2002年 1月 8日

「釣りと文学〜私たちが残せるもの」


 古くから釣りは人気の娯楽である。近年では手軽な娯楽としてそのブームは爆発的なものがある。釣りにもいろいろあってその魚の数だけ釣り方もあろうし、釣り師の数だけ楽しみ方もあるのだろう。だが一般的に釣りというと、水辺で釣り糸を垂れて浮きを見つめているといったイメージが強いのかもしれない。釣りをしない人からすると「何て退屈な遊びなのだろう。」と思われる事も多いのではないだろうか。しかし釣り場での自然の営みや、一匹の魚と巡り会うために釣り師が思考を巡らせる姿などは度々、文学的でもある。
 我々釣り師の中には類希なる感性を持ち、優れた文学を残した先達がいる。アイザック・ウォルトンの「釣魚大全」、ヘミングウェイの「老人と海」などがその代表的なものだろう。我が国でも故 開高 健氏の「私の釣魚大全」、「フィッシュオン」などが有名だ。

 文学としての釣り、それは単に魚を釣り上げる行為を書き綴ったものではない。自然との対話であったり、あらゆる生命の力強さであったり、釣りを通して見た日常についての思慮であったりと様々だ。時には釣りや川の流れを通して人生そのものを表現しているものもある。それらの表現は釣果に左右されるものではない。当然単純な釣り紀行とは似て異なるのである。大事なことは釣り師としての在り方、感じ方なのだ。だからこそ我々は感動し、その世界観に憧れさえも持ち得たのだろう。
 これらの文学はいつの時代になっても決して色褪せる事はない。そうした側面から釣りを見たならば、これはもう十分に文化と言うに値するものであると思う。

 近年の釣りブームもあり、釣り業界の隆盛は目を見張るものがある。特にブラックバス関連市場は既に600億円にも上るという。また、この釣りブームも手伝ってか釣り道具の進歩も目覚ましく、もはや魚を確実に手にするための兵器であるかの如くである。釣り師はそれらの道具を手にし、無責任に溢れる情報を頼りに釣りに行く。しかしそこにあるのは前述した文学を読んだときに私たちが抱いた感情とは、全く別のものではないだろうか。ましてや文化と呼ぶには程遠い行為に思えてならない。
 また「小鮒釣りしかの川」と歌った唱歌「ふるさと」のような叙情的な世界とも無縁だ。来世紀を迎える頃には小鮒ではなく、何やらカタカナの名前が付いた魚に変わってしまいそうな気さえする。

先達は自ら体験した釣りを、文学という形の決して色褪せることのない文化として残してくれた。今日のこのような釣り事情の中で、私たちは次の世代に何を残せるのだろうか。?