2002年4月24日

恐れるな、されど侮るな



 「ヒグマ」、北海道のアウトドア・フィールドを歩く上でその存在は誰もが気になるところだろう。毎年のようにヒグマによる人身事故が報道され、時には死亡事故も起きている。これによって極度にヒグマを恐れている人もいるようだ。だが恐れてばかりいては、北海道でアウトドアを楽しむことはできない。
 私も登山や渓流釣りのため、あちらこちらの山や森を訪れる。それらの経験を他人に話すとき、かなりの高頻度で言われるのが「そんなところに行くと熊がでるぞ」という決まり文句だ。しかし私とてそんなことは先刻承知である。北海道では、そういった場所を訪れるときには、常にヒグマと遭遇する可能性があると考えてよい。よく、鹿のいるところにクマは出ないとか、どこそこではヒグマの目撃例がないから大丈夫などという話も耳にするが、それらは何の根拠もないのが実際のところである。また人間による開発もかなり山奥まで進んだため、その生息域が狭められ、人間の生活圏と隣接、時には重複している場合もある。だが実際には会おうと思っても、なかなか会えないのがヒグマでもある。長年登山や渓流釣りを嗜んできた人でも、一度も出会ったことがないという人も少なくない。私の山仲間にこんなことを言う人がいる。

 「俺はクマに会ったことは無いが、クマの方はきっと俺に会ってるはずだ。(笑)」

冗談のようにも聞こえるが、十分に納得できる話だ。クマの方も人間とは会いたくはないのかもしれない。実際に私も森の中で、何者かの気配を感じることがあり、そういうときには大抵強烈な動物臭がする。明らかに近傍にクマがいる証である。しかし、そうした状況下でも遭遇することは少ない。きっとクマの方がやり過ごしてくれているのだろう。
 確かにヒグマの存在は我々にとって驚異である。ヒグマの棲む北海道のアウトドア・フィールドを訪れる我々は、ヒグマについて学び知る必要がある。つまりヒグマを学び知ることによって、ヒグマとの遭遇を未然に防いだり、遭遇時の対処を理解するということだ。それは自らの命を守るということであり、もはや義務でさえあると私は感じている。また北海道では人間を襲ったクマは、その瞬間から駆除の対象となり、人間の無知もまた、ヒグマに対する迷惑となるのだ。これは人間とヒグマとの共存を考える上でも、非常に重要な事である。
 北海道ではヒグマがいるのが当たり前である。生息域内でヒグマを目撃する事も当然ありうる事だ。それをむやみに騒ぎ立てたり、極度に恐れたりする必要はない。むしろヒグマが生息する山や森を歩ける幸せを感じたい。エゾオオカミが絶滅してしまった今、北海道に生息する唯一の、貴重な猛獣なのだから。
 また山林内に立ち入ってクマを目撃し警察署などに通報している事例もよく見かけるが、このような場合でも駆除の対象になる場合が少なくない。が、しかし、そこはヒグマの生息域内ではなかったか。そこでヒグマを目撃するということは当然であるとも言え、これにより駆除されるクマにしても、ただでさえ狭められてしまった生息域内にまで人間による驚異がおよぶのは、きっと迷惑な話に違いない。ヒグマと人間とのよりよい共生関係を築くために、我々人間の側も、もう少し事の道理を考えてから行動を起こして欲しいと感じる。

 北海道と同じくクマの生息するアラスカを愛した有名な写真家 故 星野道夫氏は自らの著書にこんな言葉を残している。
「もしこの土地からクマが消え、野営の夜、何も恐れずに眠ることができたなら、それは何とつまらぬ自然なのだろう」
 星野氏はアラスカの大地にクマが棲むということも、その自然の魅力として感じていたのだろう。彼の写真を見ればそれは一目瞭然だ。彼のクマに対するファインダー越しの愛情さえ感じる事ができるはずだ。だがその星野氏も96年8月8日、TV取材で同行したロシア・カムチャッカ半島のクリル湖畔で幕営中にクマに夜襲され亡くなった。

 さて星野氏がクマに襲われた原因とは一体何だったのだろう。氏は「ここのこの時期のクマはベニザケが多く遡上するため餌が豊富だから人間を襲うことはない」と一人で幕営していたようである。しかしヒグマ研究者の門崎允昭氏は「クマが人を襲い喰うことと、自然の餌の多寡には何ら相関性はなく、餌が豊富だから人を襲わないという考え方は誤り」としている。また星野氏はクマ害対策としてクマ除けスプレーを所持していたようだが、テント内から通用するはずもなく星野氏はクマの食害に遭い、加害グマは殺獲された。門崎氏は「鉈などで反撃していれば、生還しえたろう」とし、「野生に対する無知が、自然に迷惑をかけた実例だと思う」と苦言を呈する。星野氏の素晴らしき写真の数々を目にすると、こうした事が残念でならない。

 星野氏の事故や、道内での人身事故を見ても解るよう、ヒグマには希に人間を襲う個体もいる。決して侮ってはいけない存在だ。しかし必要以上に恐れていては北の大地は歩けない。が、我々はフィールドを訪れる時には必ず、クマとの遭遇を避けるための措置をとり、そして遭遇したとき、襲われたときのことを想定した何らかの対策をとる必要があるだろう。滅多に出会うことのないヒグマだが、ヒグマの方はもうあなたに会っているかもしれない。もしあなたがこれまでフィールドを訪れる際に、ヒグマに出遭った時、襲われた時の準備が出来ていなかったのなら、クマに出遭わなかったことに、出遭ったクマが人間を襲うような個体ではなかった偶然に、感謝すべきだろう。