子守唄

 

 どんなに手を伸ばしても届かなかった。
 だって私とあのひとの間には、頑丈な木の枠が立ちはだかっていたから。
 困り果てたあのひとが精一杯に指先を伸ばして拭ってくれても、耳にかけた髪をゆっくり梳かれても、ためらいがちにそっと掠めた唇のぬくもりさえ。

 いつまでも止まらなかった涙だけを鮮明に憶えている。

 

 

 九郎はふと顔を上げた。何かが聴こえたような気がした。
 思わず傍らを覗き込むと、望美が微かに呻きながら寝返りを打つところだった。横を向くに従って、閉じた瞼の合間からすうとすべり落ちる雫が髪の中に溶け入った。見れば柳眉も歪んでいる。具合が優れないことを差し引いてもひどく苦しそうで、見ている九郎のほうがつらくなった。
 苦痛も悩み何もかもすべて、この小さな娘を苦しめるものをこの身に引き受けられればいいのに、と思う。あたたかくやわらかく、しあわせなものだけで包めればいいのに。けれど己の両手はひどく不器用で、この手こそが彼女を傷つけてしまうことさえ時折ある。

「ぅ、……ん……」

 はっきりとうなされて再度寝返った望美の涙が止まりそうになかったので、九郎はそっと手を伸ばした。

「……望美」

 もがくように掛け布からはみ出た掌を捕らえて握る。華奢なつくりだと改めて思う。力任せに握り締めれば壊れてしまいそうで、だから恐る恐る力を込めた。壊さないように、けれど確かにここにいるのだと伝わるように。

「───ゃだ……く、ろう、さ……っ」

 途切れがちに紡がれる己の名がこれほど痛みを内包しているのは何故だろう。夢の中でさえ、己は彼女を哀しませているのだろうか。
 そう考えれば九郎のほうこそ泣きたくなる。そっと身を折って唇を寄せた。熱が下がらず寝込んでいる望美の唇は少しかさついていて、零れる吐息は病特有の澱みを湛えていた。一瞬だけ掠めるように触れて、すぐに離す。

 起こすつもりはなかったのだ。
 けれど軽いくちづけが終わった時、それまで見えなかった翡翠の色がぼんやりと覗いた。

「…………くろう、さん」

 ぽろぽろとこぼれ続ける雫が真珠のようだと、場違いなことを九郎は考えていた。こちらの首に腕を回してしがみついて震える望美が、うなされるような夢の続きで少し寝ぼけているのかもしれないと思う。だからすぐに力で引き剥がすことはせず、落ち着かせるように髪や背を撫ぜた。
 子どものようなしゃくり上げを胸元で受け止めてやることが、今の望美にしてやれる口下手な己の精一杯だった。

 

 

 夢なのか、ほんとうなのか、よく分からなかった。
 掠め盗られた唇のぬくもり、それだけがあまりにもあの時に刻み込まれた記憶と同じで。熱でうまく働かない思考は混濁し、望美を恐怖に引きずり込む。手を伸ばしても届かない、格子の向こう側でただ微笑んでいた優しいひと。目の前の彼は確かに生きていたのに、その命の輝きはもうじき消えることを今の望美は知っていた。
 いやだ。
 おいていかないで。
 わたしのてをこのままはなさないで。

 ───嗄れるほどに叫びたかった声は言葉にならず、ただ涙が止まらなかった。

「…………!!」

 ひゅっと息を呑む音が耳の奥に響いたのは、詰めた息を吐いた後だった。
 とても近くにある彼の身を逃がすまいと抱きついた。無我夢中でしがみつき、首の後ろで余った腕を広い背に這わせた。ああ、ほんとうはあのときも、こうしたかったのに。今にも遠くへ行ってしまいそうなこのひとの命を、私のところにつなぎ留めておきたかったのに。

「望美、どうした」

 静かな声に望美は泣きながら首を振る。そんなふうに話さないで。もっといつものように、照れて、それを隠そうとして大きな声でわめき散らして。何をやってるんだと文句を言って、私を振り払って。
 そうじゃないと、私、これが夢なのかほんとうなのか、分からなくなる。

「まだ熱があるんだから、横になっていないと駄目だろう」

 振り払ってほしいと思っていた筈なのに、気遣いに満ちた仕草でそっと横たえられるから涙は一層止まらなくなる。九郎が優しく穏やかな態度で自分を包むほど、あの暗い牢での記憶が望美の中に現実味を増していく。

「ほら、離せ。いつまでもこのままではお前が眠れんだろう」

 ただ泣いて、首を振って。それだけしかできなかった。まるで赤子のようだ。

「ずっと、ついているから。な?」

 それでもいやだと、顔を埋めた首筋のあたりに囁いた。
 そばにいて。わたしのてのとどくところに。

「……仕方ないな」

 抗えない力で腕を引き剥がされ、望美は悲嘆に暮れて九郎を見上げた。しかし彼のぬくもりは望美の片手しかりと握り締めたまま、掛け布を捲り上げて傍らにすべり込んできた。増えた体温、息遣い。二人で横になると狭く感じる寝具の中、ぎゅっと抱き寄せられ、身体ぜんぶを九郎に押しつけられる。

「これなら、いいか?」

「……うん……」

 熱に浮かされていた望美には結局のところ、夢なのか現実なのかは判断できなかった。
 ただ、あの牢の中で何よりも強く願っていたことが叶ったことだけは分かった。やわらかなぬくもりがそっと、今度は安らかな夢路へ導いてくれる。
 望美は安堵のままに瞳を閉じた。額に耳朶に落ちる九郎の唇も吐息も囁きも、すべてが愛しい子守唄となって、かつての運命に受けた心の傷跡を慰撫してくれた。

 

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**反転コメンツ**
私にしては珍しくシーン先行で降ってきたネタです。風邪かなんかで寝込む神子と世話係の九郎。
『ほんの軽いキス→腰越フラッシュバックで泣き出す神子』というのが書きたかったシーンであります(笑)。腰越ラブ!
あと個人的には『服着たままR系方向なしで同衾』というのもテーマです(爆笑)。うちの御曹司はいつもがっつきがちなので。
一応無印ED後舞台とはしてますが、腰越を経験してれば別に十六夜ED後でも構いません。