2002年 1月10日
「ある放浪釣り師との出会い〜その1」 |
あれはもう5年ほど前の話であるから、確か1997年早春の事だったと思う。とあるフィールドに毎春恒例の釣行へと出掛けたときのことである。お目当てのポイントの入り口に偶然知人N氏の車が停まっていた。N氏は私の釣り仲間で、山のよき先輩でもある。早速私も支度を整えてそのポイントへと向かった。そこにはN氏ともう一人見知らぬ人物がいた。私は彼をN氏の知り合いだと思って話をしていたのだが、どうも勝手が違い尋ねてみると、今ここで会ったばかりだと彼は人なつっこい笑顔で答え、名は「太郎」であると簡単な自己紹介を添えた。 この日既にN氏は小さなイトウを一本、そのポイントで上げたと照れくさそうに言い「で、ここはどうなの?」と尋ねてきた。「私はいつもここ、あっちは人が多いから・・・。でも十分釣れますよ。」と私。このフィールドはシーズンを通して釣り師が多い。だがその多くは有名ポイントへと殺到する。私はその喧噪を避けるためいつもここだと決めていたし、実績も十分にあった。太郎さんは先程その有名ポイントへと行ってみたのだが人の多さに気後れして、どこかいいポイントはないかな?と探していたところで、やはりN氏の車が停まっているのが気になって覗いてみたらしい。そんなやりとりのあと、この日の釣りは始まった。 それなりに充実した一日のあと、日も暮れてテントの中で酒を酌み交わした。川の話、魚の話、釣りの話で盛り上がり、その中で太郎さんが実は北海道でイトウを釣りたい、というより見てみたいと仕事を辞めて茨城から来た放浪釣り師であることを知った。一般的にそこまでして北海道に来たのなら絶対釣ってやろうと、黙々、ガツガツと釣りをしてしまいがちな気がする。が、彼の釣りは非常にのんびり、ゆったりとしたものであった。だが未だ春早いこの時期、イトウは上流部に産卵のため遡上しているからイトウを感じられるような魚体にはお目に掛かれないかもしれない。と、私は彼に告げた。すると「え〜そうなの?まだ早いのかぁ〜。」と言いつつもそれほど残念そうではなかった。 翌朝は大層冷え込んだ。寒さの苦手な私はシュラフから出ることがなかったが、二人は釣りに行ったようである。日も高くなった頃戻って来たが、ガイドが凍るほど寒かったと言った。恐妻家のN氏は「今日までの約束で来てるから・・・。」と、ここで帰って行った。 この日の日中は凄まじいばかりの強風で、とてもまともなキャスティングが出来そうにない。しかし折角来ているのだからと水辺に立ち、二人でいろいろな事を語り合った。私は実際のところは釣りというよりも様々な生物を観察するのが好きであるとか、二人とも開高健の著作に影響を受けた事とか、ヘミングウェイの作品では何が良かったか、などなど。水際を見ると例年になくワカサギが多く見られた。ルアーを群の近くで引いてやるとワカサギがそれにぶつかる手応えが感じられたし、フックに引っ掛かってくるものまでいた。太郎さんはそのワカサギの群の往来に着いて回り、私は岸に残された氷の窪みに産み落とされたカエルの卵や、野ネズミによる植物の食痕を観察していた。水面は激しく波立ち、風の音ばかりが耳に残った。二人のロッドからラインが繰り出される事はなく、岸辺の岩に立て掛けたままだった。 日も傾いて来た頃、太郎さんが「今日はもうダメかねぇ〜。」と言うが、私は「これからですよ。」と答えた。私の経験と勘が正しければこの風は間もなく止む。そうすれば間違いなく水面は割れると読んだのである。こうしている間も風にもめげずキャスティングをすれば、それはそれで釣りになるであろうと、釣果を上げられる確信はあった。が、こんな風に思索にふけっているこの時間は、この日の私たちにとって充分満足のいくものであったのである。 日が大きく傾き、太陽が山の陰に入ると徐々に風はおさまり、波は静かになりつつあった。「そろそろですね。」私が言うと、しばらくして風は信じられないくらいにピタッと止んだ。水面はまるで鏡のようにあたりの風景を映し出し、その形を歪めることはなかった。私たちはロッドを手にし、それぞれ釣座に立った。聞こえてくるのはついさっきまでとは一変して、自らの息使いだけである。 次の瞬間、太郎さんの足許で水面が割れ、それを合図としたかのようにあちらこちらの岸際で魚たちは舞い踊った。魚たちは大きく口を開き、水際のワカサギを目掛けては跳んだ。中には勢い余って岸に乗り上げる奴もいたし、彼らが転げて水に戻ったあとには口から溢れたワカサギが残されていた。彼らは皆、50pを越えると思われる堂々とした体を私たちに見せつけるかのように何度も跳んだ。 私は口から飛び出してきそうな程に暴れる心臓を鎮めるため、一つ深呼吸をしたあと岸際に向けてキャスティングした。が、手元が狂いルアーは陸で踊った。慌ててリールを巻き再びキャスト、今度は狙い通りだ。直後、ロッドは大きく弧を描き、リールとラインは悲鳴を上げ、私の膝は震え、まるで鏡のようだった水面は大きく割れた。それを見ていた太郎さんが私の元へ駆け寄り、私から延びる細い一本のラインの先にいる「彼」を見て叫んだ。「イトウだ!イトウだっ!」 次回につづく
|