無知

 

 彼女は自分が女人だということを分かっていない。

 

 

「九郎さん」

 確かに呼ばれたのは自分の名なのだと、理解はしている。
 だが、振り向かなかった。足も止めなかった。ひたすら聞こえぬ振りをしてやり過ごそうとしていた九郎の態度は、当然ながら呼びかけた側を満足させるものではなかった。

「九郎さんてば」

「…………」

 無視。徹頭徹尾の、無視。返事どころか視線も動かさない。
 一向に反応を返さない九郎に業を煮やしたのか、望美は軽い足音を立てて小走りに、不機嫌な大将の背後に近寄った。

「ねえ! いいでしょちょっとくらい付き合ってくれても、これも修行じゃありませんか」

「……お前の剣の腕ならば、その必要は」

「どんな事態でも想定しておかねばならないって、先生が言ってましたよ」

「…………」

 内心で苦虫をまとめて噛み潰し、九郎はほんの少しだけ、師を恨めしく思った。

「……大体、頼む相手がどうして俺なんだ」

「え、だって、いきなり先生に挑んでも全敗確定だし、第一先生はおっきすぎて勝手が掴めないんですもん。だからまず、九郎さんに練習相手になってほしくて」

「…………」

「九郎さんだって先生に教わったんでしょう? 私にも稽古つけてくださいよ」

「…………」

 頭痛がしてきた。まったくこんな状況で持病を出させるな、と思う。
 胡乱な目つきで望美を見やるも、この白龍の神子は、自分が何を要求しているのかまるで分かっていない呑気な表情でこちらを見上げている。

「どうしてもダメ、なんですか?」

「…………」

 返事をするのも億劫になり憮然としたままの九郎をどう見たのか。
 望美は『押してダメなら引いてみろ』を実行することにしたらしい。

「分かりました。じゃあ誰か別の人に頼んでみます」

「っな! 尚更駄目に決まってるだろう、この馬鹿!!」

 大きな怒鳴り声も、口論に慣れた少女の感情には、砂粒ほどの波紋も与えなかった。

「だって九郎さん付き合ってくれないみたいだし。でもこればっかりは、自分一人じゃどうにもできませんし」

「〜〜〜っ!!」

 ───ああ、くそ。

「……どうなっても知らんぞ」

 唸るように絞り出された九郎の言葉の、意味を。
 露ほども知らない望美は、要求が通った満足げな笑みを浮かべて頷いた。

 

 

「えっと……まずは、どうするんですか?」

「とにかく隙を窺って退くのが最上だ。なければ作ってでも退け」

「難しくないですか、いきなりそれは」

「得物と素手では話にならんだろう。あっさり討たれるのが関の山だぞ」

 今二人がいるのは、特に誰が使っている訳でもない、空いた局だった。
 戦場に立つ以上、いかなる不測の事態にも即応せねばならない。得物を手に戦うだけでなく、それを失くした状態であっても、最大限に自らの身を護れるようになっておくに越したことはない。
 リズヴァーンが望美に教え始めたのは、体術だった。武器を持たない状態で力に勝る相手にどうすれば抗しうるのか、女性である望美には必要な護身術だと、それは九郎にも分かっている。それを身につけるためならば鍛練を積むのも、当然のことだ。

 けれど。
 それを身につけるために己が師から受けた鍛練を思い起こし、やはり駄目だと九郎はきつく唇を噛む。

「で、隙を作るのって、具体的にはどうすれば?」

「蹴るなり手刀なりで相手の得物も手放させるのが定石だが……お前はやめておけ」

「なんで!」

「お前な、素手の掴み合いで男に勝てると思っているのか」

 頭ごなしに決めつけるようなその言い方が、かえって望美の反発を招くのだと、九郎も気づいてはいるのだが咄嗟には改められない。
 案の定、神子はむっとふくれて九郎を睨みつけた。

「そんなの、やってみなきゃ分からないよ」

「やらんでも分かる。無謀にも程があるだろう」

「だってそれじゃあロクに稽古にならないじゃない!!」

「だから最初からそう言ってるだろう。お前がそこまでする必要はない。そんな危機に神子が陥るのを防ぐために、八葉があるのだろう?」

 我ながらそこそこ上手く言いつくろえた、と九郎は思った。ああこれでようやく、この状況から解放される。先刻から間断なく疼きを訴えてくる頭も、少しすればおさまるだろう。
 だが、残念ながら、望美がおとなしくそれを聞き入れる訳もなかった。

「何それ……一度引き受けて、それってあり? もういい、やっぱり別の人に頼むっ!」

 ばっと身をひるがえそうとした少女の姿に。
 九郎は本日最大級の頭痛を自覚し───同時にその細い手首を掴んで引き倒した。

 

 

「ぅわっ!?」

 背を思い切り板張りの床に打ちつけ、望美は痛みに眉をしかめた。

「……たた……もう、何するんですか九郎さん!」

「───これで稽古をつけろなどと、まだ言うかお前は」

 手首を拘束したままの九郎の声が、真上から降ってくる。視界が僅かにかげった。どうしてだろう、と考えかけて、自分の上にいるひとの影が顔に落ちているからだ、と分かった。それほどに近い距離。有り得ないほどの。
 望美は瞳をまたたかせ、一呼吸ほど置いて、今の自分たちの体勢が非常に問題のあるものだということをようやく理解した。

「あ、あの、ちょっと……九郎さん? どいてくださいよ」

「断る」

「は!?」

 あまりにもきっぱりとした拒否に、望美は二の句が告げない。
 九郎はそんな少女を見て、微かに唇の端を持ち上げた。

「そうだな……お前が一つでも俺を振りほどけたら、どいてやるさ」

 一つってなに、と質問しかけて、望美は気づいた。
 最初に捕らえられたのは、片手首だけのはずだった。それが今では、両の手首を九郎の掌にがっしりと押さえられて床に押しつけられ、足首のあたりにも器用に彼の足が絡んで、きっちりと縫いとめられている。唯一意のままに動かせるのは首だけで、それも背を完全に地につけている状態では、どこまで自由がきくかは怪しいものだった。

「なっ……で、できっこないでしょ、これじゃあ!」

「やってみなければ分からんと言ったのは、この口だったよな?」

「そうだけど!!」

「……喧しい口だな」

 視界のかげりが一気に強くなった。
 反射的に瞳をぎゅっと閉じた望美の唇に、やわりと九郎の熱が重なった。

 単純な膂力の勝負に持ち込まれれば、女人である望美にはもはや挽回は不可能だ。
 それを本人は自覚していない。どれほど危ういことなのか、自覚してはいない。それが九郎をひどく苛立たせる。

「…………っん、」

 必死に振りほどこうとでもしているのか、捕らえたままの手首や足に力がこもるが、さして意識もせずにあっさりとねじ伏せてしまえるほどの儚さ。
 そっと啄ばむだけだったやわらかい感触を、ちろりと舐める。びくん、と大きく跳ねた身を更に押さえつけ、あわいをぬって割り開く。震えてさえいる望美に対して覚えるのは、苛立ちからすりかわった欲だった。

 ───少しは思い知るといい。

 その身がおんなであることを。
 自分がおとこであることを。

 

 

 彼女は何も分かっていない。
 自分が女人だということも、この胸を燻ぶって焦がす───熱も。

 

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**反転コメンツ**
舞台未定でキレ気味の九郎と無意識に地雷を踏む神子。ネタだけは相当前からありました。
まあこんなに手が早いのは御曹司ではないと思うんですが、ほら人間体調悪い時は我慢もきかなくなるしね!(笑)
どこまで暴走するかは…お読みいただいた方々のお好きに妄想推奨ですー。うふふ。
(ちなみに書き手は最後までいけるかどうかは限りなくアヤシイと思ってます。だって基本はヘタレで四角四面だもんこの人)