風の歌 雲の果て

 

 ねえ、笑って。
 その笑顔がそばに在れば、いつだって世界は光に包まれる。

 

 

 この大地の風は澄んでいる。
 それは吹き抜けてゆく場所が広いせいかもしれないし、それとも揺れる草の音がやわらかい響きだからかもしれないし、それとも聞いている自分の心持ちが、今までとは違うからなのかもしれない。
 見上げれば、雲がはやい。
 雲といえば自分の知っていたものは、今にも雨を落としそうなほどに暗くたれこめたものだったり、紗のごとくうすくたなびく繊細な風情であったりで、こんなにも力強く次々と湧き上がっては流れてゆく雲もあるのだなんて、初めて見た。

 九郎はひとり、頬をゆるめる。
 ここは彼女がひどく気に入ったらしい場所で、喧嘩して飛び出した際、ちょっと出かけてくると言い置いた際、たいていはここで捕まえることができた。ちょっとした草花がぽつぽつと群生しているだけの、何の変哲もない草原をどうしてそれほど気に入るのか、望美は笑って明かそうとはしなかった。

 いま少女は彼の隣にいない。

『九郎さん』

 迎えにきた自分を見つけてほころぶ、あの笑顔。
 それがないのはとても残念なことだと思うけれど、ならば代わりに思う存分、彼女のことを考えて過ごそう。いつだって考えていない訳じゃないのに、場所を変えるだけで、浮かぶ面影はいっそう新たな色合いをまとってかがやく。

『九郎さんねえ見て、鳥があんなに渡っていきますよ』

『わあ九郎さん、私知らなかった、草ってこんなに甘い匂いがするんですね』

『もうずいぶん冷えますね……九郎さんは寒くない?』

 きらきらこぼれる、彼女の声。それはどんな名器にも勝る、極上の音色。
 その声で呼ばれる自分の名前が、まるで世界で一番大切だというように、望美は嬉しげな響きを隠さない。それが面映く、何よりいとしい。

 彼女には支えてもらってばかりで、与えてもらってばかりで。そんな己の不甲斐無さに憤り、手を伸ばすことを躊躇っていた日々。俺はお前に何ひとつ与えてやれないと、言ったのに、九郎さんという存在だけでいいんです、と返した涙声。

『お前は分かっていない、与えるものひとつ持たないことを、男がどれほど恥じ入るか』

『九郎さんこそ分かってない、女はものが欲しいんじゃない、好きな人の心だけでいいの』

 濡れた瞳に見つめられて。

『私を嫌いなら、突き放して。でも、そうじゃないなら、そばにいさせて』

 ───かき抱く以外、いったい何ができただろう。

 心だけでいいとお前は言った。俺の心だけでいいのだと。
 そんなものは、とっくの昔にすべてお前に明け渡してあるんだと、気づいていないのか。
 だから、せめて。
 このちっぽけな両手で、お前にできることを何でもしてやりたい。

 

 

「あ、お帰りなさい、九郎さん」

 テントの脇から馬の気配を感じ、望美は入り口の布をひょっこりと押し上げた。

「ああ、ただいま」

 振り向いて九郎が笑う。その顔を見るだけで、しあわせだ、という思いにひたされる。

「ほら」

「? ……あ、これ」

 手渡された小さな花は、望美のお気に入りの場所に咲いているもので。
 今はそこへ行けない自分の代わりに採ってきてくれたのだ、と気づくだけで、心は際限なく、あたたかいぬくもりに包まれる。
 だってそもそも、その場所によく足を向けるのは、仕方ないなと笑って迎えにきてくれる彼の存在を独り占めしたいから。

「お前も、ただいま」

 九郎はふわりと望美の身体を引き寄せ、腹部に耳を押し当てた。

「変わりはなかったか?」

「うん、大丈夫。今は落ち着いてる時期だって言われてるから」

 家族がずっと、欲しかった。自分を愛して、必要としてくれる家族が。
 手に入れることはできないと諦めていたそれすら、彼女はこうして与えてくれる。

「またそう言って無茶していないだろうな。お前の"大丈夫"は信用ならん」

「だから大丈夫だってば……もう、九郎さんが心配しすぎなんです」

 この若夫婦の口論は、睦言の代わり。
 今までもそうだったし、これからも、きっとそう。
 だって、ほら。
 触れあう手が、向ける眼差しが、こんなに素直に甘いぬくもりを含んでいる。

「お前に似た娘なら、躾が難儀だろうな」

「ひどい、九郎さんみたいな頑固な男の子だったら、私こそ面倒見るの大変です」

 自分のちっぽけな両手でできることは、とても限られているけれど。
 自分をこんなにも幸せにしてくれる存在のためなら、何でもしてあげたいから。
 だから、愛しいひと。まだ見ぬ命。

「───俺は、幸せだ」

 大きな瞳を覗き込めば、澄んだ光が九郎を見つめ返した。
 そこに浮かぶ微笑みだけで、想うこころがあふれて止まらなくなる。

「お前もそうならば、もっと幸せだ」

 

 

 ねえ、笑って。
 つらかったこと、哀しかったこと、忘れてなんて言わないけど。
 いま嬉しいと思ってくれているなら、笑っていて。
 その顔を見るだけで、いつだって自分は世界一しあわせだと、そう実感できるから。

 だからあなたの笑顔をください、いとしいひと。

 

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**反転コメンツ**
十六夜ED後のモンゴル高原日常。短文なりに「幸せ」って気持ちを詰め込…めてればいいな。
つーかなんでほぼ全員モンゴルくんだりまでついて来てんのさ(大爆笑)!! 九望だけだと速攻で野垂れ死にしそうだからか?
医者、ナース、おさんどん、サバイバル専門家(還内府&鞍馬師匠)。ん〜敦盛と銀の存在価値はどのへんに。
まあアテられ続けてイヤになったら、ヒノエの交易船経由で帰国するって手もありだろうか。