2002年12月15日

食物連鎖の頂点は人間か羆か?



 大自然には大自然だけに通ずる「掟」がある。その掟の範疇にあればどんな侵略も、どんな殺戮も罪とはならない。どんなに残虐な猛獣も、その掟に従うものは罪に問われることはない。それが野生の裁きというものだ。すなわち「弱肉強食」である。

 食物連鎖という言葉がある。学生時代に理科の教科書などで、ピラミッド型の図解を用いて図説されているのを見た方も少なくないだろう。下位にある生物は自らより上位の生物に喰われ、その生物もまたさらに上位の生物に喰われる。その頂点に位置する生物は死後、最下位にある微生物などによって分解される。自然界にある命は全て繋がっている。また、その生物の個体数は上位となるにしたがって、少なくなる。これは喰い喰われるというバランスを保つ上で、重要なものである。

 「喰うこと」すなわち「食」は、私達人間にとってもその命を全うする上で、決して欠かすことのできない行為だ。人類はこれまで口に入るものは何でも喰ってきた。そしてそれは地域の特色なども伴い多様性を帯び、「食文化」として現代に伝承されている。
 我々日本人は、我が国最大の猛獣ヒグマまでをも食す。観光地などに行けば、土産物屋ではクマ肉の缶詰が売られ、食堂にはクマ肉を使用した料理がメニューに連なる。
 強いものが弱いものを喰らう。食物連鎖のピラミッドで上位にあるものが、下位のものを喰らう。果たして何者でも喰ってしまう私達人間は、食物連鎖の頂点に位置しているといえるのだろうか。

 その答えは否である。私達人間は自然界における強者ではない。仮に人間が強いとする意見があったとしても、その強さとは「文明」の上に成り立っているだけであり、決して自然界の一員としての強さではないだろう。
 だが私達人類もそもそもは大自然からやって来た。そして進化の過程で知恵を持ち、文明を手に入れ、様々な道具を生み出し、自らよりも強いもの、すなわち食物連鎖で上位にあるものまでをも倒す「力」を持った。だが、その「力」を持つことにより忘れてしまったものがある。それは大自然の「掟」なのではないか。

 さて、「大自然の掟」、すなわち「弱肉強食」とは一体どういうものであろう。大自然はそれぞれの生命に、それぞれの役割を与えた。それはそのまま喰い喰われる順番となり、その順序は決して入れ替わることはなかった。大自然の掟の下では、下位にある生物は皆、上位にある生物を恐れ、強さを誇るものも自らより強い相手を畏敬していた。下位の生物の恐れはそのまま本能となり、上位にある生物の接近を察知してその身を隠し、そう簡単には喰われることはなかった。強いものも弱ったもの、掟に触れた者から喰らう。大自然はそうしてバランスを保ってきたし、それは今後も変わることはないだろう。

 大自然において全ての生物は、自らより強い者を畏敬している。それはヒグマとて例外ではない。そして弱者は強者と出遭ったときには、恐れを隠さずその場を立ち去る。だが、もはや逃げることが出来ないとき、彼らは断末魔の叫びをあげることになるだろう。
 よく「クマに会ったら、クマが立ち去るまで睨み合え」という言葉を耳にする。これは大自然の掟を考えても的外れなものではない。もし私達が森でヒグマに出会ったなら、決して恐れてはならない。背を向けて逃げてはならない。悲鳴をあげてはならない。そうした行為はすなわち、自らが相手よりも弱者であることを証明することだ。
 つまりそのような中にあっては、ヒグマこそが紛れもなく北の大自然における頂点に位置する生物であり、領主であろう。

 だが文明を手に入れた人間は、ヒグマの強さを畏敬することもないばかりか、開発によってヒグマの生息域を狭め、深山に追いやってしまった。そして本能を忘れ森に立ち入った時にも、ヒグマの存在に気付いていない場合が多い。恐らくは自然界において人間は、ヒグマにとって鹿やキツネ以上にたわいもない獲物であるに違いない。
 文明は人間に、食物連鎖における自らの位置を忘れさせ、大自然から遠ざけてしまった。私達人間は既に大自然を構成する一員ではないのかもしれないし、大自然にとってももはや単なる闖入者でしかないのかもしれない。

 私達人間は有史以降、優れた知恵を持ち「文明」を手に入れた。その文明のひとつに「狩猟」がある。人類は道具を用いて、自らよりも強者である生物までをも狩ってきた。だが、私達の祖先はおごることなく、必要以上の殺生はしなかったし、北の大地における先住民族アイヌは、ヒグマを「キムンカムイ(山の神)」と呼び、畏敬の念を忘れることはなかった。
 そうした中でアイヌは、ヒグマに出会ったときに襲われぬ術を身につけた。その一つに「ヒグマに出会ったときに、自らの陰部をクマに見せる」というものがあり、アイヌの間で伝承されてきたと聞く。冗談のようにも聞こえるが、これは山を生活の場として、恩恵を享受し、ヒグマを畏敬し、狩ってきた者たちがその経験から生み出したものであり、そう考えると何ら不思議なものではないだろう。

 自然界には下位の立場にあっても、体の一部または全部を誇張することなどによって、上位にある強者から身を守ってきた生物がいる。すなわち「威嚇」である。中には全身を針や棘で覆われていたり、自らの体内に毒を持つ者や、毒はないが毒を持つ生物に姿形を似せた生物さえもいる。何という大自然の知恵であり、生命の神秘であろう。おそらくこうした「威嚇」という行動は、弱い立場にある者がその弱さを、自らが下位にあるということを、相手に悟られぬように行うものなのだろう。
 つまり「ヒグマに出会ったときに、自らの陰部をクマに見せる」という行為も一つの「威嚇」なのではないか。いや、威嚇そのものだと考えてもいいだろう。そう考えると前述した「クマに会ったら、クマが立ち去るまで睨み合え」というものもまた、威嚇と同様なものとして考えることのできる行為である。つまりヒグマに対して「威嚇」が必要な人間は、明らかにヒグマよりも下位にある生物だといえよう。

 私達人類の始祖あるいはそれ以前の種は、紛れもなく大自然の一員であり、食物連鎖のピラミッドを構成するものであったろう。そしてヒグマは、その頂点に君臨する者として、何ら臆することなく暮らしていたに違いない。
 現在人類はそのピラミッドの中からとって喰うだけである。大自然の掟を肌で感じ取ることも出来ない。そして今、強いものが弱いものを喰らうという自然の摂理さえも凌駕する、「文明」という力を持った人類。だが、傲ることなかれ。大自然の恩恵無くして我々人類は生きてはいけぬ。そしてそこではヒグマこそが頂点に位置する生物であり、北の大地の領主である。彼らの存在こそが「掟」なのだ。