龍乙女 〜たつをとめ〜
| 「……来ると思っていた」 夕闇に沈んだ蚕の社で、池を背後に黒髪の少女はそう呟いた。 「ラン……。あなたが呼んだんじゃ、ないの?」 首を傾げたあかねに、ランはどことなく戸惑った表情を浮かべ、次いで微笑んだ。 「判っていないのか。そうか……」 くるりと池を振り返り、ランはゆっくりと首を振った。 「……お館様にまた術を施された。頭がぼんやりする。以前のことが何も判らない」 ランの独白を、あかねは黙って聞いていた。
「今は───冷たい何かで身体がいっぱいだ。目の前の、お前の声ですら遠い」 すとん、と細い姿が池のほとりにしゃがみ込む。不意に声が震えた。 「なのに、お前に逢いたかった。何故だろう。お館様は殺せと言うのに……」 あかねはゆっくりと近寄り、水面に映るランの顔を───そして己の顔を覗き込んだ。 「……泣いてる、の?」 「……判らない」 水面越しの会話は、ゆらゆらと揺れる水鏡によって互いの表情を伝え合う。 「嘘。泣いてるよ、あなた。あなたの涙が落ちたんだもの」 「……お前も、泣いている」 頬を伝う熱いものの存在に、あかねはようやく気づいた。 「哀しい、の?」 「……判らない」 「……苦しい、の?」 「…………。わから、ない……」 ふわり、と。 「判らなくてもいい。ラン、あなたが泣いてると、私も辛いよ……」 「……お前の身体はあたたかい。私はこんなに冷たいのに」 ぽつり。 ゆらゆらと、水鏡は静まらずに波紋を増やす。ふたりの少女は静かに泣き続けた。
水面の揺れが変じたのに気づいたのは、同時だった。 「……!?」 湧き上がる光。 ───龍神様……。 ……シャン。 あかねの心に呼応するかの様に、あの鈴の音が響く。 「鈴の音がしたね」 万感の想いをこめてあかねは口にする。きっとランにも聞こえていることを確信しながら。 「した」 それに答えるランの声も、とつとつとした中に精一杯の感情がこめられている。 「どうして聞こえるの?」 「判らない。───行かなければ」 すっと立ち上がったランの顔には、もう無機質な表情が広がっていた。 「行かないでよ、ラン! 一緒においでよ、帰らなくてもいい!」 あかねの必死の呼びかけに、涙を浮かべたままの微かな笑顔を向けた。 「ありがとう、神子。でも……」 口の中で何かを小さく呟いて、鬼の少女の姿はその場からかき消えた。最早さやとも音を立てぬその場に残されたのは、鬼を滅せんとする立場の神子だけ。 「ラン……」 何も知らなくても、本能的にあかねは感じ取っていた。 「……龍神様。ランを助けることは、私にはできないの?」 『駄目だ、やはり違う。お前には光と闇があり、私には闇しかない』 いつぞやの一条戻り橋での言葉が甦る。ランは苦しんでいる。あんなにも自分に救いを求めているのに。 ───彼女を助けたい。その為に、自分にできることをしよう。 白龍の神子はじっと水面へ向けて祈った。黒龍の神子の為に。
了 |