなものも必要としておらず、むしろ何かが入り込もうとするのを弾き出す感さえあった。そう、すぐ隣にいる自分さえも。 このひとの世界の中に、わたしはいらないんだ。 それをまざまざと見せつけられてしまうから、望美はこうして九郎と二人、花を断つのが好きではなかった。互いの剣を合わせる稽古のほうが何倍も嬉しい。どんなに容赦なく切り込まれて尻餅をつこうが、剣を取り落とすほどの手の痺れに襲われようが、九郎の瞳が真っ直ぐに自分を見ているから。 望美はひそやかに息をつき、気を取り直して剣を構えた。出陣間近のこの時期に、いつまでも自分の感情を優先させる訳にはいかない。自分の身を守ること、そのために仲間の手を煩わせないこと、運命の流れ着く先を見極めながら選び取ること。どれだけ集中してもまだ足りないほどで、ついこの間までなんの覚悟もなかった女子高生には荷が重い。 それでも誓った。自分にしか、成せないことなのだから。 その覚悟を載せて、少女の剣が花を断った。 視界を舞う柔らかな色彩が、ひとつ増えた。 その感覚はいまだ九郎にとっては慣れないもので、どう扱えばいいものか、正直戸惑っているというのが正解だった。普通の娘であればそもそも戦になど出てこない、普通の将兵であれば頑健なのが分かっているから躊躇はしない。けれどこの望美という少女は、そのどちらにも当てはまらなかった。だから九郎は彼女と直接太刀を合わせることを、あまり好んではいない。大体吹っ飛ばすか転ばせるか、膂力の差だけでも明らかなのに、彼女はどうして飽かずに挑んでくるのか。 それよりも、こうして。 花と舞うような彼女の太刀筋を、少し離れて見ているほうがいい。 花のような色をまとう少女の姿が、散り敷いた桜の隙間から、水面に映えて静かに融けた。 (それはまるで夢幻のごとく) ***** 黄昏に染められた部屋 じわりと滲むその影すら、ひそやかな朽葉の色に染めて。 手元が見づらくなってきたと意識にのぼれば、既に日差しは夕暮れへと変化していた。厳しい夏の日差しはいつの間にか影を潜め、ふと思い出したように潮の香を感じる。 結局今日はまる一日を、鎌倉との書状のやり取りで潰してしまったらしい。平家を追い詰めるまであと一歩とは言え、鍛錬を怠ってはならんな、と己を戒めつつ、九郎は深呼吸と共に背筋を伸ばした。凝り固まっていた節々にすうっと血が通っていく感覚が、僅かな痺れを伴って全身を駆け巡る。鍛錬の後とはまた異なる疲労感だが、これで当面の執務は片付けたと思えば、その達成感を心地よいと感じることもできた。 「九郎さん、なんか年寄りくさい」 不意に笑い含みの声が、背後からかけられた。 振り向けば予測にたがわぬ神子の姿が、差し込む夕日に滲んで見えた。目も疲れているのか、と瞬いてはみたが、その滲みは解消されるばかりか、余計に強くなる。 「……すっごい眠そうな顔してますね?」 望美はそう言いながら、許しも得ずに室内に上がり込む。拒むつもりはなかったが、礼儀としてどうなのか、と九郎は一瞬思った。しかしそのための言葉を選ぼうとした途端、何故か急に馬鹿馬鹿しさを感じる。別に良いではないか、今この瞬間、己はその態度を不快に感じた訳ではないのだから。甚だ『らしくない』とは分かっているが。 らしくないと言えば、望美も同じような気がする。普段なら放っておいても一人で立て板に水のごとく喧しい言葉をまくし立てるくせに、今の彼女は言葉少なに、静かにこちらを窺っているようだった。だから一層、戸惑ってしまう。望美と思ったのは勘違いで、誰か他の者だろうか。 九郎の意識の中に、小柄な影だけが色濃くなっていく。 誰そ彼時とはよく言ったものだ。 相手が本当に望美なのか、自分が本当に自分なのか、分からなくなる。 すべてこの夕日に輪郭が滲んで融けて、ぼやけた。 「―――九郎、さん?」 こちらを向いた九郎の瞼が、僅かずつ、落ちていく。スローモーションのようなそれを見て、ああ眠いのか、と望美は理解した。それでも姿勢は崩さないのが妙に可笑しい。眠れる時には即座に寝ておくのが戦場に出る者の心得―――とはリズヴァーンに諭されていたが、まったくどこまでもこの兄弟子は忠実な手本を見せてくれる。 望美はひそりと、声を立てないように笑った。そっと近寄り、肩に手を置いて揺らしてみる。 あっけないほど簡単に、九郎の上体が崩れ、望美にもたれかかってきた。 「っ、と、と……」 仲間うちで見ている限り、九郎は決して小柄な印象ではなかったが、大柄なほうでもなかった。だが実際に重みを預けられると、思わず自分まで巻き添えをくって倒れかけるほど、鍛えられた身体はずっしりと感じられる。望美は注意しながら少しずつ体勢をずらしていき、九郎の身を横たえて、その頭だけを自分の膝に乗せることにどうにか成功した。 上から覗き込むと、いつも寄りがちな眉根がやわらかくほどけている。 ―――珍しいよね、こんな九郎さん。 夕餉だと呼びに来たのは偶然だったが、いいものを見た。 望美はそっと、起こさないように、九郎の額にかかる前髪を払った。やわらかな手触りを指に伝えてくるその髪は、その空間を満たす黄昏の色と溶け合って、少女には大層美しいものに感じられた。 静かな夕暮れの、永遠にも思える一瞬。 (蕩けそうなまどろみの中) ***** 言葉を奪われる虹 儚く消えるからこそ尊いなんて、誰が言ったのだろう。 秋も終わりの驟雨がもたらしていくものは、肌寒さと静けさ。ただでさえまばらになりがちな人の気配が、どんどん間遠になっていく。己だけが取り残されたような、そんな感覚。 それでも今は、自身のことよりも、傍らのぬくもりを護るほうに意識が及ぶ。 「そんなに端近に寄るな。濡れる」 「へーきですよー」 望美の口調は気が抜けるほど呑気だった。時折彼女はこうして、九郎の配慮や心労など十把ひとからげにしてしまうような態度を取ることがある。本人いわく『だって九郎さん、誰かがガス抜きしないと爆発するから』だそうで、意味が分からないと問いただしたところ、四神の相方に生ぬるい笑みで肩を叩かれた。 とにかく室内にいるだけまだマシなほうで、その長い紫紺の髪が艶々と小さな雫をまとわせている様子は、不本意ながら美しいと言えなくもない。 「……雨など見て、なにが面白いんだ?」 「ん、降ってるのに日が射してるから。もしかすると虹が見られるかも」 望美の指さす方角を見れば、確かに妙に空が明るい。雲がかかってはいるものの、そう分厚いものではなさそうだ。 だとすればこの雨も、直ぐに止むのだろう。 そして雨は雪に変わり、この地は早々と氷に閉ざされる季節を迎える。 そうなれば一刻の猶予もない。 いや、今だってそんなものは、ない。己を元凶として事態が急速に推移しているというのに、どこか自分の周りの時間だけが鈍くたゆたっているように、九郎には感じられた。あの海の中に、時の流れを沈めてきてしまったかのような、薄絹の向こうですべてが展開しているような、隔絶された違和感。 「───また変なこと考えてるでしょ?」 なのに彼女の声だけは、その薄絹を潜り抜けて届くのだから、大層不思議だ。 ちょん、と眉間を突く細い指。 「ここ。九郎さんはすぐにここに皺寄るんだから、分かりやすいんですよ」 にこりと笑った彼女は、九郎の額に触れた指をそのまま、空へと向けた。 「ほら見て、九郎さん。虹が出たよ」 気づけば驟雨は止んでいた。 指先が示す、弧を描く淡い輝き。儚げな、いつ消えるとも知れない、その美しさ。 「……神子というのは預言もできるのか?」 望美はころころと笑った。 「さあ、どうでしょう?」 そう言う彼女の笑顔のほうが、空に架かる光の橋よりも、九郎にとっては価値のあるものに感じられる。 九郎はそっと、笑い続ける望美の頬に掌を伸ばし、撫ぜた。 望美はくすぐったげに首を傾げ、静かに瞳を閉じた。 儚く消える虹より尊い、自分がいつでも触れられる、神子の優しいぬくもり。 (虹より美しいなどと、言ったら笑うだろうか) ***** 星が溶けゆく明け方 あえかな輝きの歌に終わりを告げ、歩き出す。 普段からは考えられない時間に、我慢できず起き上がった。きんと冷えた空気に吐息は白く立ち上り、空はまだ暗い。けれどほのかに薄明るくなっていく東を見れば、じきに夜明けが近づいているのだろうと分かる。 毛皮の中に陣羽織を引き込み、もぞもぞと着替える。行儀は悪いのだろうが、正直この寒さの中に身を晒して着替える勇気は、望美にもない。 『共に来てもよいと思う者は、明朝、伽羅御所に集まってほしい』 かっこつけ、とからかえば、そんなつもりはなかったんだが、と彼は笑った。 その笑顔を見て、望美は安心もしたし、それとは別のところで少し胸を高鳴らせもしたのだ。原因を作った本人が、それに気づくことはなかったとしても。 ここで逃げる人なんて誰もいないのに、本当に、鈍いんだから。 鈍いと言うよりも、それが九郎なりの誠意であることは、望美も厭になるほど知っている。 けれど今更そんな他人行儀なことを言われてもな、と思ってしまうのも確かだ。それが九郎らしさなのだと分かっていても。 不安があるとすれば、その言葉に仲間が応じるか否かを危ぶむものではなく、激戦となるであろう道行きのことだ。決して油断するつもりはないけれど、望美の手の届かないところで誰かが死んでいく危険だって、十分に有り得る。その時は何が何でも自分がその運命を変えなければならない―――と、逆鱗を握り締めて神子は誓う。 東の空に消え残る明星が、ふっと融けた。 空の色がふわりと、生まれる光にその濃さを薄めていく。 「―――望美」 その声を待っていた。 東の方角より暁を呼ぶ、その声を。 「はい」 望美は被っていた毛皮を抜け出し、剣を佩いた。 さあ、歩き出せ。 「……来て、くれるか」 「当たり前です」 未来を、諦めないために。 (一人ぼっちじゃないこと、忘れないで) ***** 高く澄んだ淡い空 どこまでも広がる青空のような、その笑顔が何よりいとしいから。 背伸びをしなくてもいいのだと、走らなくてもいいのだと、初めて実感できたような気がする。 寂寥も悔恨も、ないとは言えない。けれどそれでいいのだと、彼女は言う。それが当たり前のことで、誰が責めるべきことでも、もちろん自分自身で気に病むことでもないのだと。 「だってその九郎さんがあってこそ、今の九郎さんがいるんだもの」 にこりと笑う彼女はいつだって、九郎の一番欲しいものをくれる。 だけどその彼女が自分のために手放したものの大きさと重さに思いを馳せるたび、いつまでも消えない負い目を感じてしまう。ただ単に自分が彼女よりも女々しいからだろうか、それとも神に選ばれるだけの彼女が、並みの男では敵わないほど見事な信念を持っているのか。 この手はちゃんと、彼女を抱きとめていられるだろうか。 いつか愛想を尽かされて、目を離した隙に天へと還ってしまわないだろうか。 ───彼女に、幸せを与えられているだろうか。 九郎のぎゅっと寄った眉根を見て、望美は仕方ないなあと笑う。 この人は本当に、いつまでも、変わらない。いつだって真っ直ぐに不器用に、自分にできる最善のことを、一生懸命に考える。そしてそれは必ず、彼自身ではなく、彼が大切に想うものへと向けられる。 もうちょっと我侭になってよ。自分のことを、考えてよ。 それくらいが、あなたにはちょうどいいんだから。 「あのね九郎さん。幸せって、一方的にもらうものじゃ、ないんだよ」 ぎゅっと手を取って握ると、九郎が戸惑ったように瞬いた。 その瞳の奥に薄く翳っていた苦い色は、少なくとも今はもう、ない。 「私と、九郎さんで。二人で一緒に、築き上げていくものなんだよ」 風が吹けば、草原の甘い薫りが身体いっぱいに満ちていく。 「だから、ね」 ぎゅっと抱き締められて、望美も自分の腕を九郎の背に回した。 精一杯の背伸びで、耳元に囁く。 ───これからもいっぱい笑って、ケンカして、仲直りしようね。 どこまでも広がる、この蒼い空の下で。 (一緒にいれば、何だって、何度だって) |