みよしの

 

 水を汲んで戻ってきた望美が見たものは、弁慶の向こう側で不意に上体を折る九郎の姿だった。

「く、九郎さんっ!? 弁慶さん、何を……」

 泡を食って駆けつけた少女に、振り向いた弁慶の笑顔は常より疲れた印象を与えた。理由は分からないながらも九郎のもとに迷いなく寄り添ったその姿に、ほんの少しだけ、弁慶のまなじりが柔らかさを増す。

 ほら、九郎。
 君が君を見限ろうとしても、それを許さないひとが、ちゃんと居ます。

「───ああ、望美さん。できれば君には、こんなところを見られたくはなかったのに」

「そうじゃなくてっ……どうして、いきなり九郎さんを殴るなんて」

 九郎は未だに鳩尾をかばって膝をついている。かろうじて呻き声こそ堪えているものの、衝撃から立ち直れていないところを見ると、手加減なしの拳を見舞われたらしい。
 望美は思わず非難の視線を向けたが、弁慶はにこりと微笑んだだけだった。

「訳ならその馬鹿者に訊いてください」

 では僕はこれで、と背を向けた弁慶を、望美は困ったように見送った。信頼している仲間だとは言え、弁慶の胸中を読みきれるような者はそうはいない。
 ともかく九郎の安否を確かめるのが先だ、と、望美は自分もその場に膝をついた。
 下を向いたままの九郎を、そっと覗き込む。

「……九郎、さん? 大丈夫……?」

「───ああ、少々きつかったが……。あいつ、手加減なしだったな」

 ようやく顔を上げた九郎にほっとする。それと同時に、互いの顔の近さに気づいた。

 望美の目の前に、九郎の顔があった。
 太陽に明るく透ける、鳶色の髪。それと揃いの色をした琥珀の瞳は、男性にしてはやや大きい。意思の強さを示す眉は、すらりとした鼻梁へまとまり、喜怒哀楽の明瞭さを豊かに伝えている。自分よりも年上なのを強く感じさせる表情をするかと思えば、まるで屈託のない少年のような笑みを見せることもある、そのひと。

 九郎の目の前に、望美の顔があった。
 細く柔らかく長い髪が、ゆるやかに自分の鼻先で揺れている。澄んだ光を湛えた翡翠の瞳はどこまでも深い色で、髪と同じく濃い藤色の睫毛でふちどられ、微かな空気の流れにさえ、ふるふると震えていた。しろい肌からふと薫る、甘さ。ひとたび戦に立てばどこまでも凛々しく、なのにどこまでも可憐な佇まいの、そのひと。

「…………」

 まじまじと見つめ合って、ふと我に返った。ばっと顔を背けた九郎の仕草に、望美も忘れていた羞恥心を思い起こして俯く。

「さ、朔殿と、水を汲みに行ったんじゃなかったのか?」

「あ……えと、そうなんですけど、九郎さんのことが気になって」

 言いながら望美は、あれ、と違和感を覚えた。
 水を汲みに行っていた。気になるから、と朔より先に戻った際にも、自分の水桶は持っていたはず。言葉を交わす九郎と弁慶を見つけ、声をかけようとした矢先の騒ぎに、すっかり忘れてしまっていたけれど。
 今、自分の手は、空っぽだ。

「───あ! ぶちまけちゃってる……」

 慌てすぎて無意識だったのだろう。駆け寄る折に放り出してしまったらしく、水桶は横倒しになって、当然ながら中身はすべてこぼれてしまっていた。あまりに彼女らしい顛末に、事態の深刻さを一瞬忘れて、九郎は噴出す。

「……ははっ、お前らしいな」

「もう、ひどい! 九郎さんの心配したせいなんですから、笑わないでくださいよ」

 済まない、と言いながらも、九郎はしばらく笑っていた。
 まだ自分が笑えるなんて、思ってもみなかったのに。それをもたらしてくれる望美の存在が嬉しく、同時にだからこそ巻き込めない、とも思う。
 この首ひとつで彼女を救えるのなら、それも悪くない、と思う心は真実だった。
 離れたくはない、と願う想いもまた、真実だったけれど。

 

 

「私は巻き込まれたなんて、考えてません!」

 そう口にする望美の頑固さを、九郎は考慮しきれていなかった。離れたほうが彼女のためだとは知っていたが、もとより自分とてそれを望んでいる訳では決してない。
 見つめてくる真っ直ぐな瞳を見つめ返せない。

「……望美、頼むから、聞き分けてくれ」

「いや。私は私の意志で、九郎さんと一緒に行くって決めたの」

 伸び上がった望美の瞳が、九郎を覗き込んだ。
 澄んだ、優しい、ひかり。

 ───流されて、しまう。手放せなく、なってしまう。

 九郎の腕が、望美の小づくりな頭をぐいと引き寄せた。視界が九郎の着物一色に染まった望美はもがいたけれど、男の力に敵う訳もなく、耳元でその声を聞いた。
 告白と呼ぶにはあまりに痛ましく、懺悔と呼ぶにはあまりに甘い、その声を。

「……お前はどうして、俺の願いを言い当ててしまうんだ……」

 その甘さが望美をうろたえさせ、少し距離をとろうとたたらを踏んだ爪先が、鈍い苦痛を訴えた。その痛みに、歩きどおしで足の爪が割れかけていたことを、ようやく思い出した。

「───つっ……」

「望美?」

「あ、なんでもないです! ちょっと、石でも踏んだのかなって」

 朔か弁慶にこっそり看てもらおうと思っていたのに、すっかり忘れていた。望美は慌てて、怪訝な顔の九郎を誤魔化そうとしたが、こういう時に限って妙にさといのが、この朴念仁の変わったところだった。

「ならば座れ。少し、見せてみろ」

「えっ!?」

 ますます慌てる望美に、九郎はすぅと瞳を眇める。
 こういう瞬間に見せる九郎の迫力は、望美には到底逆らえない。

「───望美」

「う……は、はい……」

 渋々、促されて座る。ピンクのスニーカーを脱ぐと、症状は望美が思っていたよりも悪化しており、紺色の靴下の上からも血が滲んでいるのが分かった。
 あちゃあ、という顔の望美に対して、九郎は血相を変えた。

「───っ! お前っ、この足……!!」

「さ、さっき朔に看てもらうつもりだったんですよ! 今朝はこんなに酷くなかったし!」

「そういう問題じゃないだろ!!」

 怒鳴ってから、九郎は己に怒りを覚える。
 無理な落ちる旅路で要らぬ傷を負わせた。気づいてやれなかった。挙句に怒鳴るなど、自分にそんな資格があるはずもないのに。

 なにか、してやりたかった。
 自分にできることを、何か、少しだけでも。
 そこにいるだけで自分にさえ希望を与えてくれる、この小さな少女に。

「水は……ああ、零してしまっていたか」

 九郎は少し思案すると、おもむろに望美の足に手を伸ばした。
 するりと紺の布地を取り払い、露わになったその爪先に、唇を寄せる。

「く───九郎さんッ!?」

 望美の仰天して制止する声も、耳に入らなかった。
 割れた爪を口に含み、舌でゆっくりと、固まった血を溶かす。自分の所為で負った傷を、少しでも癒す手助けをしたかった。傍から見ればとんでもない誤解を受ける行動だったが、その時の九郎には、気にならなかった。
 掌で包めるほどの細い足首。指もなにもかもが小さく、そして白かった。

 ───誰にも触れさせたくはない、と思うその理由は、いまだ知らない。

 

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**反転コメンツ**
十六夜の蜜月イベント2がらみでちょっと甘く…のつもりがやたら変態じみた内容になってしまった(爆笑)。
平泉ルートは基本的にシナリオがえらく重いので、切ないモード好きな自分には萌えの宝庫。
実は九郎はけっこうマイナス思考のようなので、一人で放っとくとどこまでもグルグル考えてヘコむ奴だと思う。
神子がいなかったらさっさと鎌倉に首を差し出してたんだろうな、と考えると切ないなぁ。