2002年10月11日

幸福なる釣り



 皆さんにとって、「幸福な釣り」とは一体どのような釣りだろう。一般的に考えると、より多くの魚が釣れる事、あるいはより大きな魚が釣れる事であろうか。他にもある特定の魚種を釣る事に、幸福を見いだす釣り師もいるかもしれない。
 さて、釣りをする上で重要な要素とは一体は何なのか。もし魚が釣れる事が最も重要であるのならば、大量に成魚放流をすればいいのかもしれない。あるアンケートによると約8割もの釣り師が、「日頃よく行く釣り場では、成魚放流された魚でも許せる」と回答したそうだ。つまりそうした回答をした釣り師にとって、やはり魚が釣れるということはそれほどまでに重要な要素であるということか。まぁ、確かに「魚釣り」と言うくらいなのだから、それこそが目的であることは間違いない。だが、単純に魚を釣り上げるだけで良いのならば、人工的な釣り堀での釣りで充分なのではないか。
 かつて私は釣行を共にした友人に、「釣りに来てるんだから、釣れなければ意味がない」と言われたことがある。さらに彼は魚が釣れないと不機嫌になるという習性を持ち合わせていた。恐らく彼にとっては釣れることのみが重要だったのではないか。残念な事だが、私はもう彼と釣行を共にすることはないだろう。私と彼とではあまりにも価値観や、釣りという行為の中で求めるものが違いすぎた。そうした者と釣行を共にして気を遣うのは、私にとって苦痛以外の何ものでもない。では、私にとっての幸福なる釣りとは、一体どのようなものなのだろうか。

 私が毎晩見ているTVのニュース番組がある。その番組で先日「幸福論」と題した「幸福」について考える特集があり、そのコメンテータとして作家の村上 龍氏が出演していた。村上氏は非常に幅広いジャンルにわたって作品を発表しており、作品「限りなく透明に近いブルー」では芥川賞を受賞した事でも知られている人気作家だ。そこでの村上氏の発言に、私は非常に興味を惹かれた。その中で出てきた言葉をいくつか抜粋して紹介しよう。
  • この国には何でもある、だが希望だけがない。
  • 経済的勝者が、必ずしも幸せだとは限らない。
  • 日本に希望がなくても、あなたに希望があればいい。
 大いに納得させられる話だった。明日への希望はやはり重要である。希望のない日常ほど面白くないものもないだろう。私も常に希望を持っていたいと思う。希望さえあれば、それだけでも十分に幸福に生きていけるのではないか。極端な言い方をすれば、希望を持っている事こそが、幸福という事なのではないか。私も充実した精神生活を、幸せな日々を送りたいと考えているし、そのためにも「釣り」という行為を趣味にしている。
 私はこの話を聞いて、少々強引だと思いつつも、この言葉を釣りに例えてこんな風に考えてみた。
  • 川に行けば魚は釣れる、だが魚を育む環境がない。
  • 魚を釣った釣り師が、必ずしも幸せだとは限らない。
  • 今日魚が釣れなくても、魚を育む環境があればいい。
・・・・・・・・・・・・・・と、まぁこんなところだろうか?
 もし私が言うように「希望=幸福(或いは≒であろうか?)」であるならば、幸福な釣りとは魚を釣り上げる事そのものよりも、「魚を育む事が出来る、健全な自然の中にこの身を置き、釣りをすること」こそが幸福な釣りであり、重要なことは魚が釣れるという事よりも、そこに魚が居ることであると私には思えるのである。健全な環境下で魚たちが世代交代を繰り返し、繁殖していれば、もし今日魚が釣れなくともまた釣りに来ればいい。次にその場所を訪れる楽しみもあるし、それもまた一つの希望だ。もちろんそこに居る魚たちは人為によって放流されたものなどではなく、その土地に適応するべく、太古の昔より長い時間を経て形作られた、進化や遺伝の帰結である。

 私は常々、釣りという行為を「健全なる自然下でおいて、その土地で形作られ、育まれたあらゆる生命を感じながら楽しむもの」と考えている。また、釣りを文化として捉えた場合、これこそが後世に伝えるべき、「釣りの文化的要素」ではないかとも考えている。
 ところが今、こうしている間にもそうした貴重な自然が失われつつある。魚たちが健全に繁殖できるような自然環境も著しく減少した。中には釣り師らの認識の欠如による行為でそれらに拍車を掛けてしまった地域もあるだろう。一般的に自然が豊富といわれる北海道でもそれは例外ではなく、この半世紀ほどの僅かな間に、開発などによってこれほどまでに自然が失われてきた土地は世界的に見ても珍しいのではないか。
 また、全国的に遊漁を目的とした放流が盛んだ。魚を育むことのできる自然が豊富だといわれる北海道においても、人為によって川に放たれた魚を見ることは多い。だがこうした放流は、太古の昔より連綿として受け継がれてきた魚たちの遺伝子や、微妙なバランスの上で成り立つ自然界を大きく攪乱する行為に他ならない、と私は考えている。遊漁(釣り)が目的の放流であるからには、それを行っているのは少なからず釣りに関わる者だろう。だが、釣りに関わる者が自らの活動の場である釣り場、すなわち自然を攪乱するというのは、一体どういうことなのか。こうした環境下で行う釣りは、果たして文化的な行為なのだろうか。そしてそこで釣りをする者は本当に幸福なのだろうか。

 このままでは私達の「釣り」の将来はとても暗い。今こそ私達釣り師が力を合わせ、釣り場環境の保全に・・・・・・・・・などと言いたいところでもあるが、これとて商売っ気丸出しの釣り業界のプロパガンダに利用されてしまう。下手をすれば無秩序な放流行為の、体のよい口実にさえなりかねない。私達が子孫に伝承すべき、文化としての釣りは何処へ向かえばよいのか。そもそも一過性のブームに翻弄されているような行為は、文化と呼ぶには程遠いものだと私には感じられる。

 現在のこのような釣り事情の中から、未来の釣りはどのように変遷していくのだろうか。来るべく未来の釣りは、私達が心から楽しめるものなのだろうか。川は川であり、魚を育んでいるのだろうか。未来の釣り場に希望はあるのだろうか。そしてその時、私自身の「釣り」は、果たして幸福なものなのだろうか