| 「九郎さまはお酒を召し上がらないのですか?」 握り飯がすべて無くならないうちに、下働きの者が膳を持ってきた。しかし、それには手をつけようとしない九郎に、望美は不思議そうに問いかけた。 九郎は膳をちらりと見やったが、さして興味を持たなかった。 「いや、飲める。だが、酔って万一にも不覚を取る訳にはいかないからな。それに……」 言いかけてふと途切れた言葉に、望美は首をかしげて続きを待った。 「……それに?」 「な、何でもない!」 続きを促すやわらかな声に、焦ったような男の声が応えた。 「その……もう腹は落ち着いたから、いいんだ」 感謝する、と続けた九郎の言葉に、望美の笑顔がふわりと咲いた。その笑みを見つめながら、九郎は先ほど呑み込んだ言葉の続きを反芻する。 武家と一口に言っても、その家名の興りによっては暮らしぶりに天地の開きがある。公家にも勝る豪奢な邸を構える家があるかと思えば、名ばかりで農民にも劣るような貧しさをしのぐ家もあった。 生まれてこのかた初めてだったのだ。 ───これ以上に美味いものなど、食したことはなかった。 「ならばお下げいたしましょう」 だから望美が、握り飯の載った盆ごと膳を下げようとするのを見て。 「ま、待て!」 「はい? ……あの、やはりまだ、お腹がすいていらっしゃるんじゃ……?」 「あ、そ、その……盆は、そのままで、いい」 盆、とおうむ返しに呟いて、望美は手元を見た。 「…………」 まろく白い頬にも、だんだんと朱が昇る。俯いてしまった少女をなんと誤解したものか、九郎は慌てて言葉を探した。だが、普段以上に回らない頭を持て余し、適切な言い訳がさっぱり見つからない。 「美味かったんだ。お前が俺のために作ってくれた、その握り飯が」 ───だから、それだけで、いい。他のものなど要らない。 ますます深く俯いてしまった望美を、不安げに九郎が覗き込もうとした。 「お、お許しくださいませ……」 恥ずかしくて死にそうだ、と望美は思った。 「怒っては……いないのか?」 「…………」 普段どおりの声を出せるとは到底思えなかったので、必死に首を縦に振る。
濡れてしまった繕いの着物を仕舞い、望美は別の布地を取り出した。 「それは誰ぞの繕いか?」 「…………、はい」 望美は目を着物に落としたまま、答えた。声が震えないよう、必死に喉に力を込めて。 この遊郭では、見習いは最初の仕事着を自らの手で縫い上げる。連日女主人の検分を受け、もし仕上がり具合が著しく進んでいなければ、その場で追い出される。そうなれば生きていくすべなど持たない娘たちが大半だったから、誰もが黙々とその作業に取り組む。 これを着て、いずれ自分も身を売るのだ。 「お前の色だな」 九郎の声に、はっと望美は顔を上げた。 「暗くてよくは見えないが。───瑠璃の色、だろう? この深い蒼は」 「……はい」 気づかれたのか、と思った。
気づいてほしい、とも思った。
「ああ、だが、お前にはもっと明るい色が似合うな、きっと」 「…………」 「いや、別に瑠璃が似合わぬという訳ではないが。お前なら、もっと……」 しばらく言葉を切って考え込んでいた九郎が、晴れやかに笑った。 「───そう、桃色のような、柔らかい色がきっと似合う」 「…………」 望美は静かに微笑んだ。 「ありがとうございます」 なにを期待していたのだろう。 軽く頭を下げる仕草に、あふれそうになる感情を押し殺し、望美は針を手にした。 「───っつ」 散漫なままに進めていた針が、指先を思いきり突き、その痛みに望美は我に返った。 「望美!?」 ぐい、と、その左手を取られた。
それは九郎にとって何を考えた訳でもない、咄嗟の行動だった。 長いような短いような、その時間。 「……よし、もういいだろう」 口に残る血混じりの酒を吐き出してそう言った九郎は、憎らしいほどに冷静だった。 「九郎さま!?」 そのまま己の着物の裾に刃を当て、切り裂くものだから、少女は慌てた。 九郎は細く裂いた布地に新しい酒を浸し、再び望美の左手を取った。 「少し痛むだろうが、このほうが治りが早い」 くるくると傷口を縛り上げていく手際は、よどみのないものだった。 「……でもっ、九郎さまのお召し物が!」 「別に構わん。小さな傷でも甘く見るなよ、膿めば厄介だからな」 傷口は熱を持ち、鼓動に合わせてずくんと疼いた。
続 |
**反転コメンツ**
神子のラブゲージもようやく上昇しはじめました。九郎のほうはそれ以上のハイペースで上昇してるけど(爆)。
無意識に恥ずかしいことやっちゃってればいいよ九郎は。その時は気づかなくて後から盛大にうろたえてればいい。
応急処置ってこんな感じなのかな…アルコールって消毒効果があるはずでしたよね?
ともかくやっと、少しずつお互いに気になり始めた模様です。さーじれっ隊の本領発揮だ(笑)。