むかしばなし・過去

 

「あっ、おかあさーん!」

 その公園は、病院のすぐ前にある。
 待ち人をしていた親子連れの、子供のほうが高い声を上げた。
 いつものように母親に飛びつこうとした幼女は、すんでのところで父親に襟首を捕まえられて、じたばたと猫のように暴れた。

「ばか、母さんは今、大事な身体なんだぞ。飛びつくな」

 幼女はぷうと膨れるが、父親にそっと降ろされると、微笑む母親のもとにゆっくりと近寄っていく。母親が笑顔のままに両手を広げたのを見てから、やっと安心したように、ぽすんと頭をくっつけて寄り添った。

「迎えに来てくれたのね、ありがとう。お留守番のあいだ、変わったことはなかった?」

「うん! おとうさんもいっしょだったから、あけみ、おとうさんとあそんであげてたの」

「なっ……こら、明美」

「ふふふっ」

 年の割には口達者な愛娘に、九郎が勝てる訳がない。望美は屈託なく笑った。
 しばらく眉をしかめていた九郎だったが、望美の肩を抱くと、耳元に恐る恐る訊ねる。

「───医師は、なんと?」

「大丈夫。経過は順調だって」

 瞬間、九郎の表情がゆるゆるとほぐれていった。
 心底安堵したように望美を抱き締めてくる腕は、苦しくない程度に、でも決して振りほどけないような力がこめられていた。それに気づくたび、息が詰まるほどの幸福を感じて、望美は静かに瞳を閉じる。

 どこにでもありそうな、平凡な家族の姿。

 九郎が何よりも欲していたものがそれだということを、望美は知っていた。いや、知っているつもりだった。血のえにしに幸薄い彼に、それを与えるのは自分でありたいのだと、彼我の世界の差に目を回す九郎を見ながら、望美は願いを噛みしめていた。
 それを知っていても、子供ができた、と告げた際の九郎の喜びようは尋常ではなかった。あちらでは出産というのは母子ともに危険を伴うものだったためか、ひどく過保護さの度合いを増した九郎に、望美はいちいち行動の許可を求めねばならなかった。お前と子供が心配なんだ、と真剣な瞳で言い募られてしまうと、今はもう医療技術が発達しているから大丈夫だ、と説明する自分にも熱は入らない。

「もう、少しは慣れてくださいよ。二人目なんだから」

「慣れるものか」

 拘束する腕が僅かに強さを増した。

「幾度味わったとしても……こんな、幸福、慣れるものか……」

 声の微かな震えを、九郎は隠そうとはしなかった。
 取り繕う必要などないのだ。愛しい妻と我が子の前で、そんなものはいらない。

 

 

 血塗られた栄光をなげうった九郎の掌に残ったのは、望美という存在だけだった。
 悔やんだことも、惜しんだことも、一度もない。自分自身が欲して、選んで、掴み取った。手放したくないのだと足掻いた。
 与えてやれるものなど何もない、ただ彼女を想う心しか持っていない。

 ───それさえあれば幸せなのだと、微笑む望美をただ抱き締める。

「いつ頃だ?」

「半年先くらい。ふふ、九郎さんの誕生日あたりですよ?」

「そうか……」

 注意して見なければ分からないほど、まだ僅かな徴候しかない膨らみ。それでも、そこに確かに存在しているいのちが、幸せの意味を九郎に教えてくれる。
 妻と娘のやり取りを聞きながら、ただひたすら、甘いぬくもりの波に漂った。

「明美もおねえちゃんよ。弟と妹、どっちがいい?」

「おにいちゃんがいい!」

「あら……それは、無理ねぇ」

「えー。おとうさんおとうさん、あけみ、おにいちゃんがいいよう」

 ふくれた愛娘に、九郎は苦笑する。掌を頭に乗せて、少し強く撫でてやった。
 剣柄を握る感触しか知らなかった己の手が、今はもう、これほどにいとけなく愛らしい存在に触れている。九郎が求めて止まなかった暖かな家族が、ここにある。

 そのすべてを与えてくれた、望美と共に。

「……母さんの言うとおりだぞ。それは無理だ」

「え〜〜〜」

 大好きな両親から兄は無理と言われて、幼女はすっかりしょげ返ってしまった。
 九郎は微笑むと、娘の両脇に手を入れて、ひょいと抱え上げてやった。

「仕方ないだろう。明美が、父さんと母さんの、最初の子供なんだから」

「きゃっ、おとうさん、かたぐるまかたぐるま!」

 視界が一気に高くなると、それまでの不機嫌の原因をすこんと忘れて、幼女ははしゃぎながら九郎にねだる。

「ああ、いいぞ。───望美、お前は座ってろ」

「はいはい、ごゆっくり」

 ベンチに腰を落ち着けた望美から、無理なく見える範囲内で。
 娘を肩車に担ぎ上げたまま、九郎は公園の中をあちこち歩き回った。

「ねえねえ、おとうさん」

「なんだ?」

「さいしょのこどもって、あけみがいちばんってこと?」

「そういうことだな」

「なんでもっとはやく、おとうさんとおかあさんのこども、いなかったの?」

「っ!」

「そしたらあけみ、おにいちゃんがいたのに」

「…………っ」

「ねえねえ、なんで?」

 畳み掛けるように問われても、どれもこれも九郎には難題だった。
 もちろん答えが分からないからではなく、単に口にするのが恥ずかしいだけだったが。

「ねえねえ、おとうさんてばぁ」

「……お前が、もっと大きくなってから、な」

「大きくなったら? なあに?」

「───ちゃんと、教えてやるから。今はまだ、秘密、な」

「え〜、いつ〜〜〜?」

 いつだと問われて、いつなら適切なのだろう、と九郎は考えた。
 立ち止まってしまった父親を不思議に思い、幼女はしがみついた頭の上から、にゅっと顔を突き出した。その動きにつられて、明るい鳶色の髪が、木漏れ日を弾いて金に光った。

「おとうさん?」

 

『九郎さん』

 

 その瞬間、娘の声が、望美の声に重なって聴こえた。
 九郎はひとつまたたくと、頷いて再び歩き出す。

「……そうだな、明美がもっともっと大きくなって、大人になったら、だな」

 出逢った頃の彼女と同じ年頃に、成長したときに。

「だから、いつなのぉ?」

「秘密、だ」

 どうかそれまで、愛しい者たちを、自分のちっぽけな力でも護ってゆけるように。
 そんな願いを心に抱きながら、九郎は娘をあやしつつ、ベンチへと戻っていく。

 彼の幸せが微笑む場所へ。

 

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**反転コメンツ**
捏造Maxですが、一応、前編よりはまともな九望です。ちゃんと二人とも出演してるしね(笑)。
子供の名前を出さずに書けないか考えてはみたのですが、どうしても、出したほうがすっきり書けるので、やむなく設定。
女の子は望美から一字もらう形で『明美』、男の子は九郎と同じく漢数字を入れる形で『陽一』でした。
もっと子だくさんでもいいんだけど、これ以上名前考えるのがイヤだったので省略(爆)。