2001年10月10日
2003年 3月27日修正・加筆

私の日本百名山



 「日本百名山」、言わずと知れた 故 深田久弥氏が1964年に著した山岳紀行の傑作である。また現在の登山ブームも「まず日本百名山ありき」といった感が強い。百名山に名を連ねる山々で出会う人たちに訊ねると、かなりの率で「百名山なので・・・。」とか「全座登頂目指してます。」といった答えが返ってくる。まぁ何でも目標があるというのはいいことなんだろうけど・・・。私には????なのである。

 そもそも日本百名山とは、一人の山男たる深田氏が登った山の中から、山の品格、歴史、個性などを百名山の選考基準とし百座を選定し、それとともにその山行とその時の心情などを綴った山岳紀行である。その文章から伝わってくるものは、今更私が言うまでもないだろう。そう、まさに名作であるのだ。
 私自身十代の頃にこの作品と出会い少なからず影響を受けた。しかしそれは名を連ねる山々の素晴らしさにではない。それらの山々に登って、見て、そして感じた氏の感性に、である。それこそが深田久弥という人物の文学であり、魅力なのだ。そう、日本百名山は私にとって、まさに文学作品だった。青っちょろい文学少年だった私が影響を受け、以来山に登り、川に遊ぶ、そういう少年に変わるきっかけを作ってくれた作品の一つである。少々大げさだが、この作品に出会わなければ、今の私は無かったかもしれない。

 著者である深田氏は、飾らぬ性格で、自然で素朴なものを愛し、山の俗化を憂え、山頂に立つ「○○岳」などという看板さえ忌み嫌うほど、人工的なものを敬遠したという。また自著「山頂の憩い」では「私の求めるのは非流行の山である」と書いている。近年の「日本百名山」の大流行とは、何とも皮肉な事象である。
 この日本百名山ブームによる「巡礼登山」は、未だ衰えを見せる気配はない。百名山に名を連ねる山々に全国から多くの登山者が押し寄せ、中には遠征の折り、下山後直ちに近傍にある次の百名山に回るという人も少なくない。何だか登頂座数を競い合っているかのようにも見えて些かせわしない、と感じるのは私だけだろうか。こうしたブームを当の深田氏が目の当たりにしたならば、一体何を思うのであろうか。

 このブームは日本の山岳地域に、(百名山への)局地的な登山者の集中による過剰利用(オーバーユース)という状況をもたらし、これによって「トイレ問題」、「登山道の荒廃」、「置き去りにされるゴミ」など、様々な問題が生じている山岳地域も少なくない。北海道においては、特に大雪山が深刻な状況にあるのは、既にご存じの方も少なくないだろう。

 これらの問題を憂慮する登山者や静かな山域を好む登山者などによって、作品「日本百名山」や著者である深田氏について、批判的な意見が発せられる場合も少なくないようだ。が、これはあたらないだろう。そもそも「日本百名山」という「作品」は、深田久弥氏自身が登った山の中から100座を自選し(これは決して山に優劣を付けたものではないと私は考える。誰にも好みの山というものがあろうし、これもただ単に深田氏の嗜好の基で選ばれたにすぎないのではないか?)、あくまでも著者自らの山岳紀行として著したものであり、ガイドブックではない。この作品についてどう捉えるかは、読者の自由だろう。だが、こうしたブームやそれに伴って生じる様々な問題など、氏自身の望むものではない事は間違いない。それは今一度、「日本百名山」をご一読いただければご理解いただけるだろう。
 「百名山」という言葉は、既に人気ブランド化してしまった感がある。これにより安全性に疑問の残る格安登山ツアーなどを催すツアー会社も散見され、これらに乗じてより多くの観光客を呼び込もうと躍起になっている地元自治体なども少なくない。これらを「自然の切り売り」だと感じてしまうのは私だけだろうか。
 そもそもの問題は、まず「百名山ブーム」ありきの、「主体性や探求心を欠いた登山者自身」、そしてこうしたブームを祭り上げる「底の浅い登山振興・啓蒙」にこそあるのではないか。そしてそこにも「経済最優先」に進められる「観光振興」などは見え隠れし、「日本百名山」はその目玉商品とされてはいないか。いったい彼らは「日本百名山」という「作品」の行間から何を読みとったのだろうか。

 私もこの作品「日本百名山」に少なからず影響を受けた者の一人である。が、私は百名山を目指そうとは思わない。これまでになりゆきで登った山が百名山のひとつであったりした事は度々ある。そういった山でも、そうではない山でも、私はその中で様々なものを見て、感じて、記憶を残してきた。そうした私の感性は山によって変わるものではないし、変えられるものでもない。本来山登りはそういうものだと思ってきたし、これからもそうだろう。こうした私の登山スタイルは、明らかに「日本百名山」からも影響を受けたものであろう。

 私にも私なりの心の百名山がある。でも実際それは百を超えてしまっているかも知れないし、足らないかもしれないが、あえて数えてみたことなどはない。だが、そんなことは問題にはならない。要は私自身の感性の問題であるのだ。