仕事着

 

「九郎さまはお酒を召し上がらないのですか?」

 握り飯がすべて無くならないうちに、下働きの者が膳を持ってきた。しかし、それには手をつけようとしない九郎に、望美は不思議そうに問いかけた。
 飲んで、騒いで、女を買う。遊郭の客というのは概ね、そういうものだ。
 そのどれもが当てはまらない客の存在など、此処に来てからのそう長くはない時間の中でも、少女にとっては驚くべきものだった。

 九郎は膳をちらりと見やったが、さして興味を持たなかった。

「いや、飲める。だが、酔って万一にも不覚を取る訳にはいかないからな。それに……」

 言いかけてふと途切れた言葉に、望美は首をかしげて続きを待った。
 だが、その続きが与えられることはなく、九郎を見上げればふいと顔を逸らされる。その横顔は、ほの暗い行灯の光に照らされているだけでも、ほんのりと染まっているのが見て取れた。

「……それに?」

「な、何でもない!」

 続きを促すやわらかな声に、焦ったような男の声が応えた。

「その……もう腹は落ち着いたから、いいんだ」

 感謝する、と続けた九郎の言葉に、望美の笑顔がふわりと咲いた。その笑みを見つめながら、九郎は先ほど呑み込んだ言葉の続きを反芻する。

 武家と一口に言っても、その家名の興りによっては暮らしぶりに天地の開きがある。公家にも勝る豪奢な邸を構える家があるかと思えば、名ばかりで農民にも劣るような貧しさをしのぐ家もあった。
 九郎の生まれた家は、程度で言えばかなり上位に位置すると言ってよかった。ことに、兄の代に替わってからの繁栄ぶりには目を見張るものがあり、九郎自身も生活に苦慮したことはない。だがそれだけに、繁栄のために払う代償や危険は大きく、兄がこうして密談をこなす傍らで九郎が戦場に立つといったことも多かった。邸で並ぶ膳や酒は極上の物、だが戦場の固く干した糧食も違和感なく口に運ぶのに慣れている───そんな両極端なところが、九郎にはあった。

 生まれてこのかた初めてだったのだ。
 飾り気のない、質素な、けれど優しいぬくもりの食べ物を、口にすることなど。

 ───これ以上に美味いものなど、食したことはなかった。

「ならばお下げいたしましょう」

 だから望美が、握り飯の載った盆ごと膳を下げようとするのを見て。
 九郎は咄嗟に、腰を浮かせてその細腕を掴んでいた。

「ま、待て!」

「はい? ……あの、やはりまだ、お腹がすいていらっしゃるんじゃ……?」

「あ、そ、その……盆は、そのままで、いい」

 盆、とおうむ返しに呟いて、望美は手元を見た。
 自分の作った不恰好な握り飯が、まだ二つ三つ載っていた、その盆を。

「…………」

 まろく白い頬にも、だんだんと朱が昇る。俯いてしまった少女をなんと誤解したものか、九郎は慌てて言葉を探した。だが、普段以上に回らない頭を持て余し、適切な言い訳がさっぱり見つからない。
 だから九郎は仕方なく、呑み込んでしまった本音を告げることにした。

「美味かったんだ。お前が俺のために作ってくれた、その握り飯が」

 ───だから、それだけで、いい。他のものなど要らない。

 ますます深く俯いてしまった望美を、不安げに九郎が覗き込もうとした。
 途端にぱっと頬に両手を当てて、必死に顔を隠そうとする。そうされると見たくなるのが人情というもので、九郎はそっと、少女のこめかみに手をすべらせ、さらりと流れ落ちる紫紺の髪をかき上げた。

「お、お許しくださいませ……」

 恥ずかしくて死にそうだ、と望美は思った。
 ずるいと思う。そんな言葉をそんな真剣な顔で、そんなに真っ直ぐに言うなんて。何の意図もなく言っているのなら、余計に心の臓に悪い。

「怒っては……いないのか?」

「…………」

 普段どおりの声を出せるとは到底思えなかったので、必死に首を縦に振る。
 そうかと安堵したように頷き、九郎はいま自分が何をしたのか理解しないまま、ようやく望美を解放した。

 

 

 濡れてしまった繕いの着物を仕舞い、望美は別の布地を取り出した。
 行灯の灯りにさえきらきらと光る金糸銀糸の縫い取り、派手な紋様。見ていた九郎にも、それが誰か遊女の『仕事着』であるとは見当がついた。

「それは誰ぞの繕いか?」

「…………、はい」

 望美は目を着物に落としたまま、答えた。声が震えないよう、必死に喉に力を込めて。

 この遊郭では、見習いは最初の仕事着を自らの手で縫い上げる。連日女主人の検分を受け、もし仕上がり具合が著しく進んでいなければ、その場で追い出される。そうなれば生きていくすべなど持たない娘たちが大半だったから、誰もが黙々とその作業に取り組む。
 ひと針ごとに否応なく覚悟を持たされる、その着物を、望美はじっと見つめた。

 これを着て、いずれ自分も身を売るのだ。
 そう考えると、上物のはずの絹地が、ひどく重かった。

「お前の色だな」

 九郎の声に、はっと望美は顔を上げた。

「暗くてよくは見えないが。───瑠璃の色、だろう? この深い蒼は」

「……はい」

 気づかれたのか、と思った。
 気づいてほしくはない、と思った。

 

 気づいてほしい、とも思った。

 

「ああ、だが、お前にはもっと明るい色が似合うな、きっと」

「…………」

「いや、別に瑠璃が似合わぬという訳ではないが。お前なら、もっと……」

 しばらく言葉を切って考え込んでいた九郎が、晴れやかに笑った。

「───そう、桃色のような、柔らかい色がきっと似合う」

「…………」

 望美は静かに微笑んだ。
 この人らしい、素直な言葉だと、そう思った。

「ありがとうございます」

 なにを期待していたのだろう。
 自分の事情を行きずりの客に知られる必要など、どこにもない。客は金で一時の慰めを買い、買われた女はそれを与える。遊郭というのはそれだけの場所だ。
 増してこの若い武家は本来の意味での客ではなく、自分も見習いだった。

 軽く頭を下げる仕草に、あふれそうになる感情を押し殺し、望美は針を手にした。
 仕上げるのが遅いということは、たびたび女主人からも注意されていた。もっとも、繕い自体が不得手だということも理解されているので、それほど深刻なものではなかったが。
 どうせ着るのは自分だし、見えるところさえそれなりに整っていればいい。客は遊女のまとった着物ではなく、それを剥いた中身を目当てに金子を払っているのだから。

「───っつ」

 散漫なままに進めていた針が、指先を思いきり突き、その痛みに望美は我に返った。
 布地から引き抜いた左手の指に、見る見る血の玉が膨れ上がる。やってしまった、と苦々しくそれを見ながら痛みをこらえた、その僅か一瞬ののち。

「望美!?」

 ぐい、と、その左手を取られた。

 

 

 それは九郎にとって何を考えた訳でもない、咄嗟の行動だった。
 引き寄せた手の指をつたい始めた血に軽く舌を這わせ、傷ついた場所を口に含む。指先を甘く噛んで血の巡りを僅かに留め、時折吸い上げる。錆びた鉄のような味は、戦場に立つ間に慣れ親しんでしまったものだった。
 結局、手付かずのまま下げていない膳の中から、片手で徳利を引き寄せる。一旦指を解放して少量の酒を口に含み、再び咥えると、沁みたのか、望美はあ、と小さく声を上げた。身を捩って逃げようとするのを、腕を伸ばして抱きこむと、ひくりと震える。痛むのだろう、と九郎は思ったが、些細な傷でも膿めばおおごとになるのだと知っているだけに、今は離してやる訳にはいかなかった。

 長いような短いような、その時間。

「……よし、もういいだろう」

 口に残る血混じりの酒を吐き出してそう言った九郎は、憎らしいほどに冷静だった。
 驚愕と羞恥で頬を真っ赤に染め、恨めしげに見上げる望美を意に介さず、おもむろに懐から小刀を取り出す。

「九郎さま!?」

 そのまま己の着物の裾に刃を当て、切り裂くものだから、少女は慌てた。
 見事な白地の着物は、一目で高価な仕立てであることが分かる。間違いなく絹地で、しかも家紋らしきものまで入っている。それを裂くなど、一体何を考えているのか。

 九郎は細く裂いた布地に新しい酒を浸し、再び望美の左手を取った。

「少し痛むだろうが、このほうが治りが早い」

 くるくると傷口を縛り上げていく手際は、よどみのないものだった。

「……でもっ、九郎さまのお召し物が!」

「別に構わん。小さな傷でも甘く見るなよ、膿めば厄介だからな」

 傷口は熱を持ち、鼓動に合わせてずくんと疼いた。
 けれどそれ以上に全身が熱いことを、望美は自覚していた。

 

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**反転コメンツ**
神子のラブゲージもようやく上昇しはじめました。九郎のほうはそれ以上のハイペースで上昇してるけど(爆)。
無意識に恥ずかしいことやっちゃってればいいよ九郎は。その時は気づかなくて後から盛大にうろたえてればいい。
応急処置ってこんな感じなのかな…アルコールって消毒効果があるはずでしたよね?
ともかくやっと、少しずつお互いに気になり始めた模様です。さーじれっ隊の本領発揮だ(笑)。