とこはる

 

 春よ、春よ。
 移ろい往くその歩みを一時でも緩めて、どうかとこしえに。

 

 

「……お前は、何をしている」

 軍装した船の甲板にちょこんと座っている春色の娘は、あまりに場違いな印象を九郎に与えた。昼間ならいざ知らず、今はもう宵。彼女の名を意味する満ち欠けの輝きが、漆黒の天空に澄んだ光を投げかけている刻限。いつもの通りに、とっくに休んでいると思っていたのに。
 望美はくふふと上機嫌に笑いながら、九郎の問いを受け流した。

「お月見でーす」

「一人でこんな夜更けに……さっさと寝ろ、馬鹿」

「やだ。それにもう一人じゃないでしょ、九郎さんがいるもん」

 妙に間延びした舌足らずな言葉に内心で首を捻れば、彼女の傍らに置かれた壷と器に目がいった。よく見慣れた形のそれを、しかし神子の傍らに見かけたことは、短くはないこの一年の間にもなかった気がする。

「お前、どこから酒なんぞ持ち出してきた」

「持ち出してきたんじゃなくて、もらったんです。甘酒、おいしいですよ」

 言いながらも神子は器を口に運び、白い酒精を舐めた。
 その瞬間にちらりと覗いた舌と、それを収める柔らかそうな唇。濡れた幼い朱がやけに艶かしく映るのは、望美が僅かに酔っているからだろう。それとも先ほどまで腰を落ち着けていた宴の酒が、己にも残っているのかもしれない。陣中ゆえ過ぎるほどは呑まなかったつもりだが、近づく終焉につい気が緩んでしまったのだろうか。

「もうすぐ春なんですね」

 ゆたゆたと流れる潮の上、ふわりと細い爪先が弧を描く。寒さ避けの薄絹をまといつかせたその手足の、呆れるほどに華奢な線を何故か正視できなかった。

「やめろ。落ちたら敵わん」

「そんなへましないですよー」

 ふわふわ笑う望美は、けれど酒のせいか、普段よりも一層危うげだった。
 たとえそうではなかったとしても、見つけてしまった以上、そこからそのまま立ち去るような真似など、九郎にできはしないのだ。それを彼は義務だの責任だの、八葉だのといった言い分で正当化していた。それ以上を考えてはならない気がしていた。
 覚束ない手から杯を取り上げると、望美は一拍置いてから小首を傾げる。

「……九郎さんも飲みたいの?」

「いらん。お前の口に合う酒では、俺には甘すぎる」

「じゃあ返してくださいよぉ」

 間延びしたままの声で不満を洩らしながら、望美はゆるりと手を伸ばした。
 九郎がそうさせじと身を引けば、目測を誤った細腕はへなりと崩れ落ちた。倒れこむ寸前で咄嗟に片腕を差し伸べると、躊躇なく重みを預けてくる。
 相当の量を呑んだのか、それとも酒に弱いのか。彼女の様子を見ている限りでは、どうも後者のように九郎には思われた。

「いい加減にしておけ。もう休まないと、明日に差し支える」

「……だってー、せっかくお月見してたのにー」

「月見なんぞ落ち着いたらいくらでもすればいいだろう」

 望美は人のぬくもりに安心したのか、そのまま動物の仔のように、すりすりと九郎の胸元に頭を摺り寄せた。
 そうして甘えるような声音のままに、言った。

 

「落ち着いたらって、私、その時にはもう帰っちゃってるもん」

 

 甘やかな音で紡がれる声は、氷塊となって男の内側を凍てつかせた。

「こんなに綺麗な夜空なんて、見られるの、あと少しだもん。戦が終わった後は、神子はもうお役御免だもん……」

 そうだ。約束したではないか。
 必ず彼女を元の世界へ帰してやる、と。
 そのための方法を、きっと見つけてやるから、と。

「だから、今のうちにいーっぱい、見ておきたいんです。星も月も海も季節も、何もかも」

 答えるべき言葉を見つけられず、九郎はただ、呑み込んだ息をゆっくりと吐いた。
 望美が何故、女の身でありながら戦場に立ち続けてきたのか。その理由から、何時の間にか目を逸らしていた。その先にあるものを見ようとしなくなっていた。

「……望美……」

 ───ずっと傍らに在るのだと、思い込みかけていた。

「ねえ九郎さん。この世界はとてもきれいですね」

 歌うようにそう紡ぐ彼女こそが、何よりも儚いひとだったのに。

「きれいで、残酷で、哀しくて……でも、だからみんな、一生懸命に生きてる」

「…………」

「───私、この世界が好きですよ。だから護りたい。戦を終わらせたいんです」

 支えた腕の衣をぎゅっと掴まれた。
 その強くも脆い力が、ひどく胸を突いた。
 いつまでこうやって、触れ合っていられるのだろう。戦が終わったその時、神子は天へと還っていく。

 

 終わらねばよいと、刹那、本気で思った。
 とこしえの春に舞う天女を、不浄の大地に留め置きたいと願っていた。

 

「……ああ、頼りにしている」

 口に出すことすら認められない愚かなのぞみ。
 これほど彼女の名を冠するに相応しくないものは無い。
 ぐっと嚥下した頑是無い戯言は、酔い覚ましの薬湯よりも極めつけに苦かった。

 

 

 春よ、春よ。
 雪を融かし東風を呼び、永遠の繁栄を約する季節よ。
 どうか───あと少しだけの猶予を。

 

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**反転コメンツ**
特に桃の節句がらみの内容ではないですが、春舞台なのでカテゴリとしてはなんとな〜くそんなイメージ。
共通ルートあたりではあっさりさっくり「元気でな」とか言い出しそうですこの鈍感。で、別れた後に無性に寂しくなる(笑)。
年度末が3月な日本において、春は出逢いの季節であり別れの季節でもあり、無性に人恋しくなる季節な気がします。
生臭くない透明な雰囲気を描きたかったのですが、なんか消化不良…り、リベンジします(^^;)。