手持ち無沙汰だったと言えば、それまでだった。
 通されたその部屋は、九郎にとっては妙に落ち着かない明るさがあった。ここに供をして以来、これほど惜しみなく灯りをつけている部屋に、彼は入っていったことなどない。いつも望美と共に時間を過ごす部屋は、ぎりぎりまで切り詰めた行灯の仄かな火が灯されているだけで、その暗さにもう目が慣れてしまっていた。

 そんな曖昧な光の中に浮かび上がる娘の姿や仕草は、それでも九郎にはよく見えた。
 不揃いな縫い目を生みながら必死に針を動かす俯き加減の顔は、長い睫毛の影が伏せられた頬に落ち、どこかひどく浮世離れした儚さをまとっていた。うつけたように呆けて眺めていると、ふと上げられた瞳と眼差しがぶつかり、慌ててそっぽを向いたこともある。そんな折、望美は決まって、花がゆっくりとほころぶように笑うのだ。その笑みが己のうちの奥深いところに根ざすのを感じるたび、九郎はどうしていいのか分からなくなる。

 金で春を売り買いするような真似を、九郎は苦々しく思っていた。
 そんなことを生業にしている女がいるということも、それを何の躊躇もなく買っては戯れに興じる男がいることも、生真面目で一本気な彼には容易に認めがたく感じられた。

 心を通わせず、誰にでも己のすべてを明け渡して平気なのか。

 九郎とて武家の男子であるから、当然今までに一通りの経験は積まされた。元服を経ればその後は多少の無茶も許される家柄に生まれて、しかし九郎はどうしても、己の躯を鎮めるためだけに浮かれ女を呼ぶ気にはなれなかった。
 一時の愉悦が過ぎてみれば、胸中に去来するのは虚しさだけ。互いを求めあう感情などあるはずもなく、そこにあるのはただ肉欲に突き動かされた衝動だけ。添い伏しの相手にと宛がわれた、名前もろくに知らず顔すら床の中で初めて見た娘が、悲鳴を上げても痛みに泣き濡れても、その苦しみに対して覚えるべき感情というものがただの少しも湧いてこなかった。ぐったりとした娘に言えたのはただ一言、大事無いか、という素っ気無い労わりの言葉だけだった。
 もうあの娘の顔も声も、思い出せないほどおぼろに霞んで、遠い。

 気鬱を晴らすように、自然と杯に手を伸ばしていた。
 九郎は酒には強いほうだった。兄の護衛という立場上、こちらに立ち寄った際には飲まないようにしているだけで、普通の酒ならば水程度にしか感じない。

 ───あいつも、ああなるのか?

 それだけが最前から、九郎の脳裏を巡って離れなかった。
 誰とも知れない行きずりの男に脚を開き、躯を開いて。心を置き去りに肌だけを重ねて、そうして日々の命をつないでいく。そして彼女を貪った男のほうは、じきにその過去を記憶の中から追いやってしまう。男にとってはいつまでも憶えている必要のない、取るに足りないことだから。

「…………っ」

 腹の底から何か熱いものが込み上げてくるのを、九郎は自覚した。けれどそれがどんな名をつけるべき感情であり、どんな理由があるのかまでは、分からなかった。
 ただ、強い嫌悪だけが、ようやく理解できた。
 望美が遊女となり客を取る、その事実に対する嫌悪。

 軽い足音と共にからりと襖が開けられたのは、そのときだった。

 

 

「……!?」

 視線を上げて望美の姿を視界に入れた九郎は、瞬間、固まった。

「お待たせをいたしまして申し訳ございません」

 鮮やかな錦の帯、派手な刺繍の絹地の裳裾。ほどこされた薄化粧は元来の肌の白さを際立たせ、唇に引かれた紅が瑞々しい。いつもはただ流しているだけの髪は、丁寧に結い上げられて何本もの簪で彩られ、大きく襟足の開いた着崩しのせいでうなじが剥き出しになっていた。

 あまりにも艶めかしい、その姿。

「九郎さま?」

 声を失ったまま見つめてくる九郎に、望美は首をかしげた。

「…………、あ、ああ」

 置くことを忘れていた杯をようやく下ろし、九郎はひとつ首を振った。
 どうかしている。まさかこれしきの酒が回ったとでも言うのだろうか、そんな馬鹿な。

 ───躯の芯が、どくりと疼いて熱を持ったなどと。

「どう……したんだ? 仕事とやらは、もういいのか?」

 黙って見つめていてはそれ以上妙な気分になるかもしれない、と九郎は不安になり、ともかく他愛ない話題を引き出そうと必死に考えた。

「はい。お座敷でお姉さまがたのお手伝いをしておりましたので」

「手伝い?」

「お姉さまの三味線で、舞わせていただきました」

 にこりと望美が笑って答える。
 その間も九郎の意識は、紅を引かれた小さな唇の動きに吸いついて離れない。

「…………」

「───あ、御酒、召し上がってらしたのですね。代わりをお持ちいたしましょうか」

 望美が九郎の前に膝をつき、空になった徳利などを片づけ始める。
 その途端にはっきりと視界に飛び込んでくる、しみひとつない滑らかなうなじ、僅かにほつれた後れ毛。燻らせてでもいたのだろう、絹地に宿る香の薫り。そのどれもが九郎の意識を容赦なく踏み荒らし、熱の疼きをだんだんと激しいものにする。
 気のせいだ、と抑えつけようとした。酒のせいだ、と。

「片づけて参りますね」

 器をまとめた盆を手に、立ち上がろうとした少女の袖を、男の手が引いた。

「九郎さま? どうかなさったのですか?」

「……お前、舞うのか」

「え、あ、まだまだ未熟ではございますが。多少は嗜んでおります」

「見せてくれないか」

「……え?」

「見たい」

「九郎さま……?」

 いつもと違うような九郎の様子に、望美は内心で疑問を覚えた。が、すぐに、酒が入っているせいだろうと結論づける。
 それは一面では正しかったが、それだけではないことに、少女は気づかなかった。

「望美」

 言葉少なに要求だけを並べていく九郎の眼差しは、どこか熱を帯びていた。
 酒のせいだと思っている望美は、胸の高鳴りを抑えようと努力しながら、小さく頷いた。

 

 

 ひらり、ふわり。
 少女の舞は不思議なものだった。艶と清が同居する、いまだ男を知らない遊女の動きの一つ一つが、九郎の目に心に焼きついた。長く垂らされた帯の端がひとさし回るごとに、望美は今まで九郎が知らなかった貌(かお)を見せる。
 初めて見たときは、なんと場に不似合いな娘なのかと思った。遊郭などにいること自体がそぐわない、ついて間もないまだ幼い蕾。

 けれど、確実に。
 ついた蕾はほころび始める。花開くときを迎えつつある。

 それは密やかに、しかし歩みを止めることなく、ふとした瞬間にまとう少女の色を塗り替えていく。生きとし生けるものは皆そうだ、生命ある限り熟し、実り、そうして次へと託す。それは子を為す女という生きものの宿す、逃れること叶わぬ定めのように、九郎には思えた。

 ならば、彼女は。
 誰に手折られる……?

 

 ほとんど無意識のうちに、九郎の手は、顔の脇を掠めた帯の端を捉えていた。

 

「───きゃっ」

 いきなりぐんと何かに引っかかったような感覚を覚えて、望美は小さく声を上げた。
 見れば帯の端が、ものも言わずに見ていた九郎に、しっかりと握られていた。

「……九郎、さま?」

「…………」

 更に強く引かれ、今度こそ微かな悲鳴を上げて、少女は男の腕の中に倒れこんだ。
 一体なにごとかと顔を上げた瞬間、ぐるりと視界が回る。

 気づいたときには、ぬめる熱に唇を塞がれていた。
 差した紅を残らず舐め取ろうとするかのような、その動き。

「───っ!?」

 酒の匂いがする。真っ先に思ったのは、そんなことだった。
 つんとくる慣れない臭気にむせそうになり、顔を左右に振って呼吸を確保しようとする。薄く開いたあわいをぬって、するりと侵入を果たしたそれに、望美は瞳を見開いた。
 九郎に組み伏せられて、くちづけられている。
 その事実をようやく理解した頃には、無骨な掌が襟足の合わせにかけられていた。強張った少女の耳朶に、年かさの遊女がふと漏らした言葉がよみがえる。

 

 ───瑠璃や、覚えておおき。遊女はね……

 

「ん……っ」

 組み敷かれた華奢な躯から、ずっと続いていた小刻みな震えが、止まった。
 一切の抵抗を諦めたようなその仕草に、さほど間を置かず、組み敷いていた側の性急な動きも、止まった。
 やがて自分に覆いかぶさった九郎のずっしりとした重みを感じ、ようやく解放された唇で、望美はそっと声をかけた。

「───九郎、さま」

「…………」

 小さく肩を揺すっても、九郎はその瞳を閉じたまま、寝息を立てていた。
 望美は起こさないように少しずつ、躯をずらす。ようやく男の下から抜け出ると、着崩れた合わせをそっと直した。

「お休みになられたのですね……御酒、お弱いのかしら?」

 そうひとりごちて、褥を作ってやるべく少女は立ち上がり、部屋を後にした。
 訪れたときと同じ、はたりはたりと他愛なく軽い足音が、遠ざかる。

「…………」

 その音が聞こえなくなったところで、九郎はようやく目を開けた。

 酔った、と思わせておきたかった。
 そうすれば、次に顔を合わせたときも、忘れたふりを押し通せるから。
 本当に酔っているのかもしれない、とも思う。そうでなければ自身の行動の意味が、己ですら理解できない。

 熱に任せて一方的に、あの娘を手折ろうとした、などと。

 

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**反転コメンツ**
はいお約束〜〜〜(爆笑)!! 手を出しかけて、でも土壇場で踏みとどまる九郎と、それに気づかない神子!
語句説明:添い伏しというのは、武家の男子が元服の儀を迎えた際にワンセットとなっている、ぶっちゃけ夜伽のこと。
単なる通過儀礼の一環なので、それほど深い意味はないです。相手はやっぱそれなりの家柄の娘さんで、正妻候補になるのかな?
カラダから入る関係しか知らなかったから、ココロから入る関係に思いっきりドギマギしてうろたえてればいい。