First

 

 たとえどんな些細なことだったとしても。
 その出来事から始まった、そのことが何にも勝る奇跡。

 

 

「私と初めて会ったときのこと、憶えてます?」

 望美が振り向いて手招きながら笑うものだから、九郎も求められるまま彼女の傍らに歩み寄った。ついでにちょうど中身を煎れ終わったマグカップを両手に持つ。彼女の好きな甘いココアと、自分の好むほうじ茶。異なる飲み物だけれど、同じようにほわほわと白い湯気を立ちのぼらせて色違いの器を満たしている。

「忘れられるものか。戦のさなかというのに軽装で現れて、敵陣について行くと言い張った女なぞ他に覚えがない」

 ほら、と差し出したマグカップを素直に受け取る掌は、九郎からすれば呆れるほどに小さい。その手がかつて並々ならぬ技量で剣を振り回していたことなど、もはやこの世界で知っている者の数は片手で足りる。
 この世界に来てようやく分かったことがある。彼女はほんとうに普通の娘で、庇護されるべきだけの存在で、生きるための糧を得るすべも持たず、法の上ではいまだ成年ですらなかった。それは九郎がそれまで知っていた望美という娘を根底から覆すほどの驚きであり───それでも変わることのない彼女の笑顔が九郎を安堵させてくれた。

『世界が違っても、常識が違っても。九郎さんは九郎さんで、私は私だよ』

 互いが変わらず傍らに在れば、それ以外は些細なこと。
 そう教えてくれた彼女の指先が随分と冷えていることを、カップの受け渡しで触れた拍子に九郎は気づいた。

「そんなことより、いつまでそうしているんだ? 冷えているじゃないか」

「だって雪が降ってるから。九郎さんと初めて会ったときのこと、思い出してたんです」

 窓辺に貼りついて離れようとしない恋人は、宵の街を染め上げ今もなお降り続ける冬の便りを堪能していたらしい。ココアが空になったら引きずってでも部屋の中央に連れ戻そうと、九郎は内心ひそかに誓う。
 望美はそんな彼の思考を露とも知らない様子で、くすくすと笑い声をたてた。かろやかな音がふわりふわりと、まるで窓の外を舞う白のように楽しげだ。

「九郎さん、開口一番怒鳴ってきたんですよね」

「……仕方ないだろう。味方と分からぬ初見の者に戦場で遭遇して、敵と用心しないほうがどうかしている」

「分かってますよ。でも朔を怒ったのはやっぱりないと思うの。いくら心配だったからって」

「───済まん、それは俺が悪かった」

 

 

「九郎さんと初めて逢ったばっかりの頃は、こうやって一緒にこの世界で過ごしてるなんて全然思わなかったなあ」

 望美が小首を傾げて笑う。
 その笑顔こそが今の運命を作り出しているのに、本人は至って無頓着に見える。

「お固くって、いっつも難しい顔してばっかりで、話しかけづらいし口は悪いし。ほんと、こんな人なんて絶対好きになれないって思ってたのに」

 指折り数えてあげつらう望美の指摘に少なからず傷ついた九郎だが、事実無根とも言えないので反論はしなかった。

「それはこちらの言うことだ。お前ときたら女人の分際で無鉄砲だし頑固だし、そのくせ妙に隙がありすぎて、見ているほうが肝が冷えたぞ。朔殿の対というのはそういう意味なのかと思った。てっきり嫁の貰い手がないから神子に選ばれたのかと」

 その代わりに別の意趣返しをすると、望美はぷーっとふくれる。完全につむじを曲げられる前に、九郎は笑いながら細い肩を引き寄せた。この世界で積み重ねられた時間の中で覚えたことの一つだった。

「───だから、ちょうどいいんだろう?」

 好きになれそうもないと思った相手を、好きになって。
 今は互いが互いの一番で。

 最初の頃は力加減というものが分からず、やわやわとしたぬくもりをどうすれば壊さずに腕にできるのか戸惑ったものだ。今では望美が顔をしかめることもなく、うっとりと瞳を閉じてくれる抱擁を与えてやれる。引き寄せた望美の両肩は、九郎の片腕ですぽりと包まれてしまうほど華奢だった。
 この距離に近づくまで───それを赦す関係になって、初めて気づいたこと。
 一つひとつ増えていく『初めて』の積み重ねの果てに今のしあわせが在る。

 この幸福のきっかけとなった、あの冬の日。
 それは確かに望美にも自分にも特別なものなのだろう。

「そう怒ってくれるな。昔の話で、今はそうではないのだから」

 宥め機嫌を取るための言葉を耳朶に落とすと、ほっそりとした首がきゅっと竦められた。かかる息がこそばゆかったのかもしれない。
 女の顔色を伺うなど、情けない男のするものだと思っていた。しかしいざ自分が恋路に惑ってみれば、惚れた女の言葉ひとつ素振りひとつで天地が逆さになるより激しく心を掻き乱される。つくづく体験してみれば分からぬことというものはあるのだと、望美を知る前の己の朴訥さを九郎は遠く慨嘆する。

「……な、望美?」

 吐息に紛らせた彼女の名をふっと吹きかければ、愛らしい耳朶がすうっと染まった。
 紫紺の絹糸にその色がよく映える光景をこれほど間近で見知っている男は、きっとあちらにもこちらにも他にいない。それが嬉しい。

 

 

 重ねた唇から薫る仄かなココアがどれほど甘いか知っているのは。
 かつて無骨の朴念仁と揶揄された、たった一人の男だけ。

 

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**反転コメンツ**
クリスマスに限定してはいませんが微妙にクリスマスっぽくもある冬のおはなし。
神子的には異世界召還はクリスマス直前の時期だったんだよな〜というのがコンセプト。九郎的には新年だけど。
実はこの後のシーンまで含めて1つの話にしようと思ってたのですが、分けて普通に展示しました(笑)。
この後は別ページにてそのうち書きます。(イヤな振り方)