名づけ得ぬこころ

 

 一杯やろうぜ、と将臣が九郎を誘ったのは、朝夷奈で二つめの呪詛を浄化した日の夜。気の置けない仲間と干す杯が不味かろうはずはなく、九郎も快諾して、男ふたり、梶原邸の濡れ縁を占拠していた。

「そう言やお前、あっさりOKしたけど、いいのか? いつもは望美となんかやってただろ」

「剣の稽古か。……いや、あいつなら、先生と手合わせをしているだろう」

 リズヴァーンの教えは常に実戦を踏まえたもので、夜闇の中でも稽古は行われる。おのずと、弟子である九郎と望美にもそれは受け継がれており、毎日のように日が落ちてからの稽古が兄妹弟子の間で交わされていた。そう、つい最近までは。
 望美が九郎を避けているのは、誰の目にも明らかだった。今までと同じの単なる喧嘩ではなさそうだ、と見当がつくから、周囲も迂闊に取り成しに入れないでいる。

「…………」

「お前、分かりやすすぎ」

 九郎の止まった手を、将臣は遠慮なく笑い飛ばした。
 つまり九郎は、面白くないのだ。望美が自分を頼りにしなくなったことが。けれど口に出してそうとは言えず、更にどうして自分が面白くないと感じるのか、その理由から故意にか無意識にか目を逸らしている。

 不意にかろやかな少女の声がしじまを破った。

「……あれ、将臣くん! どうしたのそんなとこで」

 また厄介なところに、と将臣は内心で苦笑する。きっと彼女の立った場所からは、九郎は死角になっていて見えないのだろう。まあいいか、せっかくありついた酒を手放すより、さっさと仲直りさせたほうが話が早い。

「ひとりでお酒? めずらし……あっ」

「よう」

「お前か」

「く、九郎さんも……いたんだね、ごめん」

 剣を下げている望美は、本当に稽古をしていたのだろう。熱心だねぇこいつは、とは将臣の感想で、やはり先生との稽古が望美のためにはいいのか、というのが九郎の煩悶。
 望美は困ったように、青龍の八葉を見比べた。そのまま立ち去るというのも、自分から声をかけた手前、不自然で。九郎の顔をまともに見られないのは仕方ないが、将臣も同席しているなら、まだなんとか間が持つのではないかと思い直した。
 濡れ縁に近寄り、ちょこんと腰掛ける。そこが将臣のすぐ脇だったのは、望美にとってはごく自然なことだったのだが、九郎にとってはやはり小さな苛立ちの種だった。

「あー、喉かわいたー。ねえ、ここにあるの、お酒だけ? お水とか、ない?」

「ばーか、水なんてねえよ。なんならお前も飲むか」

「将臣くんはいいだろうけど、私飲んだことないし。いいよ、あとで朔にお水もらうから」

「そう言うなって。何事も経験だろ」

「それ、意味が違ってると思うよ、将臣くん」

 ひとり蚊帳の外状態の九郎は、ますます面白くない。望美はどうして将臣とばかり話しているのか、どうして自分を避けるのか。大体どうして自分は、望美の一挙一動に、これほど神経をとがらせているのか。たかが女ひとりのことでこれほど思い悩むなど、自分らしくない女々しさだ、と一気に杯を空け、手酌を繰り返した。
 ふと気づくと、望美と将臣の会話も途絶えている。

「……おい? どうしたんだ、望美、将臣?」

「ああ、こいつ寝ちまった。疲れてたんだろ」

 将臣の肩にもたれて眠る少女。それを見とめたとき、酔いなど回った覚えのない九郎の頭が、かっと熱くなった。どうして望美はそんな無防備に、すべてを預けきった顔をして、将臣の隣で寝ているのだろう。なぜ俺では駄目なのだろう。埒もないことが瞬時に意識を駆け抜け、九郎はつとめてゆっくりと、息を吐いた。
 このままこいつの姿を見ていては、いけない。自分がどこかおかしくなる。

「仕方のない奴だな……そのまま寝かせておくと、風邪をひくだろう」

「んじゃ、お前送ってけよ九郎」

「ばっ! な、なぜ俺がっ」

「俺、ここんちの造り、よく知らねえもん」

 ぐっと詰まったが、将臣の言葉にも正しさを認めざるを得ない。あまり不用意に近づきたくないというのが本音だったとしても、秋の夜は意外に冷えるのだ、女人をいつまでも寝かせておいていいものではない。
 九郎はおそるおそる望美に近づき、彼女の手が持ったままの一合枡にぎょっとした。

「将臣っ! お前、望美に酒を飲ませたのか!?」

「ほんのちょっとだよ。ナイトキャップくらい大目に見ろって」

 ないときゃっぷとは何だ、と問いかける余裕もなく、九郎は相方の男に馬鹿者と言い捨てて望美の身体を抱き上げた。

 

 

 望美を抱えて彼女の房───ちなみに朔はもともとこの邸の令嬢であるので、個人の房を持っていて別室である───にたどり着いたときには、九郎はすでに疲労困憊だった。もちろん望美ひとり抱えたところで腕が疲れるはずもなく、主に精神的な疲労を覚えていたのだが。
 やたら軽くてやわらかい身体だとか、甘い薫りがするだとか、寝言になりかける拙い言葉だとか、とにかく妙齢の娘が容易く男に匂わせていいものではなかろうに。

 房には既に褥が敷いてあり、『夜稽古の後って疲れちゃって、それ以上動きたくないから先にお布団敷いておくんです』という妹弟子の言葉が思い出された。そんな会話をもう、どれほど交わしていないのだろう、と思いながら、そっと望美を横たえる。

「ん〜……」

 酔っ払いとは始末が悪いもので、今度は九郎の首にしがみついて離れない。
 望美の世界ではいったい、男女の仲というものにけじめはないのだろうか。先ほどもそうだし、昼間だってあれほど……まるで抱擁を交わすほど近づいていたくせに、望美も将臣も、恥じらいひとつ見せなかった。それともそれは、相手が将臣だからなのか。

 お前は気づいていないのか。俺がそれを見て、どんな思いをしていたのか。
 考えれば考えるほど、九郎の心は得体の知れない熱を帯びていく。

「おい、放せ」

「……うふふ〜」

 駄目だ。早くここから離れないと。

「放せ、望美」

「や〜」

 ───何を、してしまうか、分からない。

「……ろー、さん?」

 九郎の首に回したままの腕にぎゅっと力をこめて、望美がぴったりと身を寄せる。
 耳元でたどたどしく囁かれた瞬間。

 我を、忘れた。

 腕を引き剥がす。もともと望美の腕力など、はなから九郎に敵う訳がない。まして酔っている状態でまともな力が入るはずもなく、細い手首は他愛なく褥に押し付けられた。
 襟の合わせから手を差し込む。少し力を入れただけで、あっけなくゆるんだ。滑らかな手触りは奇妙に熱く、酔っているからだな、とどこか他人事のように考えた。現れた首筋から胸元への線はやはり華奢で、本来は守られるべき存在、なにかを生み育む存在なのだと再確認する。そうであればこそ、戦に引き込んだ己の罪深さにふるえた。許しを請うかのように、ましろの肌に顔を埋める。

「んっ」

 望美がぴくりと、逃げるかのように身を捩る。そんな意図はなかったのかもしれないが、少なくとも九郎にはそう感じられた。

 ───将臣には許すのに、俺からは逃げるのか。

「んん……やぁ……」

 その声にさえ、煽られた。
 細い首筋に、あかい花を残す。誰に知られても構わない、これは俺の許婚だ。
 このまま手に入れてしまえば、こいつを娶れる。責任を取るから、と言える。
 だから。

 九郎の身体を押し戻そうともがいていた望美の腕が、不意にぱたり、と床に落ちた。

「……のぞ、み?」

 名を呼びかけても、聞こえてくるのはもはや、深い寝息だけ。

「…………」

 今、自分は何をしようとしていた?

「……俺、は……」

 頭に昇っていた血が、今度は一気に引いた。
 今、俺は何をしていた?
 こいつの心を無視して、何をしようとしていた?

「…………っ」

 勢いよく立ち上がり、望美のはだけかけた着物を見て、慌てて座り直す。自分が乱した合わせを直してやると、あやまちの証左である紅色の跡が目に入り、一層いたたまれない気分にさいなまれた。

「……済まん……」

 どうして自分はこうなのか。いつも、望美を傷つけてばかりで。
 九郎は深く溜め息をつき、望美の髪を梳いた。指どおりのいい髪はさらさらとこぼれ、昼間に触れた折の手触りと、その瞬間の自分の心までをも思い出させた。

 ───羨ましい、と。妬ましい、と。

 望美に遠慮なく近づける存在のすべてに対して、そう思った。
 何故自分がそう感じるのか、その理由。

 駄目、だ。

 九郎はかぶりを振った。それは形をとってはいけない感情だ。戦に勝つことだけを考えてここまで走り続けてきた。その感情にはっきりと名をつけてしまったら、自分はきっと、もう駆けられなくなる。それはもはや自分ではない、九郎義経ではない。
 神子。八葉。なぜお前が。どうして俺が。
 乱れる感情のままに望美を見つめても、答えなどある訳もなく。

「望美……」

 その名前は時に九郎の心を惑わせ、時に凪の平穏をもたらす、大切な音のつらなり。
 一度きつく瞳を閉じて。

「───よい、夢を」

 額を撫で、こころよいぬくもりを───手放した。

 

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**反転コメンツ**
お題連作vol.6の将臣パート後日談・ブチ切れ御曹司。やーい意気地なしー!(爆笑)
いやもうとことんすれ違っててじれったいのが九望のセールスポイントだと信じてますんで。ヘタレ万歳。
神子の自覚はゲームで描かれてたけど、九郎のはないなと思った。んで、書いてみたくなった。
でもすんなり自覚できるわきゃない、コイツに限って。思う存分葛藤してろ、そんで神子に押し切られてればいい。