2002年3月11日

追憶の川



 北海道の日高管内で渓流釣りをする者の間で語り草になっている一冊の本がある。タイトルは「染退川追憶」。昭和初期の染退川(シベチャリ川)を舞台にした、渓流釣りのノンフィクションである。その存在を友人に聞かされ、何としても読んでみたくなった。だがこの本は著者が私家出版したもので少数部しか発行されなかったため、今となっては入手困難な代物であるという。
 しかし私の場合、一度読みたいと思ったら何が何でも読まないと気が済まない。もう子供が駄々をこねるのと同じである。まず札幌市内のめぼしい古本屋は全てあたった。日高管内に住む友人、知人の全てに聞いて歩いた。が、その本は何処にも見当たらなかった。
 ところが、半ばあきらめかけていた頃にとうとう見つけた。それは私が探していた本そのものではなかったが、「染退川追憶」と「渓流の思い出」という2つの本の要部を抜粋、再構成したもので、そのタイトルは「秘境釣行記」(今野保著 朔風社刊)というものであった。
 私はこの本を、手にしたその日のうちに読み切ってしまったのだが、頁を一つ一つめくる度にため息がこぼれた。清冽な流れが岩を噛み、岸辺を洗い、白泡をたてて渦をなし、澄みきり、広い河原を埋めているのは大小とりどりの玉石。流れを取り巻く原始のものなる森は鬱蒼と生い茂る。私の心の中では既に、シベチャリ川が陽光燦々と降り注ぐ中を滔々と流れていた。

 さて、シベチャリ川とは現在の静内川のことである。この本には気が遠くなるほどの多くの尺ヤマメを釣り上げる場面が度々登場する。この時代の日本にスポーツフィッシングやらキャッチ&リリースなどという概念が存在する筈もなく、著者らはそれらをキープし、焼き干しにして食料として蓄えた。今日であれば乱獲だと非難される程の数だろう。だがシベチャリ川はそれすらも凌駕するほどの豊かな生産力を持つ健全なる清流であったのではないか。ヤマメばかりではなく、夏には河床が黒々と見えるほどの多くの鱒が遡上し、上流には息を飲むほどの大イワナが棲み、様々な生命のドラマが毎日のように繰り返されていたに違いない。またその場所は現在の高見ダムバックウォーターから上流部だと思われるが、当時は川伝いに行くのは不可能な場所で、山向こうの三石川かケリマイ川を遡って尾根を越えねばならなかった。そんな場所であるから人が訪れる事も希であったろう。
 僅か半世紀ほど前までの静内川はこんなにも素晴らしい流れであったのだ。いや、静内川ばかりでなく日本中の渓流はどこもそうであったのだろう。

 この本の冒頭で、三石川にてイワナを手掴みにするエピソードが登場する。これを読んで私の記憶は25年以上も前の夏の日に引き戻された。
 あれは確か私が小学校に上がった年の夏であったと思う。家族旅行で群馬県のある温泉へと出掛けた時の事だ。当時父は商売が忙しく、また決して裕福ではなかったが毎年のように私たちを旅行へと連れて行ってくれた。私たち家族が宿泊した旅館の近くには川が流れ、多くの釣り師が鮎釣りに興じていた。それは千葉と東京で生まれ育った私には初めて見る光景であり、それより何より川の美しさが目に眩しかった。川底の石を持ち上げると、そこにはクロカワ虫やピンチョロなどの川虫が蠢いており、流れの上を色とりどりのトンボが行き交い、流れを魚影が横切った。
 私は流れの向こうの中州が気になって仕様がなく、両親の目を盗んで歩いて川を渡った。が、底が見える、子供の私の臑ほどしかない水深であるにも関わらず、その流れの強さに驚いた。やっとの思いで辿り着いた中州は大小の玉石で埋め尽くされ、真夏の太陽がそれらを焼けるように熱くしていた。
 父がどこからか一本の竹竿を持ってきて、それにテグスを結び川虫を餌にした仕掛けを作ってくれた。しかし魚は見えているのに一向に釣れる様子はなく、父は「見えている魚はなかなか釣れないよ」と言った。だが私は何としても魚の姿を見てみたかった。
 ひとしきり時間がたった後、父は腰まで川に浸かり何やら水中に手を入れてモゾモゾとしている。そして次の瞬間私が目にしたものは、父の手に握られた一匹の魚だった。魚は太陽の光を受けて輝き、ピチピチと身をくねらせた。父はその魚の名前を「ハヤ」だと私たちに教え、水を張ったバケツに入れた。私と弟はバケツに頭を突っ込むようにして、いつまでもその魚を眺めていた。しばらくして、バケツの中にはもう一匹の魚が加わった。またも父は手掴みをしてきたのだ。2匹目の魚は「鮎」だった。
 父は続けざまに2匹の魚を手掴みで捕まえてきた。これは私にも出来るのではないかと、魚を追いかけ回すが、その手に触れることさえ出来なかった。結局子供には無理なのだと私はあきらめた。いつか、大人になったらきっと捕まえてやる。と、幼い心に誓った。
 輝く、力強い流れと、そこに溢れる生体反応、それこそが私の渓流での原体験である。無類の釣り好きで、この時魚を手掴みにした父は今も健在であるが、最近は魚が釣れなくなったと言い、毎朝のように通っていた東京湾での釣りにも行っていないようである。しかし先日、帰省した際に私の持っていたルアーを見て「これ置いていけよ」と言うので、ルアータックル一式を父に贈った。新たな楽しみを模索する父の目は少年のように輝いていた。

 シベチャリ川はその後いくつかのダムでその流れを遮られ、静内川と名を変えた。そこで釣れる魚もヤマメ、イワナからブラウントラウトやレインボートラウトになり、その澄みきった流れも今は昔である。何日も掛けて、山を越えなければ辿り着く事の出来なかった上流へと向かう道路が造成され、今も奥へ奥へと延び続けており、原始なものなる日高山脈を貫こうとしている。川は今、死に向かおうとしているのかもしれない。「染退川追憶」に描かれた流れは、お伽話になってしまうのだろうか。
 あの夏の日の清流は今も健在だろうか。生体反応で溢れているだろうか。魚を手掴みにしたいという私の願いは未だ叶ってはいない。

 かの有名な作家、故 開高健氏の著作に「私の釣魚大全」というのがある。その本のあとがきには日本中くまなく釣り歩いたが、何処にいっても魚が激減したと聞かされた、とある。またトルストイの短編だったと思うとして次のような物語を紹介している。「魚釣りに川へ行ったところ、一人の老人が現れ、何を釣っても横から、昔はもっと大きいのがいた、昔は魚でいっぱいだったという不満をさんざん並べて森に消えた。どうやら老人は森の神様であったらしい。」というものである。
 さらにこのあとがきは次のような一編の詩で結ばれる。
 もう日本の渓流では水はただ岩にあたって砕けるだけである。その淵かげから跳躍する貪慾でピチピチした、鮮烈で息のつまりそうな生体反応を川は失ってしまった。川も岩も不妊であり、冷感である。川も人もただ眼を伏せて、行方知れず、流されていく。だからいたるところの川岸に立札のたっているのが見えるではないか。そこには書いてあるではないか。
『喪中』
 今、あの夏の日の渓流で焼けるように熱くなった石で埋め尽くされていたあの河原にも、立札が立っているのだろうか。