愛別離苦・急

 

 もしもう一度、逢えたなら。
 二度と離さないと、決めていた。

 

 

「なに、これ……」

 望美は呆然と、手にしていた本を取り落とした。ページがばらばらとめくれ、今までどこを見ていたのか分からなくなるが、そんなことは気にならなかった。

「嘘……だって、私、もう大丈夫だと思ったのに……!!」

 今ほど自分が歴史に疎かったのを呪ったことはない。
 『源 義経』の軌跡を記したコラムの内容は、望美があの世界でたどった流れに酷似していた。平家を壇ノ浦に討ち、頼朝に追討令を出され、奥州平泉の地に逃げ延びた。それでもなお頼朝は、兵を平泉に送り、飽くまで義経を討とうとした。それを望美は止めた。鎌倉からの兵が退いたのを見届けて、これまでだと思って帰ってきた。
 それなのに、この本に書いてある結末は、望美の願いとは逆のものだった。

 平泉は鎌倉に抗い通すことの不可能を悟り、義経を受け入れた藤原秀衡の病死後、後を継いだ泰衡が義経を討ったのだ、と。

 歴史には疎くとも、あの世界で知り合った人々を忘れたことはない。
 望美の知る秀衡は確かに豪放な人情に篤い人物で、九郎のことを実の息子のように遇していた。その子息である泰衡も、口は悪いながらに九郎を案じていたと思う。秀衡の優しさが分かりやすい形なら、泰衡の優しさは分かりにくい形であるだけだ、と望美はなんとなく感じていた。それは、よく似た不器用者と、先に知り合っていたせいかもしれない。
 けれどどちらにせよ、平泉を追われては、九郎に未来などあるはずもなかった。

 鎌倉は本当に、平泉と九郎のことを諦めたのか。
 泰衡は本当に、平泉の安寧のためならば九郎を討つ気だったのか。
 白龍の神子が消えた後、あの世界でなにが起こっていたのか。

 皮肉なことに、九郎も望美も、源氏の兵の中で名を知らぬ者はない存在だった。常に先陣を切る総大将は若き軍神と謳われ、厄介極まりない怨霊を封じる白龍の神子もまた、源氏の命運を左右する存在として誇張気味に喧伝された。平泉で切り結ぶはずだった鎌倉の兵たちの中に、九郎と望美の名を聞き、その姿を見て、戦意を喪失していった者たちが少なからずいたことを、後で弁慶から聞かされた。
 だとしたら、白龍の神子が消えたことは、鎌倉には好機。
 もともと鎌倉───頼朝にとっては、最初から望美のことなど眼中にはなく、目障りなのは九郎だけだ。

 だとしたら。
 もう一度、鎌倉が兵を送ってきたなら、平泉は。

 九郎は。

「───確かめなきゃ」

 机の引き出しを開け、望美は逆鱗を取り出した。
 二度とその力を使うべきではないのだと思い、目に触れないようにと、敢えて奥の方に押しやっていた、白く光る神力のかたまり。
 けれどそれを覆してでも、望美はその禁忌をふたたび手にした。

 それは九郎の命を案じるゆえか、それとも秘めきれない想いのせいか。

「お願い、導いて───あの人のところに!」

 

 

 何が起こったのか、分からなかった。

「…………」

 酒をあおった勢いで、寝てしまおうと思った。
 夢路でひととき逢えるのなら、現実の空虚を僅かでも満たしてほしいと思っていた。

 なのに、今自分にしがみついているのは、一体誰なのか。

「───か、った……っ」

 その、声。

「生きてた……九郎さんっ……」

 その、ぬくもり。

「よか、た───」

「……のぞ、み?」

 恐る恐る呼んだ声も、いきなりの燐光と共に九郎の目の前に現れてしがみついてきた少女には、聞こえていないようだった。
 これは夢か。きっと夢だ、自分の都合のよい夢に決まっている。
 そう考えるかたわら、しがみつく望美の腕の力とやわらかい熱は、夢ではないと九郎に甘く囁く。夢路の逢瀬は触れることなど出来ないものだ。触れようとしたその矢先に現実に引き戻され、己の女々しさに幾度唇を噛んだことか。
 瞬くことで消える妖(あやかし)ではないか、と望美の姿を改めて見つめ、今までとは別の意味で九郎の頭に血が昇った。

 二の腕どころか肩も鎖骨もむき出しの、薄い一枚の着衣。
 足の付け根あたりまでしかない、奇妙な形の袴らしき履き物。

「おまっ、なんて格好をしている!?」

 ひどく慌てた九郎の声に、望美は涙をこぼしたまま、笑った。
 ああ、九郎さんだ。この人はちゃんと、私の知ってる九郎さんだ。

 ───この人は、生きている。

「……お風呂上りでそのまま来たんで」

 望美は素肌にキャミソール一枚、下はショートパンツという出で立ちだった。現代において、夏の自室内であれば、この程度の服装は珍しい訳ではない。ただ、九郎にそれを理解しろと言っても、到底無理であろうことは経験上知っていた。
 そんなことに思い当たれば、少し寒い。一度自覚すると少しではなく、結構な肌寒さだ。

「寒くないですかここ?」

「当たり前だろう、今がいつだと思っている!? 神無月だぞ!!」

 神無月……ええと、ああそうそう、十月のことだっけ。
 うーん、あっちでもこっちでも半年くらい経ってるってことか。そりゃ寒い訳だよね。

「怒んないでくださいよ、向こうじゃ夏だったんですから」

 相変わらずな言い合いが嬉しく、怒られていても望美は幸せで、笑い続けた。
 そんな望美を見ていると、九郎のほうも、それ以上の怒気を抜かれてしまう。それに、顔を見たら伝えたいことは、もっと別にあったのだ、とようやく思い出した。

 彼女が寒くないように。彼女が消えてしまわないように。
 九郎の腕がしっかりと、華奢な身体を包み込む。

「───望美」

 名を呼ぶ。腕の中で望美が顔を上げた。
 呼べば応えてくれるその姿が、それだけの近さで二人いられることが、喩えようもなく幸福なことなのだと、この半年で思い知った。

「俺の傍に、居てほしい」

 望美がその大きな瞳を見開いた。そこに映る己の姿すら、九郎に喜びを与える。
 わななく唇が答えを紡ぐ前に、堪えきれずにそれを塞いだ。
 どさり、と音がして、少女の身体は組み敷かれていた。

 今だけは、溺れたい。全身を灼く熱情に。

 

 

「……九郎さんは、これからどうするの?」

 気だるい余韻の中で語られる睦言は、望美にとっては真剣なものだった。
 この半年あまりの間に九郎に起きていたことは、最悪の事態ではなかったものの、望美の寂寥をかきたててやまないものだった。
 八葉はその役目を終え、散った。ならば望美も神子ではない。

「どうするでもない。ただ、平泉を率いる跡目が決まらぬ限りは、ここにいるしかない」

 秀衡も泰衡も亡い、まつろわぬ人々の豊かな黄金郷。
 それが鎌倉にとってどれほど魅力的に映るか、九郎は知っていた。だからこそ、自分自身が戦火を呼び込む危険性を承知の上で、平泉が落ち着くまではここを離れる訳にはいかなかった。

「でも───」

 神子ではない自分になにができるだろう、と望美は思う。
 ここではなく、もっと以前の時空に跳べばいいのか。けれどどうすれば、九郎を命の危機からも孤独からも救うことができるのだろう。
 もう、命だけを救えればいい、とは思えない自分に、望美は気づいていた。
 平家を討っても、九郎はいずれ、頼朝と決別せざるを得ない。読んだばかりの本の記述が望美の脳裏を巡り、救うための糸口はいくら考えても見えてこない。

 だから望美は訊いた。九郎本人に、直接。
 九郎が何を一番望んでいるのか知ることができれば、それを叶えるためにやり直すことができそうな気がしたから。

「……九郎さんは、やり直したいって思うこと、ありますか」

「なに?」

「あの時こうしてたら良かったとか、そう思うこと」

 望美の言葉に、九郎は腕の力を強めた。
 触れ合う素肌の熱。自分には有り得ないほどのやわらかさ。甘い薫り。

「───無い」

 その返事は意外だったようで、望美が不満げに九郎を覗き込む。

「なんでもいいんです。本当に、ないの?」

 我慢しきれず、九郎は低く笑った。

「あった、と言えばいいのか。でもそれは、もう叶えられたから、無いんだ」

 神仏の奇跡など、信じたことはない。寺育ちのくせに、九郎は信仰心に薄かった。
 けれど今、自分の腕の中に納まっている愛しい存在は、それ以外の言葉で言い表すことはできそうになかった。
 やり直したいと願っていたのは、この少女を離したくなかったから。

「もし、もう一度だけでも逢えたなら、その時は二度と離さぬと誓った」

 ゆっくりと、白い頬を撫でながら呟く。

「帰ると言ったお前の手を掴まなかったこと───どれほど悔やんだか」

「九郎さん……」

「お前が居てくれれば、それだけで、いいんだ」

 言って九郎は、少しだけ眉を歪めた。
 途方に暮れた子供のような、何かをひどく憂いているような。

「……お前には帰る場所がある。だからあの時戻ったんだ、それは分かっている」

 大きな掌が、少女の頬からはずされた。
 そのまま抱き込まれ、九郎の重みが望美の上に再び覆いかぶさってくる。

「分かって、いるんだ。なのに俺は───お前に請わずにはいられない」

 頭の両脇につかれた腕が、望美を甘い檻に閉じ込める。

「帰さない。ここに、居てくれ」

「……九郎、さん……」

 あの時、言えなかった、一言。
 あの時、聞きたかった、一言。

 望美の瞳から、声もなく涙が溢れた。横たわったままに流すそれは目じりからするするとこぼれ落ち、こめかみをつたって髪の中に吸い込まれていく。

 ごめんなさい。
 ごめんなさいお父さんお母さん、将臣くん譲くん。
 願ってしまった。
 私はここで、この人と生きていきたいと、願ってしまった。
 こんなにも好きになった人が、私を必要としてくれたことが、何より幸せだと思った。

 細い腕が伸び、九郎の首にそっと回された。

「───居させて、ください……」

 どんな未来が待ち受けていようと、この人のそばに居たい。
 寄る辺をすべて無くしたこの人の、せめて僅かでも支えになりたい。

 九郎はひっそりと笑んだ。
 望美が捨てようとしているものの重さを、誰よりよく知る彼だから。
 それでも想いに応えてくれた望美が、何よりも愛しいから。

 そっと重ねられた唇は、苦く哀しく寂しく───そして、甘かった。

 

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**反転コメンツ**
十六夜の平泉帰還ED後を九望テイストで捏造、ハッピーエンド。いずれモンゴル行きなのかな、これは。
現代に連れ帰るのはどうしてもさせたくなかったので、神子に故郷を捨ててもらいました(爽)。
いや、あの超絶オトコマエ神子なら、ゲットした男と一緒ならどこでだってたくましく生きていけるはず!
省略したシーンについては、別途会員制ページにて〜。まずは『沙羅』から注意書きをご覧ください。