| 望美は膝の上に広げた絹地をじっと見ていた。 瑠璃の目にも鮮やかな色彩は、此処での呼び名になぞらって与えられたものだった。 「…………」 あと僅か。あとほんの少しだけ針を運べば、それは縫い上がる。生き延びるためには仕方の無いことだと、女主人に拾われた時に骨身に沁みた。此処を出たとて行くあてもなく帰る場所さえないことは、皮肉にもあの若武者との訪問で、まざまざと思い知った。 なのにどうしても、手が震えて動かない。 「しっかり、して」 せめて声だけは震えないように、低く押し込めた声で、望美は己を叱咤した。 朝から晩まで、身を粉にして田畑の実りを得るための労働。それが村ごと焼き払われて此処に来たばかりの時も、寝る場所から食べるものから、郷里での暮らしとはまったく違っていた。漆の塗られた椀や箸など初めて触れるものだったし、増して白粉など、話に聞くだけで見たのは生まれて初めてだった。下働き程度の仕事ごとき、田畑の世話をしてきた娘にとっては夢のように楽な仕事と言えた。 そして今、それを厭だと叫ぶ自分の声を、望美は心の中に聴く。 厭だ。 「……ふふ、そんな、馬鹿みたいなこと……」 唇からこぼれる言葉は、心の叫びとは正反対のものだった。 あのひとを慕うこころを、捨てて。 「───お恨みいたします」 望美はそっと、左手の指を唇に当てた。 ───こんな想い、知らなければ、もっと楽だったのに。
「確かに承った。兄君によろしゅうな」 「私などには勿体無きお言葉、恐悦至極に存じます」 深々と平伏すると、上座の男は機嫌よく笑った。 「なに、わざわざ弟君がおいでとは思わなんだでな。ご丁寧に、こちらこそかたじけない」 「───次の動きは」 「しばらくは息を潜めねばなるまいよ。弟君を無為に引き留めるのも申し訳ない」 手ぶらでさっさと帰れということか。 「いえ、お気遣いなさらず。我が兄より、しかと御身のお護りを言付かっております」 「弟君の武勇の誉れは名高いとか。勝ち戦を捨てても、というのは穏やかではないな」 「当分は小競り合い程度、大きな動きはございませんでしょう」 たった今自分でそう言ったではないか、と九郎は相手の目を見据えた。 「……なるほど? 動きたくても動けぬ、という訳か」 「仰せの通り、ご慧眼恐れ入ります」 再度頭を下げてしばらくのち、ち、と微かな舌打ちの音が響いた。 「───分かった。今日中には返事をしたためるゆえ、しばしお待ちいただこう」 「有り難きお計らいにございます」 九郎は控えの間で返事を待とうと考えていたが、密書をしたためるのに間近で待ち構えられては敵わん、と言われ、しばらく京の町を散策することにした。活気がある中にもどこか素朴な市の立ち並ぶ界隈が物珍しく、僅かな会見の間に溜め込んだ鬱憤が、ゆるやかに晴れていくような心持ちを覚えた。 「こればかりはな……何とか返事だけは引き出したから、いいものの」 一人ごちて歩く見目の整った武士に、ときおり客引きの声が道端からかけられる。 「兄さん、お武家さんだね。しかもこの辺りじゃちょいと見ない顔だ、遠くから来たんだろ」 「……分かるものなのか?」 「そりゃあね。今の京に、兄さんみたいな武家らしい武家なんぞ、いやしないよ」 老人の言葉に苦笑し、九郎は先ほど目に留まった蒼の在りかを探そうと、むしろの上に眼差しを走らせた。 思わず簪を手に取った九郎に、老人は更に機嫌よく笑いかけた。 「誰ぞお目当てのお姫さんに土産かい。そりゃあいい、きっと喜ばれるよ」 土産。 「───っな! そ、そういう訳ではっ」 「あ? じゃあ何かい、兄さん自分で使う気なのかい?」 「そんな訳ないだろうっ!!」 ぜぇぜぇと肩で息をしている九郎を見て、老人はからからと笑った。 「兄さん照れすぎだよ。で、買ってくれる?」 「……貰おう。値はいかほどだ?」
「よいでしょう。縫い上げた見習いの為すべき手順は、飲み込んでいますね?」 「……はい」 女主人は頷き、別の見習いの娘を呼んで、目の覚めるような瑠璃色の絹地を手渡した。 「足は大丈夫?」 「はい。それほど長いものでないなら、十分に舞えます」 「そう。では、今宵に備えて準備をなさい。世話をお願いね」 言葉の最後は見習いの娘に向けて、女主人は立ち去っていった。 「あの、お姉さま?」 「…………」 「───瑠璃太夫、さま?」 耳にざらついた違和感を残す名で呼びかけられ、望美はようやく身じろいだ。 「あ……あぁ、ごめんなさい。じゃあ、白粉をたくのを手伝ってもらえますか」 「はい。お姉さま、良いお客に競り落とされますよう」 此処では遊女としての仕事を始める際、客を座敷に集めてその娘だけを出すことになっていた。『初物』であることを伝え、欲しいと思えば客が言い値をつけていく。最も高値を述べた客に買われるそれが競りのようだと、遊女や見習いたちは口にした。 まさしく、競りだった。売りものは、身ひとつ。 「───ありがとう。あなたは此処に来て、どのくらい経つの?」 「五日ほど前です。あたしを食わせる猶予はないから、親に売り飛ばされました」 「そう……」 「あはは、お姉さまがそんな顔することありませんよ。あたしだって恨んじゃいません、こうでもしなきゃ、みんな揃って飢え死にするしかなかったんだもの」 からりと笑う娘の声は明るかったが、瞳の端には微かに光るものが滲んでいた。 「……そう……」 皆、同じだ。此処にいる女たちは誰もかれも、寂しさを抱えて生にしがみついている。そのために見知らぬ客と肌を合わせ、一時の慰めを与え合う。 ───そこに感情は、要らない。
続 |
**反転コメンツ**
普通に野ざらしにできるのはここまでが限界かなぁ(^^;)。次あたりからヤバめになってきます。
九郎はどこまでおつかいに手間かけてるんでしょうね…すれ違いすれ違い〜♪(鬼や)
えーと今後こちらでは、さらにワンクッション注意書きのページを設けて、性的描写のあるシーンは省いたものを置きます。
会員制行きの話を読まなくても支障がない形にまとめられるよう、頑張りますね。