弔い

 

「しばしこの娘を借り受けたい」

 九郎の言葉に、女主人は何度か瞬いた。
 男の背後で困惑気味に立ち尽くす望美を見やり、それが彼女から言い出したことではないのだと読み取る。

「源さまは今日いっぱいのご滞在とお伝えするよう、申し付けたのですけれど」

「聞き及んでいる。……昼の間は、外を歩きたい」

「───兄君を放っておかれると仰るのですか?」

 ふと、自嘲の笑みが口元にほころんだ。
 それを見ていたのは、正面に立つ女主人だけだった。

「兄上ならば心配はない───元から、私など頼ってはおられぬ御方だ」

「…………」

「それに、こういった場所で兄上を最大限に護れるのは、私ではなく貴女だろう」

 若武者の視線を受けて、女主人は内心で軽い驚きを覚えた。
 色を売る花街は同時に、さまざまの大っぴらには口に出せぬ情報が集まっては散っていく場所でもあった。それを目当てに足を運ぶ客も数多く、ことにこの遊郭ではその役割が強く出ている。この武家もまた、色よりも政を目的として動いている。そして、政の深淵に踏み込めば踏み込むほど、蜘蛛の糸より危うい均衡を保ったままに動かねばならない。
 女主人の見るところ、そういった政に関して、源の弟はひどく愚鈍だった。咄嗟の機転もきかず、腹の底がすぐに顔に出る。これでよくここへの護衛を棟梁が命じたものだ、と感心すらしていたほどだ。年の割りに初心いことだ、と思っていた。

 けれどこの若武者は、知らぬ訳ではない。
 この場で何が最も必要とされているのか、己に何が出来て何が出来ぬのか。
 知った上で、こうも混じりけのない心根を持ち続けているのか、と。

 幼稚だ、と斬り捨てることはできる。
 しかしそれは言い換えれば、純粋さと表現することもできた。
 自分が、彼の兄が、記憶すら定かではないほどに遠い昔に投げ捨ててきた、こころ。

 どちらが正しいという問題ではない。
 ただ、こうも異なる生きざまを間近に見て、女主人の中で何かが動いた。

「……承知いたしました。見習いですので、夕までにはお返しくださいませね」

「分かっている」

 九郎は背後を振り返り、『行くぞ』と望美に声をかけた。
 望美は戸惑ったように女主人を窺った。まさか許しが出るとは思わなかった。着物を縫い進める仕事もある、その他にも雑用がある。昼を一日潰すなど、少女にとっては考えられない話だった。
 女主人は既に、九郎に向かって深々と頭を下げている。問うことを許さないその姿勢は、客の申し出を受け入れた遊郭の主としての姿だった。

 手首を掴まれ引かれたことで、少女の葛藤は店の中に置き去りにされた。

「あっあの───い、行って参ります」

 やや乱れがちな足音は、若武者の歩調についていけなかった娘が、時折躓いているせいだろう。それが消えてからようやく、女主人は頭を上げた。
 溜め息がひとつ、その艶やかな紅を引いた唇からこぼれた。

「……危険、かしら」

 

 

「九郎さま、あの」

「許しを得たのだから構わんさ。外に出る機会など、そうはないのだろう?」

 理由を問おうとする声が上がっても、無造作に返す。返事になっていないことは自覚していたが、理由など問われても九郎とて答えられない。
 答えが分からぬから、ではない。
 分かっていたからこそ、答えられない。

 ───あのまま室内で共に過ごせば、衝動を抑えきれる自信がない。

 蕾のような娘は日増しにやわらかく膨らんでいく。じきに熟れて花ひらく。
 けれど、まだ、その時ではない。

「折角だ、どこか行きたい場所があるなら、連れて行くが」

 そう言われて、望美は僅かに俯いた。
 行きたい場所と言われて真っ先に思い出すのは、すでに喪った郷里の村。貧しくつましい日々ではあったが、地に足をつけて生きていられた場所。
 もう二度と、還らぬもの。

「……いえ、ございません」

 言っても詮無いことだった。だから望美は微かに、首を横に振った。
 その言葉が仕草が偽りであることを、何故かそのときの九郎は感じ取った。人情の機微になど疎いばかりなのは自分でもよく知っているのに、どうしてか、その瞬間だけは天啓のように分かった───少女が己の心を押し殺していることを。

「っ!」

 手を伸ばし、俯いている小さな顔をぐいと上げさせた。
 澄んだ翡翠の色が、浮かぶゆらめきのままに九郎を映した。

「どこへ行きたい?」

「…………、ございません」

「どこでも構わん。どこへ行きたい?」

「…………」

 頬に添わせていた手を下げ、太刀を振るう指がそっと、細い喉をすべっていく。
 その感触にびくりと身を震わせた娘を見つめたまま、九郎は静かに繰り返した。

「望美、どこへ行きたいんだ?」

 喉を這う指先の動きは、強張ってその場所に留まっていた嗚咽を優しく促した。隠し通すことの不可能を悟った瞬間、それは音となって望美の唇からこぼれ、瞳からはあたたかく濡れた雫となって溢れる。

 きれいだ、と九郎は思った。
 こんなに美しい涙を見たことがない。相手が望美だからそう感じるのか、それは分からない。ただひとつ言えるのは、女の泣き顔を目にして、うろたえもせずに美しいと感じたことなど、生まれて初めての経験だということだった。
 無意識のうちに唇を寄せそうになって、はたと思い留まる。今は酔っているという虚言が通用しないのだから、想いのままにそうしてしまうのは、いかにも拙い。

「……村へ……」

 九郎の指に涙を拭われながら、望美がようやく口をひらいた。

「弔いを……せめて、しとうございます……」

 

 

 その場所を一望できる小高い丘に立った瞬間、九郎は思わず眉をしかめた。
 勝った側だった。破った相手の追捕を命じはしたが、それは信の置ける部下に任せ、自身は兄への報告に向かった。その先でどんなことが起こっていたのか、後日人伝てに聞いただけで、実際の様子など知らなかった。
 望美がゆっくりと、丘を降りていく。焼け爛れた田畑、炭と化した家屋は小さく粗末なもので、そのすべてが近づく冬の中で芯から凍えようとしていた。この惨状の中で生き延びた村人がいるなら、それこそ奇跡だと思えるほどの───無残な有様。

 無言のままに歩む望美の背を、やはり黙ったままに追った。
 地面の焼け焦げた跡をそのままに、ところどころ氷の張った水溜りが、戦場の狂気を一層煽り立てていた。
 やがて焼け落ちた家屋の前で少女は立ち止まり、小さく呟いた。

「……とうさん、かあさん。遅くなって、ごめんね……」

 ああ、それではここが、彼女の生まれ育った家なのか。

「ごめんね……ごめんね、私……私だけ……っ」

 堪えきれないように、その場に崩れ落ちて泣く望美を、呆然と九郎は見つめていた。
 先ほどは、何も考えずに望美の涙を拭った。けれどその資格すら己にはないのだと、焼けた村を見て、悟ってしまった。

 伸ばしかけた手を引き、かたく拳を握って激情を握り潰した。
 そうすることでしか、この場の静寂をたもつすべが思い当たらなかった。

 ───これが、生きるすべを失くした民。

 白いものがちらつき始めたのに気づき、九郎は視線を空へと向けた。
 先日はみぞれ混じりの雨だったが、それから更に幾日か経っていたせいか、雪が降り始めていた。真っ白なそれが少しでもこの村の無念を包み込んでくれるように願い、しかしそれが何の解決にもならないことも、分かっていた。
 雪はひとときの間、覆い隠す。そして春が来れば、融けて消える。
 僅かな間、見えなくなるだけ。

 何も、変わらない。

 望美の髪に肩に、白いものが少しずつ彩られていく。
 手を伸ばしてそれを払ってやりたい、衣の一枚も被せて寒さ避けにでもしてやりたい、震えて泣く彼女を抱き締めたい。けれどぴくりとも動こうとしない腕や足が、自身のものではないような錯覚にさえ陥る。

 ほんの僅かな距離が、永遠に埋まらない深い溝のように、九郎には思えた。

 

BACK         INDEX         NEXT


**反転コメンツ**
神子につきあってお墓参り。ついでに社会勉強ですよ御曹司(笑)!
前にも書きましたけど、このパラレル連載の九郎は基本的にボンボンという設定なので…いろいろと甘ちゃんです。
本当はもう少しあっさりまとめる予定だったんですが、シリアスな部分はやはり筆がのって長くなった。
そのため、書こうと思ってた展開は次回に回しました。ゆっくりじっくりいきます。