愛別離苦・破

 

 あなたは何も言わなかった。私も何も言わなかった。
 すごくずるい言い方だけど、もしも手を掴まれていたなら、振りほどける自信なんて、なかったんだよ。

 

 

 風呂から上がり、翌日以降の予定を大雑把に確認しようと携帯を操作する。
 明日の日付にマークが入っているのを見て、はて何だっただろうか、と考えかけて、あ、と思い出した。

「これ、期限が明日までだったんだっけ」

 図書館から借りてきたはいいものの、結局一度も開かないまま机の片隅に追いやっていた本を、望美はじっと見つめた。読もうと思ったから借りてきたのは確かだが、まだそれだけの覚悟がつかない、というのが本音だった。

「───どうしよ?」

 日本史の中世貴族文化から鎌倉時代までを網羅した、比較的詳細な歴史書。学校の社会科で学ぶような知識よりもさらに一歩踏み込み、豊富な資料写真と丁寧な年表が分かりやすいシリーズですよ───とは、歴史科目の苦手な望美に配慮した譲の言だった。
 それは望美にとって、以前よりもずっと特殊な意味を持つ本だった。

 あの世界での歴史の流れが、どう流れていくのかが綴られているから。
 生涯忘れられない仲間がいかに生き、いかに果てたのかが、綴られているから。

 今となっては幻のようにも思えるあの世界に放り込まれ、必死になって生き抜いてきた。そのために剣を習い覚え、怨霊を斬り人を斬った。尋常ならざる神の力の片鱗を受け取った代償はあまりに重く、仲間の命を救いたいと願って時をなぞり直した。とにかく彼ら全員が生きていることだけが望美の悲願であり、それが叶えられた今、こうして生まれ育った世界に戻ることはごく自然なことだった。

 彼らは望美にとって、とても大切な人たちだった。
 自分を一途に慕う龍神、常に支えてくれた親友、自分の願いに応じて戦ってくれた仲間。厳しさを増していく戦いの中で、各々の事情もあろうに、望美の意思を最大限に尊重しようと力を尽くしてくれた。それがどんなに得がたい幸福であることか、利便と平和に麻痺した感覚は、最初分からなかった。
 自分がいる限り、彼らは自分を優先し続ける。
 そう悟った時、神子が必要とされる事態が解決したら、自分はそれ以上あの世界に留まってはいけないのだと望美は思った。彼らは仲間であって、望美の部下でも従者でもない。彼らが真っ先に考えるのは、彼ら自身のことでなければならないのだから。
 そう思っていた。今でもそれは間違っていないと、そう思う。

 ───持て余すことになった心の痛みまでは、予測しきれていなかっただけ。

「一区切りつけば、そのうちおさまるのかな……」

 あの世界から戻ってきて、約半年。
 旅立った日と戻ってきた日は冬休み直前あたりの時期で、今はすでに夏休みだった。
 それでもあの世界のことが色褪せないのは、そこで過ごした時間が何よりもいとしく、そこで知り合った人たちの存在が眩しすぎるから。

 こんな本に書かれているような、遠い歴史にはできないほどの、鮮やかすぎる記憶。

 望美はふるりと頭を振った。
 だめだ、こんなことをいつまでも考えているから、区切りがつけられないのだ。目の前の現実から逃避していても、状況はなにも変わらない。

「……ちゃんと、読まなきゃ」

 彼らの生きざまを。
 自分が介在してきた流れの、本来の在りようを。

 

 

 意を決してページをめくり始めても、さすが歴史書と言うべきか、歴史上の重要な業績を成した人物に焦点が絞られており、望美が知っている彼らの直接的な記述は、それほどなかった。あれだけの人が死に、焼け出され、あるいは戦い命を落とし、苦しみ哀しんで、それでも名を残すのはたった一握りの者だけ。輝かしい結果を残せたものだけ。
 つまり戦乱の時代というのは、そういう非情なものなのだということか。
 だとしたら、あの人にはそんなの、最初から到底無理だったのだ、と望美は思う。

「───そうでしょ、九郎さん?」

 信じていた兄に切り捨てられ、そのまま首を差し出すとまで言った、源氏の若武者。それを説得して平泉へと逃げ延びたあとも、自分のせいで戦火を呼び込むことで、誰よりひどく自分を責めていた、優しすぎるひと。

 頼朝が九郎のことを切り捨てるかもしれない、ということは、望美には分かっていた。
 すべてを失い逆鱗を手に入れた、あの運命の中で。頼朝は九郎の再三の嘆願をことごとく撥ねつけ、最後まで決して会おうとはしなかった。会ったところでそのまま敗戦の責を問われて捕らえられる危険すらあったのではないか、と今になって望美は思う。
 ならば、自分が神子として時の流れに介入できるうちに、九郎と鎌倉との距離をはっきりと分かつ方がいいのではないかと考えた。九郎にとっては兄に裏切られ、望美の予想外のところでは景時までも敵に回すことになったが、それでも九郎ひとりが罠にはめられて死ぬよりはましだと思った。
 誰ひとり、欠けることなく生きていてほしいから。

「生きてればいい、か……」

 望美はふと、苦笑した。
 生きてさえいればいい、と願ったのは、確かに事実だった。もしも平泉での攻防で誰かひとりでも───景時も含めて───喪わねばならないのなら、望美は何をおいても逆鱗を握り締め、別の運命を探すつもりだった。
 けれど、戦は終わった。望美の知る仲間の誰ひとり、欠けることなく。白龍の神子としての自分ができることは、もうないのだと自然に悟った。

 その時になってようやく、この地を離れたくないという自分の心に気がついた。

 それは望美にとって、許せない感情だった。自分がいる限り、彼らは神子としての扱いをやめないだろう。だから必要がなくなればすぐに帰ろう、そう決めていたのに、どうして今更そんなことを考えるのかと自分自身にうろたえた。
 離れたくない。どうして、なんで。
 この地に、執着しているなにかがあるというのか。
 ここにあって、向こうにないもの。必死になって守り抜こうと誓ったもの。
 それは仲間だ。仲間の命だ。それはもう守り抜いた、みんな生きてる、死んでない。

 ───それ、だけ?

 そう自分に問いかけてみれば、躊躇なく応と言えない心に気づく。
 だからいっそがむしゃらに、ただの我侭だと決めつけて無視をした。唐突に帰ると言い出し、仲間たちが引き止めるのも振り切って、本来の世界へと戻ってきた。

「戻ってきてから気づくなんて、どうかしてるよね、私も」

 永遠に埋まらない距離を隔ててみれば、霧が晴れたように、自分の心を知った。
 あちらにいた頃は認められなかった。自覚してすらいなかった。口にしても絶対に届かないと分かっている状態になって初めて、その想いは形をもって望美の内に宿った。
 彼ひとりが犠牲になることを許せなかったのは。すべてが落ち着き、神子がもう要らないと知っても、なお離れがたく感じたのは。
 神子として仲間の命を救いたい、だけではなかったから。

 望美はそっとつぶやく。決して届かないと知りながら。

「───あなたのこと、好きでした、九郎さん」

 

 

 やり直したいと思うことは、その気になれば数え切れないほどある。
 けれどその力を使うことは、望美にとっては常に、あの炎の中ですべてを喪った時の記憶に繋がっている。それだけの重さ、それだけの力。
 ひとつひとつの運命の流れは、望美だけの意思と選択で成り立っている訳ではない。自分の心を満足させるためだけに流れを捻じ曲げることは、そこに至るまでの彼らの意思と選択を踏みにじることでもあった。命を救うために、と思えばこそ逆鱗に手を伸ばすこともしてきたが、本当はなるべくならその力を使うことはしたくなかった。

 あの世界で肌身離さず身につけていた白い鱗を、望美はいま、机の引き出しにしまい込んでいた。

「半年だよ、もう。……大丈夫、だよ」

 想い出にするための時間。
 あの世界での自分に、その想いに蓋をするための、時間。
 彼らの結末を知ることができれば、悲劇の芽を摘むことができたのだと確かめることができれば、きっとそれは安堵と充実感と、かけがえのない想い出になるはずだから。
 だから今日まで、歴史の流れと向き合うことを避けてきたのだ。

 ───恣意と衝動であの鱗を握り締めることの、ないように。

 

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**反転コメンツ**
十六夜の平泉帰還ED後を九望テイストで捏造、今回は神子視点。神子もうだうだ悩んでます。
しかし今回は手こずった…何しろ神子には最終兵器・逆鱗があるから、それを使わせずに話を進めなきゃならんので。
ゲームでは簡単に時空跳躍してるけど、本当はそれって、剣を取って戦うことよりすごく怖いことだと思います。
気に入らないからやり直し、失敗したからもう一回。傲慢すぎる、まさに神の視点での力だ。