嚆矢 〜酒呑童子〜  2 3 4 5 6 7 8

 

 鬼が来る。
 その言の葉を耳にするだけで、京の都は大内裏から民草に至るまで、顔色をなくして震え上がる。
 抜き難く植え付けられた偏見と、それを立証するかのごとき暴虐な行い。
 鬼の脅威に対して、京は。
 なす術もなく、翻弄され尽くしていた。

 

 

「鬼は、人の手で打ち滅ぼさねばならぬ」

 道長は難しい顔で盃を干した。華やかな酒宴とはかけ離れた、紙燭すら灯さぬ対屋の中で、客人を迎えた非公式の談合は続いている。

「それがよろしかろうと存じまする」

 さして感銘を受けた風でもなく、さらりと受け流す客人の容貌は、一見するとただの老爺。だがそこに秘められた眼光は、恐ろしい程に闇を見通す力を持っていた。

「ついては晴明殿。よき日を占い、帝に奏上なされよ」

 老爺───安倍晴明の眼光が、底光りを増した。

「星の姫御のあるじは?」

 道長は深く嘆息する。それこそが最も確実な手段なのは、とうに判っていることだ。
 だが。

「……まだ、だ。龍神は未だ、我らには答えなさらぬ」

 まだ、彼の娘には何の変調も現れていない。
 その所持する八つの宝珠にも。

「我ら自身の力で切り抜けることを、龍神はお望みであらせられる」

 盃を持つ道長の手に、不意にぐっと力がこもった。

「なに、恐るるには足らぬ。我らには龍神の加護があり、四神の加護があり、天意を受けし帝のご意志もある」

 その言葉だけが妙に上滑りしているのは、どちらにも等しく伝わっていた。
 だが、それでも。

「……負ける訳には、ゆかぬのだ」

「その通りでございますな」

 道長の裂帛の気合を軽く笑っていなし、晴明はすっと立ち上がった。音もなきその仕種は、とても八十路を超えた者とも思われぬ。妖かしより生まれ出づる御身、とまことしやかに噂されるのも、決して故なきことではない。

「左府、お焦りなさいますな。できることから始めましょうぞ」

 

 

「大江山の鬼を打ち滅ぼさねばならぬ」

 朝議の席でそう告げる道長の声は重く、聞く者の肚(はら)にずしりと響き渡った。
 事態が切迫しているのは、誰の目にも明白である。
 丹波の国の大江山に酒呑童子なる鬼の一族が陣取り、辺りの民を手当たり次第に攫っていくのだ。
 それだけなら、朝廷は決して動くまい。だが日を追うにつれて、京の都にまで鬼の魔手が及び始めたのである。それも普通の民草ではなく、えり好んだ貴族の姫君ばかりを。

 「我関せず」と高みの態度を崩さなかった貴族たちは、心胆寒からしめられて慌てふためき、娘を護ろうと必死に警護を増やした。この時代、息子よりも娘の方が、父親の権力を得る道具として役立ったからである。
 だが、それとても鬼には通用しなかった。神出鬼没とはまさに言葉通りで、鬼に襲われた屋敷は警護の武士の血溜まりで池ができる、と言われるほどである。
 かくなる上は、そもそもの禍根を断つしかない。

 すなわち、酒呑童子そのものを、武力でもって征伐するのみである。

「帝に進言いたす。列座の皆々、異議はあろうや?」

 廟堂の最高権力者である左大臣───左府である道長に反対できる者など、この場には居ない。仮に居たとしても、鬼に対する恐怖と怨念はすさまじい貴族たちである。
 否やのあろうはずがなかった。

 

 

「……では、誰を召せばよいとそなたは考えるか?」

 一条帝は年若い面立ちに苦渋の色を浮かべて、愛する中宮彰子の父である道長を見る。

「この京において鬼を打ち払えるのは、検非違使や近衛府ではありませぬ」

 彼らには「この大内裏を護る」という、唯一にして最重要の使命がある。内裏をがら空きにする訳にはいかないのだ。

「とすると、残るは源氏か、それとも平氏……」

「源氏がよろしかろうと」

 道長の声ははっきりとしていた。別段どちらでも構わないのだが、地理的条件がある。
 左京北辺に甍(いらか)を連ね、土御門の自邸の警護を任せている源氏武者を招集するのは、ほんの一瞬で済む。対して平家武者が居住するのは、西八条である。今はほんの僅かな時間も惜しい。
 それに道長には計算もあった。
 平家に比べて源氏は、彼ら藤原北家に真からの忠誠を誓っている訳ではない。ここで手柄を与える機会をくれてやれば、それも少しは和らぐかも知れぬ。

「源頼光をお召しになってはいかがでありましょう」

 自宅を警護する武士団の頭領の名を、道長は挙げた。

「必ずや鬼を討ち取り、帝の御威光を示すことでございましょうぞ」

「うむ……」

 一条帝の扇がぱちりと鳴る。
 その瞬間、勅命は下った。

『源頼光に命じる。汝が力により、大江山の酒呑童子を成敗せよ』

 

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