Eve

 

「九郎さんクリスマスは一緒に過ごしましょうね」

「ああ、分かった」

 恋人たちの間で交わされる、他愛ない会話。
 そんなありふれているはずの約束が、すべての発端であり元凶だった。

 

 

 クリスマスに藤沢駅前で午後四時。それが待ち合わせの約束だった。
 なにも待ち合わせをしなくとも、九郎の部屋に直接訪ねていけばいい話なのだが、そんな『いつも通り』とは少し違った雰囲気を楽しみたくて、望美はそうねだった。九郎は理由が分かっていないようだったが、それでも確かに頷いてくれた。
 それなのに何故自分は今、駅に面したコーヒーショップの窓際席で、一人ぼっちでぽつんとツリーの電飾を眺めているのだろう。
 望美はうなだれ、携帯を取り出した。
 その小さな機械は、現在時刻が午後十時で、着信履歴がないことを表示していた。

 何度も九郎の携帯にかけ、そのたび『電波が届かないか、電源が切られています』という無情なサービスコールを聴いた。九郎はたいそう律儀で、公共交通機関を利用する時なども必ず電源を切る男だった。だから最初はその手の理由かとも思ったが、五分おきに二時間ほどかけ続けてもつながらないとなれば、望美も諦めるしかなかった。
 もちろんそうしている間にも、ぼうっと無為に駅前に突っ立っていた訳ではない。もしや急な怪我や病気でも、と思って九郎の部屋に向かってみたが、そこはきっちりと鍵がかけられ無人のようだった。不慮の事故で病院に担ぎ込まれたのか、それなら緊急連絡先として有川家の情報を伝えろと何度も言い聞かせていたのだが、望美が有川兄弟に連絡を取ってみても有効な情報は得られなかった。
 僅かに期待して舞い戻った藤沢駅前に、しかしあの鳶色の癖毛は見当たらなかった。

「…………」

 底の見えたカップはもう何杯目のオーダーだっただろう。望美は溜め息をつき、コートを身に着けてバッグを手に取った。この店もそろそろ閉店時間だろうし、これ以上ここで粘ることはできない。
 足の向ける先に、望美は一瞬迷った。
 彼女の中に『自宅に帰る』という選択はなかった。それならば何を躊躇したのかというと、彼を待ち続ける場所をどこにしようか、という問題だった。もうすっかり夜の時間帯で、外を女一人で人を待つのは危険だということくらいは、望美も分かっている。深夜営業をしていて女一人でも入れるような店といえばカラオケボックスか漫画喫茶か、しかしそれではもし彼が付近を通りかかっても気づくことができない。

 再度溜め息をつき、望美は切符を買って電車に乗り込んだ。
 九郎が確実に戻ってくる場所の心当たりは、たった一つだけある。そこで彼を待っていようと思ったからだった。

 

 

 アルバイト業務に従事しながら、九郎は同輩の男の愚痴を綺麗に聞き流していた。為すべき仕事がありそれで賃金を得ているのなら、無駄口を叩くより先にせねばならないことがある。しかも今日はひどく人手が足りず、臨時補充の新人アルバイトに仕事を教えながらの業務は、効率が落ちるのも仕方がない。

「ああ〜ぁ、ついてない。なんでよりによってイヴの直前にカノジョにふられちゃうかなあ」

「口はもうそのままでもいいから、手も動かしてくれ」

「へいへいっと。そんでイヴの夜に過ごしてるのが、バイト先で男とだもんな、泣けてくる」

「人手が足りんのだから仕方ない。連絡を入れた時に来ると言ったのはそちらだろう」

「だって一人でゴロゴロしてたってしょーがないじゃん。どうせ予定はパアになったんだし、時給も臨時で上がるって話だったし、それならバイト出たほうが金になるっしょ」

「ならばその分働くべきではないのか?」

「分ーかりましたよー。まったく、口うるさいねえ。そんなんだからカノジョいねえんだぞ」

 十二月のシフトが発表された時、二十四日に組み込まれていたアルバイトたちの中で、唯一九郎のみが不服を唱えなかった。イヴに予定が埋まっていても平気ということは、すなわち共に過ごしたいプライベートな相手がいないということだ。そのため他のアルバイトたちの間では、すっかり『あいつには女がいない』ということになっていた。

「なんの話だ」

 九郎はきょとんと首を傾げた。
 女性の話題など今まで一つもなかったのに、藪から棒に彼女と言われても、どの女性のことを指しているのか分からない。
 アルバイト同期の男は、九郎の反応に肩をすくめただけだった。

「オレは残業してがっつり稼いでくけどさ。お前はフルだったし、定時で上がり?」

「ああ、もう十一時か」

「お疲れー」

 

 

「───な……」

 その光景を目の当たりにした時、不覚にも九郎は言葉が出なかった。
 彼にとっては何もかもが青天の霹靂だった。自室の扉の前に望美がいることも、膝を抱えて座り込んでいることも、その頬にうっすらと光る雫の跡があることも。

「望美!? お前、こんなところで何を」

 九郎が慌てて駆け寄り肩を抱こうとすれば、振り払われた。
 望美の低い声がこぼれる。

「…………たのに」

「望美?」

 次の瞬間、少女はきっと男を睨み上げてきた。

「約束してたのに! またすっぽかされるなんて思わなかった!!」

 九郎と外で会う約束が果たされなかったのは、これが初めてではない。
 厭な記憶を楽しい思い出で塗り替えたかっただけなのに、それは更なる深い傷となって望美を抉っただけだった。

「おい、望美」

「もういい。お休みなさいっ」

 望美の剣幕に呆気にとられていた九郎だったが、彼女がその場から身を翻そうとする前に、はっと我に返った。そうなれば反射神経も膂力も彼女に優るものだから、腕を掴んで逃亡を阻止するのも造作はない。

「離してよばか! 九郎さんの最低男!」

「だからお前、すっぽかすって何の話だ」

「忘れてるの!? もっと最悪、約束してたじゃない!!」

「約束?」

「クリスマス、午後四時、藤沢駅前で会おうねって、約束してたでしょ!?」

「そのことか。忘れてなどいない、ちゃんと覚えている」

 九郎の言葉に、望美は悔しさで視界が一層滲んだ。
 こんな見え透いた嘘なんてつかれるくらいなら、いっそ忘れていたと正直に言ってくれさえすればいいのに。

「忘れてたでしょっ……来てくれなかったじゃない、ずっとずっと待ってたのに!!」

 望美の詰問に、九郎は答えた。

 

「忘れていない。明日の約束だろう」

 

 頭が白くなるというのはこういう感覚だろうか。
 頭のどこかでそんなことを呑気に考えているのは、やはり現実逃避の一種なのだろうか、と望美は思った。

「…………はい?」

「クリスマスとは師走の廿五日の祭祀を指すのだろう。今日は廿四日じゃないか」

「…………」

「お前、日付を間違えていたのか? ───まさかずっと、俺を待って」

「ちょ、ちょっと待って九郎さん」

 あわあわと口を挟んだ望美は、もうすっかり涙など止まっていた。

「私、クリスマスって言いましたよね」

「そうだ。だから明日だろう」

「イヴって説明しませんでしたっけ?」

「なんだそれは?」

 クリスマスは、十二月二十五日である。その前日は前夜祭としてイヴと呼ばれる。
 そして現代日本において、クリスマスと言えばイヴのほうと相場は決まっている。

「…………」

 もとから腰を下ろしていたからいいものの、立っていたら間違いなくへたり込むほど、望美の全身から力が抜けていった。一言で言えば、怒りが萎えて阿呆らしさに取って変わった。
 九郎のほうはそんな望美に構わず、彼女の涙の跡を指で拭ってきつく抱き締めた。

「仕方ない、今宵は泊まっていけ。風邪をひいていなければいいが」

 時間帯を考えると、今から駅まで送り届けても終電に間に合わないだろう。どうせ明日は約束をしていたのだから、それが丸一日になったところで支障はなく、むしろ歓迎したい ほどである。
 鍵を取り出して錠を開け、いまだ座って無言のままの望美を抱え上げた。

「ひゃっ!」

「深夜に騒ぐな」

「こ、こんなことしてもらわなくてもっ……」

「うるさい」

 言い合う声は扉の内側に消えていき、かちりと錠の閉じる音が響いた。
 現代日本の世間一般から少し遅れて、二人の聖夜はようやく始まったばかり。

 

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**反転コメンツ**
現代舞台でメリークリスマス。相変わらずベタベタにすれ違って仲直りしてる九望が萌えです(笑)。
むしろ日本のクリスマスのほうがキリスト教圏から見て異常なんだよナーという思いつきから降ってきたネタでした。
説明不足だった神子が悪いのか、周囲の一般的な情報を確認しなかった九郎が悪いのか…多分どっちもどっちかと。
アルバイトに関しては、まあ、適当に(^^;)。思いつきません…履歴書もいらないような時給バイトかなあと。