愛別離苦・序

 

 ありふれた幸せ。ありふれていると、思っていた、幸せ。
 この手から失くしてみて初めて、それが得がたいものだったと知る。

 

 

 奥州を巡る季節は、ぬくもりよりも寒さのほうが長い。旅に適した時節を選ぼうとすれば、それなりに気を遣わねばならない土地だった。

「……九郎殿、弁慶殿。どうかお元気で」

 紅葉が美しく色づいた、平泉の地。
 高館前で一礼したのは朔だった。もともと華美な出で立ちを好まない彼女だが、この日はそれが一層強まり、一見すれば里女とも取れるような質素な旅装をしていた。
 朔が名を呼んだ二名は、それぞれに頷いた。旅立つひとを見送るのは館を預かる者の務め、さらにこの少女は、彼らの大事な───大事だった親友の、大切な妹だった。

 別れを惜しむ言葉を告げることはできるが、それは詮無いこと。
 だから、口に出すのは、ありきたりな言葉だけ。

「道中気をつけてくれ」

「君もお元気で、朔殿」

 朔は何も言わず……何も言えず、さらに深く頭を下げた。
 しばらくそうしていた後に、すいと居住まいを正す。それは、さすが武家の姫と賞するべき落ち着いた所作だった。ゆっくりと背を向け、決して振り返らずに、道を進んでいく。
 互いにこれ以上の言葉を持たず、引き止める理由もない。
 ならば、それ以上に別れを惜しむことは、ぐずぐずと女々しいだけの行為だった。

「───これで少しは安心できるでしょう」

「……そうだな」

 誰が、とわざわざ断る必要はない。
 彼女の兄は、多少驚いて、それでも温かく彼女を迎え入れるだろう。彼女もまた、兄の行いを詰りたい気持ちをこの地で時間をかけて鎮め、家族の情愛を受け入れるだろう。

 それでいいのだ。
 失ったように見えても、諦めなければやり直せることは、この世に溢れている。

「寂しくなりましたね」

 弁慶の声に、九郎は少しだけ逡巡し、やがて頷いた。

 

 

 鎌倉との戦が終わり、最初の春が訪れたとき。
 異世界からやって来たという風変わりな神子と二人の八葉は、龍神の導きによって故郷へと帰っていった。帰る場所があり、家族があり、友がいるのだから、彼らがそこへ帰っていくのは当然のことだった。

『みんな、今までありがとう。元気でね』

 そんな言葉だけを残して、神子は気まぐれな春風のように消えていった。
 あまりのあっけなさに、今までの出来事がすべて夢だったのではないかとふと思い、九郎は周囲を見渡した。けれどその場所は飽くまでも無量光院であり、京で名代を務めていた頃の平等院ではなかった。

『じゃ、オレも帰るよ』

 神子を見送りにきただけだ、と公言していたヒノエは、宣言どおりにさっさと熊野へ戻っていった。攫っていこうか、とも軽口を叩いていたのは、少しばかり本気の口調が混じっていたように、弁慶には聞こえた。

『力が満ちるよ───天からみなを見守り続ける……』

 異界への道が完全に閉じたとき、白龍はそう告げた。その身がまばゆく輝いた刹那、白く光る鱗のつらなりをきらめかせ、神は在るべき場所に還っていった。

『五行が巡り始めたのだな。……ならば私の役目も終わったのだろう』

 敦盛が静かに呟いた。その時にはその言葉の意味は分からなかったが、数日後、彼はいずことも知れずに姿を消した。残された書置きには、にわかに信じがたい事情が綴ってあったが、彼が偽りをかたるような者ではないことはよく知っていた。だからきっと、その書面にある通りなのだろう。

『集い、為し、終えた。流れは正された』

 リズヴァーンがそう言った時、九郎は一瞬だけ、師を引き止めたい思いにかられた。けれどそうとは言えず、また口にしたところで、聞き入れられるとも思わなかった。黙って下げた九郎の頭に、大きな掌が乗る。その感触に驚いてがばりと顔を上げた時、すでに師の姿はどこにもなかった。

 望美たちを見送り、高館に帰れば帰ったで、泰衡の姿が見えないと大騒ぎになっていた。程なくして事切れた彼のむくろを見つけたという知らせが入り、泡を食って駆けつけてみれば、無愛想で辛辣で、それでも行くあてのない九郎を受け入れてくれた旧知の男は、どこか安らかな表情を浮かべたまま、永遠の眠りについていた。
 秀衡も泰衡も亡い平泉を誰が率いていくかで、九郎と奥州はさんざんに揉めた。泰衡はもともと次男、であれば長男の国衡が息災である以上、彼こそが棟梁であると九郎は思っていた。しかし国衡をはじめ奥州の武士たちは、『御館のご遺志は御曹司にこそ』と主張して譲らず、事あるごとに九郎に家督を継ぐよう説いた。弁慶の『今すぐに動いては、鎌倉に再攻の口実を与えるでしょう。まだしばらくは時間が必要です』という巧言のおかげで、ようやく現在は小康状態といったところだった。

 そして秋深まる今日、最後の仲間であった朔を家族の元へ送り出し、九郎の周囲には、あの神子を思わせるものは何ひとつ無くなっていた。

「寂しい、か。……そう言われれば、そうなのかもしれないな」

 いつでも、望美がそばにいた。彼女によってもたらされた仲間たちが、そばにいた。
 だから、いつの間にか勘違いをしていたのだ。自分には仲間がいるのだと。

 ───彼女がいなくなれば、これほど簡単に潰える絆と、知っていたはずなのに。

 いつの間にか慣れていた。一人ではないという幸せに。
 それがどんなに得がたいものか、知っていたはずなのに、忘れてしまっていた。
 だから、寂しいなどと、自分には言う資格はないのだろう。

「だが、これで、いいんだ」

 もう小さくなった朔の後姿を見やって、九郎は踵を返した。
 強がりでしかないとは自分でも承知していたが、それ以外の言い方が分からなかった。

 

 

 諦めさえしなければ、やり直せることは、この世の中には意外と多い。それは事実だ。
 けれどそれと同時に、どうやっても取り返しのつかないこともあるのだと───九郎が身にしみて思い知ったのは、ここ半年ほどのことだった。

 望美がいない。
 この世界の果てまで駆け巡って探しても、望美は絶対にいない。

 分かっているのに、分かっていたはずなのに、身の内に巣食った喪失感は、時を経て埋まるどころかますます大きくなる。
 己の女々しさを呪ってみても、感情まではままにならない。それほどに、欠けてしまった望美の存在は九郎の心の、ひどくやわらかい場所に息づいていた。いっそあの春の日に戻れるのなら、帰るなと言うこともできただろうに。矜持も何もかも振り捨てて、それでも手放したくはないのだと、縋ることができたはずなのに。

『君は本当に鈍い人ですね』

 弁慶の言うことは、癪に障るが本当のことだった、と九郎は思う。
 自分の心に気づいていなかったから、あの時、形振り構わず望美の手を掴まなかった。
 気づいた今は、あの時以上に、もはや打つ手はなかった。

 ───彼女はいないのだから。

 居室の濡れ縁に座って独り酒を重ねながら、九郎は夜空を見上げた。
 彼女の名前を持つ月を、せめて瞳に映していたくて。

「……お前を、抱きしめたいと思ったら」

 散る、紅葉。それを包む月光。共に眺めたのはひとつ前の同じ季節。
 手を伸ばせば簡単に引き寄せられる、そんな距離で。躊躇いと羞恥が先にたち、今すぐに考える必要もないのだと思っていた、救いようもなく愚かで幸福だった、あの頃。

「───お前が、いなかった」

 伝えたいことが、ある。
 伝えられなかったことが、山のようにあるんだ。
 今この瞬間に一目なりと、お前とまみえることができたなら。

 言えなかった想いを、せめて伝えることができたなら。

「馬鹿者だな、俺は……」

 瞳を閉じて呟き、杯を傾けた。
 喉の奥を灼いていく液体は、ひどく苦い味がした。

 

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**反転コメンツ**
十六夜の平泉帰還ED後を九望テイストで捏造。ま…まだ少し続きますコレ、すいません(爆)。
無印帰還と十六夜帰還を比較すると、鎌倉と決別が済んでる分、九郎にとっては十六夜の方が身の安全にはいいと思う。
神子がいなければ、あの集団はあっさり瓦解するんだよな、ということも、少し書いてみたかったんです。
次は神子視点の話になる予定〜。最後はハッピーエンドです、はい。