| 鬼が来る。 その言の葉を耳にするだけで、京の都は大内裏から民草に至るまで、顔色をなくして震え上がる。 抜き難く植え付けられた偏見と、それを立証するかのごとき暴虐な行い。 鬼の脅威に対して、京は。 なす術もなく、翻弄され尽くしていた。
「鬼は、人の手で打ち滅ぼさねばならぬ」 道長は難しい顔で盃を干した。華やかな酒宴とはかけ離れた、紙燭すら灯さぬ対屋の中で、客人を迎えた非公式の談合は続いている。 「それがよろしかろうと存じまする」 さして感銘を受けた風でもなく、さらりと受け流す客人の容貌は、一見するとただの老爺。だがそこに秘められた眼光は、恐ろしい程に闇を見通す力を持っていた。 「ついては晴明殿。よき日を占い、帝に奏上なされよ」 老爺───安倍晴明の眼光が、底光りを増した。 「星の姫御のあるじは?」 道長は深く嘆息する。それこそが最も確実な手段なのは、とうに判っていることだ。 「……まだ、だ。龍神は未だ、我らには答えなさらぬ」 まだ、彼の娘には何の変調も現れていない。 「我ら自身の力で切り抜けることを、龍神はお望みであらせられる」 盃を持つ道長の手に、不意にぐっと力がこもった。 「なに、恐るるには足らぬ。我らには龍神の加護があり、四神の加護があり、天意を受けし帝のご意志もある」 その言葉だけが妙に上滑りしているのは、どちらにも等しく伝わっていた。 「……負ける訳には、ゆかぬのだ」 「その通りでございますな」 道長の裂帛の気合を軽く笑っていなし、晴明はすっと立ち上がった。音もなきその仕種は、とても八十路を超えた者とも思われぬ。妖かしより生まれ出づる御身、とまことしやかに噂されるのも、決して故なきことではない。 「左府、お焦りなさいますな。できることから始めましょうぞ」
「大江山の鬼を打ち滅ぼさねばならぬ」 朝議の席でそう告げる道長の声は重く、聞く者の肚(はら)にずしりと響き渡った。 「我関せず」と高みの態度を崩さなかった貴族たちは、心胆寒からしめられて慌てふためき、娘を護ろうと必死に警護を増やした。この時代、息子よりも娘の方が、父親の権力を得る道具として役立ったからである。 すなわち、酒呑童子そのものを、武力でもって征伐するのみである。 「帝に進言いたす。列座の皆々、異議はあろうや?」 廟堂の最高権力者である左大臣───左府である道長に反対できる者など、この場には居ない。仮に居たとしても、鬼に対する恐怖と怨念はすさまじい貴族たちである。
「……では、誰を召せばよいとそなたは考えるか?」 一条帝は年若い面立ちに苦渋の色を浮かべて、愛する中宮彰子の父である道長を見る。 「この京において鬼を打ち払えるのは、検非違使や近衛府ではありませぬ」 彼らには「この大内裏を護る」という、唯一にして最重要の使命がある。内裏をがら空きにする訳にはいかないのだ。 「とすると、残るは源氏か、それとも平氏……」 「源氏がよろしかろうと」 道長の声ははっきりとしていた。別段どちらでも構わないのだが、地理的条件がある。 「源頼光をお召しになってはいかがでありましょう」 自宅を警護する武士団の頭領の名を、道長は挙げた。 「必ずや鬼を討ち取り、帝の御威光を示すことでございましょうぞ」 「うむ……」 一条帝の扇がぱちりと鳴る。 『源頼光に命じる。汝が力により、大江山の酒呑童子を成敗せよ』
了 |