兆し

 

 呆けたように座り込んでいた娘が、ふらりと立ち上がった。
 かなりの時間が経ったようにも思えたし、さほど間を置かなかったようにも思えた。小さな身体の動きに合わせて揺れる髪はしっとりと湿り気を帯び、膝をついていた着物の裾は雪混じりの泥で少し汚れていた。

「どこへ行く?」

 蹲っていた家屋の残骸から離れていく望美に、九郎は躊躇した末、そう声をかけた。
 呼ばれて振り返った少女の目に宿る光は、とても深い色を宿していた。

「社(やしろ)へ参ります。少しでも……安寧を、祈りたいのです」

 そうは言ってもこの惨状では、社とて丸焦げではないのか───と九郎は訝しむ。実際、丘の上から一望したこの村の成れの果てに、まともな建物など何一つ残ってはいなかったのだから。
 そんな男の逡巡を読み取ったのか、望美は僅かに瞳を伏せる。

「この村はもう、死人(しびと)の住む場所でございます。どうぞ、九郎さまはお戻りを」

「馬鹿を言うな! どうしてお前を放って帰れるか」

 その言葉があまりにも真っ直ぐに放たれるから。
 少女はそっと、秘めやかな痛みを抱え込む。心も、治りかけた指先も、甘く疼く。

 ───大丈夫。勘違いは、しないから。

「ご心配なさらずとも、足抜けなどいたしませんよ?」

「……っ」

 あまりに不似合いな言葉を、微笑みながら口にする。
 それが九郎には堪らない。ただの理不尽な己の感傷とは知っていても、この娘の口からだけは、そんな言葉を聞きたくはなかった。
 いっそ彼女が他の遊女のように、擦れた媚びをまとうようになれば、諦めもつくのかもしれない。けれど望美の瞳を彩っている純粋なひかりは、初めて出逢った頃から些かも変わらないものだった。時に匂い立つような色香を放つ瞬間があったとしても、それだけはずっと、変わっていなかった。
 望美を望美たらしめるその瞳は、変わらず此処に在って九郎を魅了する。

 俯く望美に近づいて、その髪をそっと撫でた。
 少女が驚いて顔を上げた拍子に、ぽたりと雫が頬にこぼれ、すぅとすべり落ちていく。冷たさに首をすくめかけた瞬間、ぬくもりを宿した指先がそれを拭った。

「……そんなことを、案じている訳じゃない」

「九郎さま……?」

 ───結局、最初から惹かれていたのか。

「これほどに冷えて、お前、凍えそうじゃないか……」

「…………」

 無言のまま、見つめ合った。
 互いの内に色づきかけたものを、表には決して出さぬままに。
 時が止まったかのような錯覚を、どちらも感じながら。

 

 

「これは……」

 言ったきり、九郎の言葉は続かなかった。
 それに望美は哀しげな笑みを返すと、材木を踏み分けて中へ入っていこうとする。慌てて咄嗟に細腕を掴めば、優しく迷いのない仕草でそっと振り払われた。

「馬鹿かお前は! いつ崩れるか分からんだろう」

「だからこそ、今のうちに御参りを果たしたいのです。この村の御霊に安かれと」

 社殿は柱があちこち焼け焦げへし折れ、今にも崩れ落ちてきそうな有様だった。さらに九郎の武士としての目は、貼られていたであろう装飾の貴金属が、根こそぎ剥がされていることを見て取っていた。社殿の脇にある材木の山は穀倉庫だったのだろう、焼かれただけでは到底説明できないほどに打ち壊され、原型を留めない瓦礫と化している。

 強奪、略奪。それらを直接に命じたことはなくとも、この非道もまた武士の所業であるという事実に、九郎は頭部を殴打されるような手ひどい衝撃を覚えた。
 覇権を賭けて互いの死力を尽くし、争う。そのたびに焦土が増し、悲嘆は溢れる。
 それを生み出すのが、武士。
 ならば、それが在ることに、意味は。

 望美の微かな呟きが、その場に響いた。

「民草は額に汗して、日々の糧を得ております」

 はっと背中を凝視するも、娘は振り返らなかったので、その顔は窺えなかった。

「糧を得、税を納め……それでも、戦があれば、こうして何もかも失ってゆく」

 公家のために、武士のために。
 農民は税を納め、そして戦のために奪われてゆく。

「九郎さまお一人の所為ではございません。それは最初から分かっております。けれど」

 農民の実りを掠め取って生きている。
 自らの手で稲の一本も育てている訳ではない。

「───お武家さまは、私たち民草に、何を返してくださるのですか……」

 返す言葉もなく、九郎は唇を血が滲むほどに噛みしめた。
 望美の言う通りだった。平穏を、という空言は、今も各地に飛び火する争いを考えるだけ虚しかった。何も考えずに口にしてきた食事が、今も身につけている上物の絹が、どこから何の理由で得たものなのか、それを思うと気が遠くなる。
 何も、返してやれていない。自分は彼女に、与えられるだけで何も返せていない。

「望美……」

 何と言ったらいいのか分からず、それで名前を呼びかけた九郎は。
 その瞬間、微かに軋む音を聞き取った。

「……!?」

 咄嗟に周囲を見渡しても、特に異変はない。
 けれど、ひどく嫌な予感がする。

 ぱきり、と。
 今度こそ聞き間違えようのない異音が響き、九郎はようやくその音の源を突き止めた。

 娘の頭上にある入り組んだ丸太の梁が、焼け焦げた木屑を撒き落としていた。

 

 

「───望美っ、そこから離れろ!」

「えっ……?」

 ぎしっ。
 さすがにその音が聞こえてきたことで、望美もようやく異変を感じ取る。
 けれどそれがすぐに行動には結びつかず、ただうろたえて九郎を見返すだけで。

「っ!!」

「きゃあっ」

 説明したり迷ったりしている余裕はないと判断し、九郎は一息に間を詰めると、望美を突き飛ばして覆いかぶさる。
 その直後、ずぅん、と地面が揺れた。
 九郎の衣を僅かに下敷きにして、梁が地響きを立てて落下してきた。ここに至ってやっと望美にも、事の次第が理解できた。

 九郎がそっと、伏せていた身を起こす。
 腕の中に閉じ込めた、想いのままに触れることも叶わぬ至宝の存在を確かめる。

「……無事か?」

「───は、はい……」

 望美は視線をあちこちにさ迷わせ、狼狽しながらも何とかそう返事をした。
 助けてくれたのだ、ということは分かる。けれど、それだけだ。何故、と問うことは、自分のためにもこの若い武家のためにもならない。
 必死にそう、自分に言い聞かせる。

「ありがとうございま───ぁっ……」

 九郎に続いて身を起こしかけた望美が、不意に眉をしかめた。

「望美!?」

 護りきれなかったのか、と九郎は悔やんだが、ざっと眺めわたして確認してみても、華奢な娘の身体も着物も、梁の下敷きになってはいなかった。
 望美がゆっくりと、差し出した九郎の手に縋って立ち上がる。

「あ、あの。少し、足首を捻っただけだと思います」

「捻った……済まん、俺が加減なく突き飛ばした所為か」

「いいえ。そうでなければ私、潰されておりました。御礼を申し上げねばなりません」

 望美の言葉に九郎は嘆息し、その場に背を向けてしゃがみ込む。

「ほら」

「え?」

「乗れ。これ以上ここに居ては危険だろう」

 もしかしなくとも、背に乗れということなのか。
 望美は九郎のあまりの仕草に呆然とした。武家が民草を身を挺して庇うことはおろか背負うなど、一体何を考えているのだろう。

「と、とんでもございません! それほど痛めてはおりませんから、どうぞご心配なさらず」

「適当なことを言うな。いいから乗れ」

「九郎さま!」

「───望美」

 不意に色の変わった九郎の声音に、望美は思わず言葉を途切らせた。

「……これくらいは、せめてさせてくれないか」

「九郎さま……」

「それに、怪我をしたお前の足に合わせていては、夕までに戻れないぞ」

 それは確かにその通りだったので、望美にはそれ以上の反論ができない。
 九郎が先に戻って一言告げてくれさえすれば、自分はここに捨て置かれても構わない。どうせこの足では舞えないのだから、座敷に出ることは無理だ。
 けれど九郎はそうせず、わざわざ怪我を気遣ってくれている。
 雲上にも思える身分の上客が、見習いでしかない農民出の色を売る娘を。

 ───だめだよ、誤解しては。

 ぎゅっと袂を握り締めて内心で繰り返し、望美はおずおずと足を踏み出した。
 その身を九郎の背に委ねるために。

 

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**反転コメンツ**
語句説明:『足抜け』とは、要するに遊女が男と一緒に店を逃げ出すことです…確か。
遊郭特有の表現なのか、それとも従業員の夜逃げ全般に使われる言葉なのかは不明ですが、まあそんな感じ。
なんだか書きたいシーンがまたしても延びたんですけど(笑)!! なに、これは書くなっていう天のお告げなのか!?
まあそれは冗談ですが。つ、次こそリベンジ…。