遠きにありて

 

「九郎さん、ほら早く早く!」

 常緑樹を背にして望美が笑う、その無邪気に弾けるような表情。何だかんだ言いつつも、こちらがそれにとことん弱いということを、この少女は知っているのかいないのか。

「足元を疎かにするな。お前のことだ、転ぶに決まっている」

「平気ですよ、あっちの道に比べれば舗装されてる分、ずっと歩きやすいじゃないですか」

「……まあ、それはそうだが」

 そんな会話を交わす二人のじゃれ合いは、恋人同士にしか見えない。初対面の他人の目にもごく自然にそう見えるようになるまで、この、素直なくせに素直でない不器用な男女には、かなりの時間が必要だった。
 そんな二人が今いるのは、暦の上では冬を迎えて間もない日の、鞍馬の山中である。

 

 

『この日だけは何がなんでも予定を入れないでください。私が予約します』

 九郎の部屋にかけられている、望美が持ち込んだカレンダー。
 その中のとある週末をペンでぐるぐるとしつこく何重にも囲んだ少女の、振り返った表情は鬼気迫る迫力があった。今から遡って一ヶ月ほど前の話になるのだが、理由を彼女は今日まで明かさなかった。

『午後はもともと何もないぞ』

 平日がその日で終わる、週末の午後。誰しもが休日の予定に心を弾ませ、恋人たちにはつかの間の蜜月ともなるその曜日は時折、望美が押しかけてきてはそのまま泊まっていくようになった。そのパターンを、口ではどうのこうの言いつつ、男の本音の部分では九郎も受け入れていた。午後に予定を入れないようにしているのは、密かな期待の表れだ。
 望美はぷるぷると首を横に振った。

『一日中なんにも、です』

 九郎は首を縦に振らざるを得なかった。何と言うかもう、断ったが最後、包丁でこの身に花断ちを披露されるのではないか、とすら思わせるほどのすさまじい形相だったのだ。神子と対峙した怨霊はこんな恐怖を感じていたのだろうか───と、今になって九郎はかつての敵にこっそり同情を覚えた。

「おはよーございます! さあ行きますよ!!」

 その当日である、今日。
 早朝―――寝坊ばかりの彼女にしては本当に稀有な時間帯―――に、望美がいきなり押しかけてきて九郎を連れ出し、今に至る。
 お前学校は、という尤もな九郎の疑問は、病気なので自主休講です、という返答で報いられた。しかし彼女の姿はどう見ても溌剌と生気に満ちており、その理由が虚偽であるのは明らかだった。お前のどこが病だこの不精者、本分を怠るな、と説教すれば、九郎さんが好きすぎて不治の病なんです、と脈絡のない止めを刺される。
 引きずられるままに電車を乗り継いで大きな駅へ向かい、江ノ電とはまた外観の異なる列車に乗り込めば、窓を流れる風景がたじろぐほど早い。九郎さん新幹線は初めてだったよね、と望美が笑った。
 訳の分からないまま、何処へ行く気なんだと問いかければ、少女は一冊の雑誌を差し出した。ぺらぺらとめくってみれば、どこか覚えのある地名が、風景写真と共に目に飛び込んでくる。

「京都に行くの。今日はお天気もいいから、山登りしましょう」

「きょうと……?」

「分かりにくいかな。―――京の、都です」

 きょうの、みやこ。
 普段は意識の底に仕舞いこまれている記憶が、望美のやわらかな声で綴られる音のつらなりに誘われて、ふわりと溢れだした。様々な場所、ひと、出来事。この世界にたどり着くまでの九郎の人生の、実に半分以上がその地で織り成されていた。

「こっちの世界の京都だから、あっちの京とまるっきり同じじゃないけど。でも、似てるところもたくさんありますよ、きっと」

「……何故、急に」

 少女はにこりと笑った。

「九郎さん、お誕生日おめでとうございます」

 彼女の返答は、彼の質問の意図からは微妙に外れていた。
 けれどそれが彼女の笑顔を引き出しているのなら、それも悪くはない、と九郎は思った。

 

 

「やっぱりいろいろ似てるでしょ?」

「そうだな。先生の庵はこちらの方角だったか」

「あ、道を逸れて勝手に入っちゃダメですよ。参拝の道順は限られてるんだから」

「そうなのか? 残念だな、せっかく訪れたというのに」

「私も残念ですけどね。そもそもあっちの鞍馬とは違うから、先生の庵はないと思います」

 二本の足が頼みの綱だったあの世界を踏破してきた身には、鞍馬の山中を歩き回るのもさほどの労力ではない。道中で随所に設けられた休憩所を必要とせず、九郎と望美の足取りは軽いままだった。

「……そうは思えんほど、似ているな」

 九郎の声に滲む慕わしさを自分も共有しているから、望美はそれを不安に思いはしなかった。こちらの世界で共に育んできた絆が、少女に自信を与えていた。だからここに、彼を連れてきたかったのだ。なつかしい場所、なつかしいひとたちを、今日くらいは存分に思い出してほしかった。

 そのやさしい思い出が。それを蘇らせる手助けが。
 こちらの世界を選んでくれた彼へ自分が贈ることのできる、一番のものだと思ったから。

「―――おい?」

 ぺたりとこちらの腕に貼りついてきた望美を、九郎は訝しんで見下ろした。
 すり、と額を寄せてくる、甘えた仔猫のような仕草。

「いや?」

「……そうでは、ないが」

「ならいいじゃないですか」

 これが人の多い鎌倉の通りで為されたことなら、九郎は無理にでも振りほどいただろう。
 しかしここは静かな鞍馬の山中で、参拝の者も時折すれ違う程度に人がまばらだった。何より幸せそうな笑みを浮かべて身を寄せる彼女が、心のぬくみを何倍にも増してくれるから、九郎はそのまま望美の好きにさせておくことにした。

「今日は九郎さんのお誕生日だから、めーっちゃくちゃ甘えようって決めてたんです」

「お前がか。祝うというなら逆ではないのか」

「だって九郎さんはいつも、素直に甘えてくれないんだもの」

 少女の声はすり寄られた男と、周囲の杉の木立だけが聴いていた。

「だからね、私が九郎さんのぶんまで甘えれば、ちゃんと恋人らしく過ごせるでしょ?」

 

 ―――ハッピーバースデー、九郎さん。

 

 異つ国の言葉で綴られたその寿ぎの意味は、一年前に彼女が教えてくれたもの。
 あちらかこちらか判然としない場所で紡がれた声は、どの世界に在ったとしてもこの少女の傍に在れればいいのだ、と誓ったあの日の願いを九郎に鮮明に思い起こさせた。
 かなしいほどにいとしい、たった一つの存在。

 九郎は微笑み、その存在をきつく、己の腕の中に閉じ込めた。

 

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**反転コメンツ**
2007年九郎ハピバ記念の無印ED後設定。特に関連はないけど去年のハピバSS設定の二人の一年後です。
現代に拉致って二年近いというマイ設定のため、そりゃ少しは自然にカップルらしく見えるだろ、と勝手に思ってます。
ところで本文にすごく入れたかった(けど入れるタイミングがなくて取りやめた)小ネタ。
二人が京都まで移動した際に使った新幹線はもちろん「のぞみ」です(笑)。