ぬくもり

 

 その日はそぼ降る小雨がそろそろみぞれに変わろうかという寒さだった。こんな悪天候の日は人通りが途絶えているから、遊郭と言えども閑散としているのだろうか、と九郎は思っていたが、供をして訪れたその店は相変わらずの盛況だった。

「お寒い中をお越しいただき、恐縮ですわ」

 女主人の出迎えを受ける兄の姿を、黙して見守る。大抵の場合、戸外での兄はこちらを一顧だにしないから、その背が奥へ消えた後は、九郎たち供の者も思い思いに過ごす。
 だから自分に声をかけられているのだと、最初は分からなかった。

「───でしょう? 弟君」

 末尾だけをどうにか捉え、九郎ははっと顔を上げる。

「……申し訳ないが、聞きそびれた。何用か」

「お身体が冷えておいででしょうから、お湯をお使いになられては、と申し上げましたの」

「いや、私よりも他の者を───」

 女主人は袖を口元に当て、さも可笑しげに笑った。

「他のかたはよろしいんですのよ。弟君以外、どなた様も客としておいでですから」

「───!?」

 思わず背後を振り向くと、ばつ悪げに照れ笑いを浮かべている従者たちと目が合った。

「お前たち……」

「へへ、酒はやってませんから、見逃してくださいよ」

「こう肌寒くちゃ、女の肌でちょいとあっためてもらうのがいいんでさぁ」

 絶句した九郎に、従者たちの言葉は容赦なく続く。

「弟君はお若いだけにお堅いから。もうちっとばかし歳がいけば、俺たちの気持ちも分かりますよ」

「そうそう。せっかく上物の芸妓が揃ってるのに、指くわえて見てるなんざ、男がすたるってもんです」

 いやいやまったく、と笑いあう従者たちは、ふと何かを思い出したようだった。
 九郎にとって大変居心地の悪くなるようなことを。

「そう言や、弟君も誰ぞ買っているとか、聞いたんですが」

「バカ、あれはお前、見習いの話し相手だとよ。潔癖にも程ってもんがありますぜ、弟君」

「……っ!!」

 羞恥やら怒りやらで盛大に顔を赤くした九郎は、ここへ供をして初めて、兄の姿が消えるのを待たずに背を向けた。

「弟君、お湯は……」

「いらんっ!!」

 どすどすと歩み去っていく九郎をひとしきり笑っていた者たちは、主人格である客の言葉で我に返った。

「───連絡は何日後になる」

 真っ先に冷静さを取り戻したのは、女主人だった。唇にほころぶ艶やかな笑みこそ消えないものの、とろりとした瞳の奥にある輝きに、怜悧なものがちらついた。

「二日後というご報告でございます」

「そうか」

 雨よけの羽織をばさりと脱ぎ捨てる。それを当然のような顔をして女主人が捧げ持つ。
 床を僅かに軋ませて去って行く主の後姿に、従者たちは詰めていた息を吐いた。

 

 

「まったく、どいつもこいつも……何をしに此処へ来ているのか、忘れているのか!?」

 客観的に見れば、遊郭に来ておきながら女と肌も交わさぬ自分のほうが、常識外れではある。それは薄々自覚してはいることだったが、ああもからかわれては、さすがに面白いとは思えないのも当然だった。
 望美が普段いるはずの部屋の引き戸を思い切りぶち開けた時も、まだその苛立ちは九郎を支配していた。相変わらず行灯の傍で繕いをしていた少女が、驚いたように彼を見上げる。
 その瞳を見ることで、ようやく己の心が凪いでいくのを、九郎は感じた。

「……九郎さま? どうかなさったのですか、難しいお顔をなさっておられます」

「───いや、何でもない」

 きょとんと小首をかしげる望美だったが、九郎のあちこち濡れた姿に目を留め、まぁ、と小さく声を上げた。

「そのように濡れていては、お風邪を召されてしまいます。どうぞこちらへお座りください」

 促されるままに座すと、望美が手にした繕いの布地でもって髪を拭いてこようとしたので、九郎は慌ててそれを遮った。

「望美!? その布、仕事のだろう!?」

「大丈夫です、私の着物ですから。濡れたところで乾かせば良いのです」

「しかし……」

 少女の身にまとう布地だと思えば、今度は別の意味でうろたえてしまう。
 そんな九郎の葛藤に構わず、望美の細い指が、濡れた髪をゆっくりと拭っていく。その繊細な手つきに、鼓動はひどく暴れた。

「───本当に見事なおぐしですね。とても長くて、綺麗……」

「そ、そうか?」

「はい。私、前からずっと、見蕩れておりました」

「そ、そうか……」

「一度で良いから触らせていただきたかったのです」

 ふふ、と鈴を転がすような声が耳元に響き、九郎の意識はぼうっと霞む。
 望美から与えられる感覚のすべてが、ひどく甘く、やわらかかった。声も指も薫りもぬくもりも、それが望美のもたらしたものであるという、たったそれだけのことで容易に心を掻き乱される。
 凪いだかと思えば惑乱する己の心を持て余しつつも、それを少女に気取られることだけは何故か避けたくて、九郎はかたく瞳を閉じ唇を真一文字に引き結んだ。

 

 

 望美が長すぎる髪をようやく拭い終えて少し離れた時、九郎の腹が音を立てて鳴った。

「…………っ」

「……まあ」

 兄の供はいつ命じられるのか分からない。それ以外にも為すべき職務はある。のんびりと腹ごしらえをしている余裕など、ある訳もない。無様な仕儀に九郎は咄嗟に口をぱくぱくさせたが、やってしまったものは取り繕いようもなかった。
 望美はしばらく目を見張っていたが、やがてにっこりと微笑んだ。

「少々お待ちくださいますか」

 そう断って望美が席を外してから、九郎はひとり頭を抱えた。
 武士は喰わねど高楊枝とは言うが、気力だけで腹がどうにかなるものでもない。しかし、年下の少女の前でこれでは、あまりにも格好がつかないこと甚だしすぎた。
 九郎は極端に、他人に弱みを見せることを嫌う。それは武家という出自のせいだけではなく、彼個人の人となりに拠るものも大きかった。

「お待たせいたしました」

 悶々と不甲斐なさに落ち込んでいた九郎の耳に、優しい声がすべり込んだ。
 顔を上げれば望美が、その白い手に盆を持って立っていた。盆の上には微かに湯気を立てているものが乗っていて、少女が自分の隣に座ったことで、それが幾つかの握り飯だと分かった。

「……それは?」

「お酒はただいま準備させておりますが、まずは腹ごなしにと思いまして」

 九郎はまじまじと、望美の笑顔と握り飯を見比べた。
 笑い出されても仕方のない醜態だったと思う。にも関わらず、この娘はそんな素振りなど露ほども見せず、自分の隣に寄り添っている。
 手を伸ばしてひとつを取れば、それはずいぶんと不恰好だった。

「……いびつだな」

 照れ隠しに呟いた一言は、少女の機嫌を損ねたようだった。

「───ご不満でしたら、召し上がっていただかなくとも結構ですっ」

 つんと横を向いた仕草に、九郎は僅かに驚いた。
 この望美という娘は今まで、自分に対してひどく遠慮した態度を取り続けていた。それは武家と庶民という身分の差からくるものかもしれないし、客と遊女見習いという立場の差からくるものなのかもしれなかった。いずれにせよ、望美がこんな態度を取ることなど、今までになかったことだった。

 本来の少女の姿を垣間見たように、九郎には思えた。
 伸びやかな、優しい心根の、少女。

「俺のために、お前が作ってくれたのだろう?」

「……そう、です」

「ならば遠慮なく、いただく」

「…………」

 不安げに見守る望美の前で、九郎は握り飯を口に運んだ。
 見た目の不恰好さとは裏腹に、そのぬくもりは彼の腹だけでなく、心そのものをふんわりと満たした。

 

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**反転コメンツ**
なんだかえらい一方的に九郎のラブゲージのみが上昇していくんですけど(笑)。神子はどうした神子は!
いや、神子もいずれちゃんとラブゲージ上昇させます、その描写もします。でもまずは九郎→神子みたいなのを書きたかった。
ところで神子のおにぎりが不恰好だった理由→『1.急いで作ったから』『2.下手くそだから』さあどっちだ。
個人的には2を超希望。ゲームの影響でどうしても神子は料理オンチなイメージがつきまといます。