墓標 〜死者の語らい

 

「……今一歩、及ばぬな」

 無表情に呟く皇帝が右手に下げた長剣からは、鮮血が雫となって床につたい落ちている。
 その血の持ち主に向けて、金銀妖眼が僅かに揺れる。

 倒れ伏した天使に向けて。

 

 

 致命傷を与えられなくとも、失血死が彼女を待ち構えていた。
 もう癒しの術を唱える気力もなく、目の前がぼんやりと霞む。

 ───ごめんなさい。

 今まで自分と行動を共にしてきてくれた、高貴なる方々も。
 いつもの様に自分を護る為にその身を投げ出し、

 ……そして散った。

 ───ごめんなさい。

 倒れている若葉の女王と蒼の補佐官の波動も、弱々しくなっているのが伝わってきて。

 ───ごめんなさい……。

 何より、目の前のこの人を救う力が自分にはなかったのだと、思い知らされて。

「……レヴィ……ス……」

 精一杯唇を動かそうとしても、もうそれだけの力すら、天使には残されていなかった。

 ただ、哀しかった。
 誰ひとり救うこともできずに、自分はここで消えてしまうのだ。
 せめて、救いたかったのに。

 あなたの魂を、救いたかったのに……!

 翡翠の双眸がふっと陰る。視界が一層暗くなる。
 最期か、と新宇宙の女王は覚悟を決めた。

「…………っ」

 何とか起こしていた上半身も、支える腕の力が抜けてぐらりと傾ぐ。

 ───……ごめんなさい……。

 誰に向けて謝っているのか自分でも判らないままに、天使は眼前に迫った死の影を静かに見つめていた。
 怖くはなかった。
 ただ、哀しかった。

 

 

 とさり、と。

 何かが支えられる音が、酷く遠くから響く。まだ手放していない意識の底で、天使はやっとそれだけを認識した。

「……?」

 もう天使から視力は奪われていて。
 どうせ役立たずなら閉じてしまおう、と瞳を閉ざした。

「……アンジェリーク」

 遠くから名前を呼ばれる。

 ───誰?

 ───そんな風に、私の名前をあたたかい気持ちを込めて呼んでくれるのは、誰?

 もう、その方々は、居なくなってしまったのに……。
 死によって。……或いは、予め定められた意志の力によって。

 何かに抱きしめられている。かろうじてそれだけは判る。

「アンジェリーク……」

 ふと、呼吸を奪われた。
 荒い息は酸素を求めているのに、その何かは貪る様に吐息を奪い続けている。
 力の抜け落ちた指先は、息苦しさから触れている布地に皺を寄せる程度には、力を取り戻した。

 生暖かいものが、口腔を這い回っている。
 唾液を嚥下する力もなく、唇の端から顎へ、喉へ、伝っていくのだけがやけにリアルで。

 ───……誰……?

 慈愛の天使が考えることができたのは、そこまでだった。

 ───…………

『さようなら。ごめんなさい、レヴィアス』

 天使が遺した最期の想いは、遠い昔の少女の言葉によく似ていた。

 

 

 マントを掴んでいた指先から、力が抜ける。だらりと投げ出された腕は、もう生ある者を象徴するものではない。
 それを眺める皇帝の瞳に、不意に脅えの色が宿る。
 今までその眼光に決して含まれることのなかった狼狽。それが今、その全身に急速に拡大していく。

「死んだのか」

 全身にあちこち切り傷はあっても、少女の白い顔だけは、血に汚れてはいなかった。

「死んでしまったのか?  アンジェリーク」

 その頬に手を当てて呟く。嘘だ、まだこんなにあたたかいではないか。

「嘘だろう?」

 堪えきれず、再び小さな唇を奪う。もう応えることのない、最愛の死者へ。

「嘘だ」

 天使が死んで、罪深い自分が生き残るなど。そんな訳がない。

「嘘だ」

 狂気のままに切り傷から流れ出す血に唇を寄せ、それを拭い始めた。

「嘘だ!」

 華奢な身体なのに、数え切れない程の無数の傷痕が刻まれていた。その内の大部分は自分がつけたのだと、それは判っていたくせに。

 何者にも穢されぬ、純白の肌。
 それが血に汚れているなど、天使には相応しくない。

「嘘だろう、アンジェリーク」

 恥じらいの強い天使のこと、こうして触れられていれば、きっと意識を取り戻すはずだ。
 そしてその白い頬を羞恥に染めて、甘い声を上げてくれるはずだ……。
 血で汚れた肢体を、丹念に唇で清めていく。触れずにおく場所など何処にもないとでも言いたげに。

「目を覚ませ」

 お前も我を置いて逝くのか。

「目を覚ましてくれ!」

 お前も……お前も、我の手の届かぬ場所へ、たったひとりで逝ってしまうのか!

「アンジェリークッ!!」

 自らが手を下したのだ。だからこの天使は天上に還っていってしまった。
 天使の死に顔は安らかですらあった。

 

 

 物言わぬ身と化した相手を抱きしめて、狂気の皇帝は天使の亡骸に触れ続ける。徐々にぬくもりを亡くしていく肌を、必死にあたためようとでもするかの様に。

 どんな名でもいい。偽りの剣士の名でも、愚かな皇帝の名でも構わない。ただもう一度、その柔らかな声で。
 名前を呼んで欲しい。

 優しい仕種で、そのぬくもりで。
 心を包んで欲しい。

 嘘の上に成り立っていた、あの遠くて近い、旅の日々の様に。

「アンジェリーク」

 重ねた唇は、もう冷たくなっていた。

「アンジェリーク」

 それでも腕の中に在る現実を認められず、皇帝は死した天使の名を呼びながら、ひたすらに唇を奪う。

「嘘だろう?  目を覚ましてくれ、アンジェリーク……」

 愛した少女は、二度までも翔び立っていってしまった。
 ただ自らの愚かさ故に。

 ───これが、報いか。

 愛しているのに。
 誰よりも、愛しているのに。

「アンジェリーク」

 もう何もかも、どうでも良かった。
 翔び立っていった愛しい天使の名を呼ぶことだけが、皇帝に残された唯一の行動だった。

 そしてそれに、答えは無い。

 その答えを奪ったのは、他ならぬ彼自身だったから。

「……アンジェリーク……」

 肉体の死者と精神の死者の語らいは、永劫に続いていく。
 しかし、それを知る者は誰ひとりとして居ない。

 

Fin.

 

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